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野村証券役員から食器店の後継者に…役員報酬を捨てた59歳が「おおむね幸せ」と穏やかに笑う理由

プレジデントオンライン / 2024年8月20日 10時15分

色彩豊かで絢爛なベンジャロン焼。草花の絵柄を幾何学模様のように細かく絵付けするのが特徴だ - 筆者撮影

定年退職後の「充実した第2の人生」とはどのようなものか。野村証券執行役員、LINE証券会長を務めた野村学さんは、今年3月に退職してからバンコクに移住し、タイの伝統工芸品「ベンジャロン焼」の店を親から受け継いだ。現地で取材したノンフィクション作家の野地秩嘉さんが書く――。

■タイで絢爛な磁器を売る元野村証券マン

タイ・バンコクの中心部、BTS(都市高架鉄道)のナナ駅とアソーク駅の中間に磁器製品を売るタイ・イセキュウの店舗がある。表の看板には「ベンジャロン」と日本語で書いてあるように、主な客は日本人観光客と同じく駐在員だ。タイ・イセキュウが製造販売しているベンジャロン焼とは金色の色彩が目立つ絢爛なデザインの磁器で、かつては王室専用の焼き物だった。

「約600年前、中国からアユタヤ王朝に輿入れしたプリンセスが、皇帝だけが使う華やかな磁器を持ち込みました。その美しさに魅せられたアユタヤ国王は、陶工を中国に派遣し、当初はそこで製造されたものを輸入して使っていました。やがてタイで独自に発展し、中国では三彩であったものが、タイでは五彩のベンジャロンとなったのです」(同社ホームページ)

同店舗の階上にある事務所には社長の野村学がいた。2023年の秋まではLINE証券の会長だった。野村證券で執行役員まで務めたが、両親がタイに持っている会社を継いで、経営するために単身、やってきた。妻は東京の三軒茶屋にある留守宅を守っている。娘ふたりはすでに成人した。だから、彼はひとりで赴任している。

■移住3カ月でさっそく売り上げを2倍に

野村は言った。

「タイ・イセキュウは年商3億円で従業員は10人です。私の父が窯業関係の技師で、タイに来た時、ベンジャロン焼にほれ込んで作った会社なんです。1979年に勤めていた会社を辞めて、父と母はそのままバンコクに残りました。ふたりは日本に帰らず、タイで仕事をしていました。父は20年前に亡くなりましたが、母は元気で今も店に出ています。

この会社を作る時、父は独力では無理なので名古屋にある名門商社の伊勢久さんに出資してもらいました。扱っているのはセラミック原料です。顔料、釉薬(ゆうやく)といったものを日本から輸入してタイ国内と周辺のアジア諸国に販売する。これが売り上げの9割くらいで、ベンジャロン焼は1日で1万円から2万円くらい売れればいいといった商品です。

しかし、私自身は父が大好きだったベンジャロン焼をもっと知られるものにして、売り上げも10倍くらいに伸ばしたい。実際、タイに住み始めて3カ月ですが、現状でも昨年対比で2倍になりました。個人の観光客、駐在員に売るだけでなく、タイに進出している日本企業にまとめて買っていただくよう営業しています。野村證券にいた頃はずっと営業でしたからBtoBの営業は慣れています」

■1客1万円近くするコーヒーカップも

出資してくれた伊勢久は試薬、化成品、メディカル、セラミックスを扱う商社だ。創業は1758年(宝暦8年)、江戸時代である。売り上げは289億円で従業員数は約240人。タイ・イセキュウには常時、ひとりが駐在している。現在の担当は新貝達矢。新貝はベンジャロン焼以外の営業をしている。

ベンジャロン焼
筆者撮影

店頭にあるベンジャロン焼はコーヒーカップ、ワイングラス、抹茶茶碗、小皿、香合、装飾品の壺といったもの。価格はコーヒーカップが1客で日本円にすると7000~8000円だ。決して安いものではない。いずれの商品もタイ王室御用達の高級磁器らしい値段である。

バンコクの高級タイ料理店に行くとベンジャロン焼の壺が飾ってあることに出くわす。料理を盛る皿というよりも、飾り皿として使われることが多いのではないか。タイ料理を盛る皿としてはセラドン焼きという青磁の器、もしくは染付(青花)の磁器が一般的だ。

こちらもまたバンコク市内だけでなく土産品を売る店舗がある。また、ベンジャロン焼はタイ・イセキュウだけで売っているわけではない。バンコク市内にも店舗があるし、同市内から70キロ離れた場所には「ブランベンジャロン」というベンジャロン焼の里がある。日本でいえば益子焼の益子のようなものだろう。

わたしはそこには行っていないが、市内の他の店舗は見た。置いてあるベンジャロン焼の種類、値段はどこも変わらない。ただ、タイ・イセキュウでは店内でタイ人従業員が絵付けをしている。また、絵付け教室も開いている。

■煌びやかな五彩にエキゾチックな文様が特徴

野村は言った。

「うちにある商品は駐在している日本人、そして日本人観光客の方が買い求めていきます。カップや茶碗の胴の部分が薄いわけではないので、パッキングして機内に持ち込めば割れることはありません。絵付け教室に来る方は主に駐在員の奥さまですね」

ベンジャロン焼
本人提供

ベンジャロン焼の特徴は絢爛なこと。花や葉っぱを図案化して細かいパターンにしてある。そして、金色の他、赤、青、黄色、緑、白と5色を使い、華やかに仕上げてある。

ただし、タイ・イセキュウの店には野村の父親、母親が考えたとみられる日本風意匠の製品がある。有田焼、九谷焼のような日本の磁器に似たもので、白の余白が目立つ製品だ。本来のベンジャロン焼は金色と5色のそれなのだろうけれど、日本に戻って食卓に置いたら、土産物という感じが強調されるのではないか。

一方、白の余白が多く、金色を配したベンジャロン焼であればエキゾチックな気配を残しながら、上品な印象が保持される。余計なお世話だけれど、わたしなら白の余白が多い控えめなベンジャロン焼にしておく。

■入社後、両親がいるタイ赴任が決まっていたが…

野村学は1965年、群馬県桐生市で生まれた。9歳の時、両親に連れられてタイにやってきて、4年間、同地で暮らした。

中学に進学するに際して、父親と母親はタイに残ったが、野村は帰国し、父親の実家がある桐生で祖母とふたり暮らしをした。大学に入学した時、上京し、卒業後は野村證券に入社した。この間、父母はバンコクに赴任していたから、彼は進路をひとりで決めた。

彼は思い出す。

「野村證券に入社して振り出しが高崎支店でした。その後、僕はタイに赴任することになっていました。やっと父と母と暮らすことができると思っていたのですが、最初に生まれた子どもが重い心臓病にかかりました。看病するため、タイへ行くことをあきらめて日本に残るしかありませんでした。結局、その子は4歳で亡くなりました。ええ、悲しいことですけれど、もう大丈夫です。すみません。

その後もタイへ行くことはなく、海外業務本部に行き、それからは法人畑でした。上場会社のファイナンスとかM&Aの担当です。自動車のトップ企業を担当しましたから大きな商売をさせていただきました。それからは社長秘書もやりました。当時の古賀信行社長の秘書でした」

タイの伝統工芸品「ベンジャロン焼」を製造、販売するタイ・イセキュウ社長の野村学さん=2024年7月、バンコク
筆者撮影
タイの伝統工芸品「ベンジャロン焼」を製造、販売するタイ・イセキュウ社長の野村学さん=2024年7月、バンコク - 筆者撮影

■「10兆円ディール」を達成した辣腕

「そして、執行役員になってからは法人営業をやって、その後、野村インベスターズリレーションズの社長を5年半。赤字会社だったのを黒字にして史上最高益を達成しましたけれど、私が優秀だったのではなく、時期が良かっただけです。会社人生はおしまいかなと思っていたら、2021年にLINE証券の会長をやれ、と。私自身は今年3月に退職しました。野村證券もLINE証券の株取引からは撤退です」

淡々と語る野村は典型的な証券マンの風情ではない。押しの強さは感じないし、饒舌でもない。

「私の会社人生でいちばん成績が良かったのは東京で法人担当役員だった時でした。70人のチームで目標は5年間で10兆円のディールを達成すること。インベストバンキングの部隊で、もう土日もなかったと記憶しています。最初から10兆円が目標ではなく、業績を達成するたびに目標がどんどん上がっていった感じです。もうトラブルばかりでした。トラブルをどう解決していくかが役員の仕事、私の仕事でした。

営業の基本は相手を知ることに尽きます。例えばある会社に投資案件を持っていく。誰が賛成していて、誰が反対しているか。それを把握していないと営業はできません。でも、もちろん、簡単には教えてくれませんよ。賛成してくれている相手、反対している相手の中にするっと入っていくことができなくてはいけない。反対している人を敬遠するのではなく、反対の理由を知り、それを解決する」

ベンジャロン焼
本人提供

■野村の営業の強さは「駅伝です」

「反対している人にも信頼される人間にならなくてはいけない。結局、人は信用する相手と仕事をするんです。そして、すぐには信用してくれません。付き合って3年たち、5年たち、10年たてば、人は信用してくれます。長期継続的に取引していることが信用なんです。

証券会社の営業マンといえば押しが強ければやれると思われていますけれど、そんなことはないです。長期的に取引してもらえる人間になるしかない。野村證券のいいところって、押しの強さではなく、長期でモノを考えていることなんです。そして、得た人脈、取引はすべて後輩に渡す。野村の強さって駅伝ですよ。自分で独占するのではなく、どんどん次の担当に渡す。それがずっと続くんです」

彼は2024年3月31日に退職して、自宅に帰ることなく、羽田に行った。その日の深夜便でタイに行き、翌日の4月1日にはベンジャロン焼の営業に出た。

ベンジャロン焼
本人提供

「『うちの会社で経営しないか』という具体的な話もいくつかありました。しかし、母親が80歳を超えてひとりでタイにいるのに、私が日本で働くわけにはいかない。もう、母親は仕事ができる状態ではないんです。住居と店舗を往復するだけでここ数年、それ以外のところには行っていません。飛行機に乗って日本に戻ってくることも体力的にできないんです。父親の墓もバンコクにあります。母はタイに骨をうずめるつもりでいます。最後に私がそばにいるのがとても自然に感じたのです」

■なぜ、第2の人生に「タイの焼き物」を選んだか

業界トップの野村證券で早くから執行役員になったのだから、野村は仕事ができる男だ。そして信用も人望もある。「辞める」と聞いた、ある野村證券OBの有名経営者は「私の後継者になってくれ」と言ってきた。誰もが知っている金融企業である。

だが、野村は誘いを断り、単身、タイへ行くことを決めた。野村證券時代に稼いだ最高年収は8000万円。今はその20分の1しかない。それでも、父親が始めた事業を受け継いだ老齢の母親がたったひとりで頑張っているのだから、それを見捨てるわけにはいかない。

会社員をやめてセカンドキャリアを始める場合、誰もが自分で自由に仕事を選ぶことができると思い込んでいる。しかし、実際に定年退職した人間のうち、好きなことをできる人はそれほど多くはないのではないか。野村のケースに見られるように、両親を介護したり、生活を共にしたりする時期にあたる。

セカンドキャリアで好きなことができるのは幸運な人たちなのである。セカンドキャリアの夢を描くのはいい。しかし、実際にはその時になってみなくてはわからない。人生はそれほど思う通りにいくものではない。

■新たな自分の才能を発見することもある

野村はタイが好きだからタイに来たのではない。ベンジャロン焼に恋をしてしまったから、バンコクにいるわけでもない。父親と母親の夢を続けるためにタイに来た。繰り返すが、人生は思い通りにはいかない。しかし、思いもよらない現場で新たな自分の才能を発見することもありうる。

事実、野村はベンジャロン焼の商品開発をしながら、自分の才能に気づいた。父親と母親がやらなかった新しいベンジャロン焼の商品を開発し始めている。

野村がベンジャロン焼の販売で力を入れようとしている点は3つある。

ひとつはDX。ホームページを作り、客からの問い合わせに答えられるようにした。FacebookやInstagramも始めた。高齢の母親と熟年のタイ人従業員ができなかったDXの整備により、店に立ち寄る観光客の数は2倍になった。

ふたつめはBtoBの営業だ。タイに進出している企業の周年行事、イベント、ゴルフコンペの記念品としてベンジャロン焼の飾り皿、コーヒーカップなどを受注している。タイ・イセキュウには絵付け専門の従業員がいるので、企業の担当者と打ち合わせをして、オリジナルデザインのベンジャロン焼を提案できる。野村が野村證券にいた時代に会得した「客を知ること、客の立場になること」から始めた法人営業だ。彼がタイに来てから売り上げが上がったのは法人営業で結果を出したからである。

ベンジャロン焼
本人提供

■数千円のカップを売る仕事も同じくらい大変

3番目は新商品の開発。日本の九谷焼の窯元「鏑木商舗」が応援してくれたため、リーデルのワイングラスのステム(持ち手)部分にベンジャロン焼が採用された。ガラスのボウルと絢爛なベンジャロン焼のステムとの対比が楽しめる商品だ。これもまた野村が社長になったからこそできた商品開発だった。

本人提供
石川・九谷焼の窯元「鏑木商舗」の鏑木基由当主との打ち合わせの様子。野村さんは今後、ジュエリーの商品開発にも力を入れていくという - 本人提供

野村は嘆息する。

「野村時代は10兆円の仕事のプレッシャーで大変でしたけれど、1客数千円のコーヒーカップを売る仕事も大変です。売り上げは上がっていますが、儲けるまでには至っていません。しかし、生涯でふたつの仕事ができて、しかも、ふたつの国で暮らすことができて、おおむね幸せだと思っています」

コーヒーカップを売る仕事にも野村證券時代の経験が生きているのだから、彼のセカンドキャリアは充実している。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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