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定子のように一条天皇には愛されなかったが…父・道長亡き後に宮廷のトップに立った彰子の波乱の人生

プレジデントオンライン / 2024年8月18日 19時15分

『枕草子絵巻』三巻本89段(画像=大和絵同好会/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

藤原道長の娘の彰子は、どんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「一条天皇との間に、敦成親王、敦良親王(のちのご朱雀天皇)をもうけ、道長の威信を大いに高めた。だが、一条天皇の寵愛を受けたとは言い難い」という――。

■皇后・定子が死んでなお「純愛」を貫く一条天皇

NHK大河ドラマ「光る君へ」の第30回「つながる言の葉」(8月4日放送)では、中宮定子(高畑充希)に仕えた清少納言(ファーストサマーウイカ)が書いた『枕草子』が、宮廷内で大きな評判を呼んでいる様子が描かれた。

この回で描かれた時代は寛弘元年(1004)ごろだから、長保2年(1000)12月に定子が亡くなってから、すでに3年以上が経過している。しかし、『枕草子』を詠みながら一条天皇(塩野瑛久)は「これを読んでおると、そこに定子がおるような心持になる」としみじみと語った。

横に控える定子の兄、藤原伊周(三浦翔平)が、「お上の后は昔もいまもこの先も、定子様お一人にございます」と煽ると、「生まれ変わって、ふたたび定子に出会い、心から定子のために生きたい」と、あらためて亡き定子への純愛を吐露した。

一条天皇の「純愛」について、山本淳子氏はこう書いている。「天皇の結婚は、政略結婚であることが当然である。一条と定子の場合も、典型的とさえいってよい。だが政治の問題とは別に、彼女との出会いは一条の人生を大きく変えた。男女間の『純愛』は明治以降に輸入された概念だというが、一条と定子との関係を表すにはこの言葉がもっとも適切なように感じられる(『源氏物語の時代』朝日新書)。

■なぜ一条天皇は彰子を受け入れたのか

しかし、これでは一条天皇の気持ちが、藤原道長(柄本佑)の長女で、長保元年(999)11月に数え12歳で入内した彰子(見上愛)に向くとは思えない。第30回でも、一条天皇が彰子のもとを訪れる場面があったが、それはあくまでも、彰子が養育している敦康親王(定子が産んだ第一皇子)の相手をするためだ。

WOWOWの連続ドラマ「ゲームの名は誘拐」の完成披露試写会に登壇した見上愛さん
写真=時事通信フォト
WOWOWの連続ドラマ「ゲームの名は誘拐」の完成披露試写会に登壇した見上愛さん(=2024年5月28日、東京都江東区のユナイテッドシネマ豊洲) - 写真=時事通信フォト

その様子を遠くから眺めていた道長の正妻で彰子の母、倫子(黒木華)は、「なにゆえに帝は中宮様(註・彰子)を見てくださらないの? 中宮様がなにをなさったというの? 皇后さま(註・定子)が亡くなられてもう4年だというのに、このままでは中宮様があまりにも惨め」と嘆く。

そして道長に頼み、一緒に内裏に一条天皇を訪ねた。倫子は、藤原行成(渡辺大知)が写した白楽天の『新楽府』を中宮のためにと渡したうえで、彰子を受け入れるように一条天皇に直訴したのである。一条が「朕を受け入れないのは中宮のほうであるが」と伝えると、倫子は「どうか、お上から、中宮様のお目の向く先へお入りくださいませ」と頼み込んだ。

道長は最高権力者とはいえ所詮は臣下。その妻が内裏に出向いて天皇に直訴することなどあり得たのか――という疑問はさておき、一条天皇が彰子を顧みなかったのはまちがいなく、その状況が伝わる描き方だった。

しかし、一条天皇は最終的には彰子を受け入れる。なにがきっかけだったのか。

■なぜ道長は紫式部を抜擢したのか

実際、『枕草子』の力もあって、一条天皇の気持ちは定子から離れなかった。前出の山本淳子氏はこう記す。「『枕草子』のある限り、定子はその中で生き続ける。生前よりももっと魅力に満ちて。何よりも、生ける彰子を凌駕する存在として。これでいいのか。いや、決してよくはないが、どうすればよいのだ。時の最高権力者・道長にしても、この小さな文学作品の持つ力を前にして、太刀打ちする術もなかった」(『道長ものがたり』朝日選書)。

一条天皇は元来、文学好きだった。当時の宮廷社会では、男性にとって文学といえばまず漢詩。一条も少年時代からこれを好み、失脚する前の伊周をたびたび呼んで漢詩の話をさせ、ときに深夜におよんだという。

そんな一条天皇だからこそ、なおさら『枕草子』に心を奪われたのであれば、道長も文学で対抗しようと考えるのは自然である。また、紫式部に白羽の矢が立ったのも、そう不自然なことではない。

道長と紫式部がかつて恋人同士だったからではない。紫式部の死んだ夫、藤原宣孝は道長の部下で、宇佐から帰ると道長に馬を献上するなど関係は濃厚だった。また、紫式部の父の藤原為時が、越前守として赴任できたのも道長の差配だった。そのうえ紫式部は、道長の正妻である倫子の又従兄弟(またいとこ)だった。紫式部は自分の才能が、最高権力者たる道長に伝わりやすい位置にいたのである。

■文学には文学で対抗する

紫式部が『源氏物語』を書きはじめた動機はわからない。最初は、夫を失った心の空虚を満たすためだったのかもしれない。しかし、大作を仕上げるに当たっては、まちがいなく道長が関与している。

源氏物語絵巻、二十帖『朝顔』
源氏物語絵巻、二十帖『朝顔』。土佐光起筆(画像=バーク・コレクション/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

倉本一宏氏は、当時の紙が非常に高価だったことに着目し、次のように記す。「紫式部はいずれかから大量の料紙を提供され、そこに『源氏物語』を書き記すことを依頼されたと考える方が自然であろう。そして依頼主として可能性がもっとも高いのは、道長を措いては他にあるまい」

その道長の目的については、「この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげるつもりであったことは、言うまでもなかろう」とする(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

宮廷の外で物語を書きはじめたと思われる紫式部は、おそらく寛弘2年(1005)の末から、彰子の宮廷に出仕した。『源氏物語』もその作者も、道長によって囲い込まれたことになる。倉本氏はこう書く。「紫式部の出仕が、『源氏物語』のはじめの数巻による文才を認められてのことであることは間違いない」(前掲書)。

■道長がこれほどまで大騒ぎをするなら…

道長の策は功を奏したようだ。『紫式部日記』には、次のような記述がある。

「内裏の上の、源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞しめしけるに、『この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし』とのたまはせけるを(一条天皇が『源氏物語』を人にお読ませになられ、お聞きになられていたとき、『この作者は日本紀を読んでいるみたいで、じつに学識があるようだ』とおっしゃるのを聞いて)」

つまり、一条天皇は『源氏物語』を人に読ませ、聞いて、感想を述べていたのだ。作者が『日本紀』に通じていることをすぐに見抜くのは、むろん、一条天皇にも学識があったからである。そういう天皇を物語で釣るという道長の作戦は、一定程度、成功したということだろう。

その後、寛弘4年(1007)8月、道長は山岳修験道の聖地である金峯山(奈良県吉野町)に詣でた。願ったのが、彰子の懐妊と皇子の誕生であったことはいうまでもない。実際、入内から丸8年を経たこの年末、彰子は懐妊した。『栄花物語』はそれを、道長の願いが仏に届いたからだと書く。

その解釈は、当たらずとも遠からずといえよう。道長の金峯山詣ではあまりにも大がかりだったので、一行は都を留守にして大丈夫なのかと心配するほどだったという。最高権力者の道長がここまで必死である以上、一条天皇も放ってはおけなくなっただろう。

山本氏はこう書く。「道長がこれほど大騒ぎをしてまでも彰子の懐妊を求めるのなら、男でも女でもいいから、とりあえずは子を産ませなければなるまい。そう思った天皇は、おそらく明らかな意図をもって彰子に接し、その後は期待をもって見守っていたのである」(『道長ものがたり』)。

■天皇に愛された定子、愛されなかった彰子

寛弘5年(1008)9月11日、彰子はついに一条天皇の第二皇子、敦成親王(のちの後一条天皇)を産んだ。さらに翌寛弘6年(1009)11月25日には、敦良親王(のちのご朱雀天皇)を出産し、道長の威信を大いに高めるのに貢献した。

だが、だからといって、一条天皇の寵愛を受けるようになったとはいえない。一条天皇が彰子に接したのは、あくまでも道長を立てざるをえないという政治的な理由からだと思われる。「光る君へ」の第30回で描かれた、倫子の母としての悲しみが解消し、母としての願いが叶ったかどうかは別の問題だった。

寛弘8年(1011)5月には一条天皇は発病し、翌月には三条天皇に譲位。出家するものの32歳の若さで崩御している。

したがって、彰子が一条天皇から愛されることは、なかったのかもしれない。だが、長和元年(1012)に彰子は皇太后になり、寛仁2年(1018)には太皇太后になる。そして道長が政界から引退したのちは、天皇の生母である国母として、弟の頼通らと協力して摂関政治を支えた。

その後は伯母であった東三条院詮子と同様、女院号を賜って上東門院と称し、87歳の長寿を全うした。この時代の長寿ゆえ、子や孫に次々と先立たれながら、摂関政治の終焉まで見届けた。夫に痛いほど愛され24歳で逝った定子と、夫に愛されることはなかったが宮廷のトップで長寿を全うした彰子。それぞれに不幸であり、それぞれに幸福だったということだろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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