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「死んでもええから、帰らせてくれ」…生まれ故郷ではないのに「被災地に住みたがる老親」の説得を私が諦めた理由

プレジデントオンライン / 2024年8月23日 7時15分

ポンプ車で、まちの中に溜まった水を抜いている貴重な記録(出所=『今すぐ逃げて!人ごとではない自然災害』p26) - 写真=国交省提供

自宅が地震や大雨で被災したら、生活はどのように変わるのか。2018年の西日本豪雨で家が浸水した金藤純子さんは、両親と共に避難した病院で孤立状態に置かれ、30時間後に自衛隊のボートで救助された。体験談を綴った『今すぐ逃げて!人ごとではない自然災害』(プレジデント社)より、一部を紹介する――。

■自宅に入れたのは被災して3日後だった

自衛隊による救助後は、私たち家族は親族宅に身を寄せることができたので避難所には入りませんでした。しかし、すぐに真備町の家に向かったわけではありません。小田川の土手まで迎えに来てくれた同僚に最初に連れて行ってもらったのは、ユニクロです。着の身着のまま避難したため、両親も私も、着替えの洋服、下着も靴も持ち合わせていなかったからです。

さて、皆さんは、水害の後、すぐに自宅に入れると思っていませんか? 私が実家に入ったのは被災して3日後の7月10日でした。

街の4分の1が冠水した真備町では、決壊箇所から市街地に溢れた水をポンプで川の下流側に戻して、破堤部分に盛土をして応急復旧が施されました。こうして被災後3日後にようやく水が引いたので真備町内に車が入れるようになり、帰宅できたのです。真備町では排水ポンプ車が23台も集結し7月8日~11日まで作業が続いたそうです。

■重たい冷蔵庫や家具が水流でひっくり返っていた

こうして久々に対面した2軒の家の様子は惨憺たるものでした。何より驚いたのは、家具が動いていたということです。実家の冷蔵庫は倒れ、応接間のキャビネットは横転し側面が下になっていました。和室のドアは重い婚礼家具が塞いでしまって開きません。入ってきた水が家の中で、物を浮かせて動かしてしまっていたのです。たしかに、病院の待合室の椅子も水で流されてぐるぐる回転していましたが、あれと同じことが自宅内でも起きていたのですね。

実家の台所
写真=著者提供
実家の台所(出所=『今すぐ逃げて!人ごとではない自然災害』) - 写真=著者提供
実家の応接間
写真=著者提供
実家の応接間(出所=『今すぐ逃げて!人ごとではない自然災害』) - 写真=著者提供

室内に入ってきた水で押し流された家具に挟まって逃げられず命を落としてしまった方もいたそうです。それを聞くにつれ流れる水力の凄さを見くびってはならないと思い知らされました。

結局実家は1階の天井まで浸水しており、私の住まいはアパートの2階だったのに、テーブル下まで浸水していました。しかもアパートの冷蔵庫には汚水がたまっていました。

■最も過酷な作業は床をバールで壊し、泥をかき出す

そんな家の片付けをしなければいけません。これが想像を絶する過酷な作業でした。ほとんどの戸建てでは、台所やお風呂、トイレといった水回りは1階に配置されていると思います。

汚泥が家の中に入り込んでいるので、まずは家財を全て戸外に運び出し、畳や板の床をバールで壊し、ひき剥がします。そして床下の汚泥をスコップで運び出します。床下に汚水や汚泥が残っていると、雑菌や白蟻などの害虫が繁殖し、湿気で柱が腐食するからです。

土壁のお宅では、乾かして泥を穿(ほじく)り出す作業が延々と続きます。高圧洗浄車を手配し、屋根や外壁、柱の汚泥を除去してもらいます。湿気を取り除くため、どの家も窓を開けっぱなしで作業を行い、夜は避難所や仮設住宅に戻って寝ます。

夏の洪水です。台所の食品は泡を吹き、壁紙や絵画にカビが生えていきました。ものすごいニオイです。仏壇から位牌と数珠を取り出そうとしましたが、水で膨らんだ小棚が開きません。結局、他県で暮らす成人した息子が戻ってきたときに、息子が鉄のバールで仏壇を壊してくれ、ようやく開けることができました。畳は水を含み、男性6人で1枚の畳を外に出すのがやっとでした。

■幼少期の写真は溶けてなくなってしまった

水を含んだ木製家具、机や椅子が日に日に膨らんでいきました。細かい粒子を含む汚泥が入り込んだ家電は危険なので廃棄しなければいけません。自分たちの家財が、災害ゴミとなって道路を埋め尽くしました。乾いた汚泥が砂埃となって、いつも空中をさまよい、霞んでいました。何かわからない臭いが長期間続き、マスクなしで片付け作業はできません。しかし、洗おうにも水道は流れず、停電しているので異常な暑さの中の片付けです。

婚礼ダンスの中の着物を出してみると、一瞬泥などがついていなくて大丈夫だと思ったのですがあっという間にどんどん色が抜けていきます。そして、後回しにした思い出のアルバムの写真は濡れた写真同士がくっつき、カビが生えていました。

写真洗浄について知識がなかったため、早期の処置ができず、私の生後1カ月から幼稚園児だったころの白黒写真が失われてしまいました。母が私を抱っこしている写真が溶けてなくなってしまう。これがもう私が一番つらかったことです。

ボロボロになってしまった昔の写真
写真=著者提供
ボロボロになってしまった昔の写真(出所=『今すぐ逃げて!人ごとではない自然災害』) - 写真=著者提供

■水災補償を契約していなければ保険金も出ない

物がなくなってもまた買えます。しかし、写真というのは、やはり特別なのです。チリチリパーマをかけた若かりし日の母の姿をとどめた、昭和の写真がなくなるというのは辛い……。これが水害なのです。

思い出が消えてしまう。ハザードマップをちゃんと見ておけば、と悔やまれてなりません。片付けと並行で家を更地にして新築するのか、リフォームするのか、他の地域に転居するのかを決めていきます。

しかし、ここで火災保険の水災補償を契約していなければ、保険金が出ません。義援金だけではとても家を建てられないので、二重ローンを抱えなければ、転居新築をすることもできません。

また、大工さんの数が足りないので、住宅再建には相当な時間を要します。わずかに残った家財を狙う窃盗団も現れます。大工さんの知り合いは、仕事道具である工具が盗まれてしまったそうです。そうしたことから、避難所に入らず、自宅の2階で寝起きしながら、家屋の再建を図った住民もいます。真っ暗な街に灯りがともることがない。電気のある夜景に慣れた目には、車で真備町を通り抜けるときに家が建っているのに真っ暗な街の異様さを感じたことでしょう。

■家財道具を運び出せても、洗うための水が出ない

さて、被災後は私が当時勤めていた会社の同僚が、被災してからすべきことや参照すべき情報サイトを教えてくれ、日ごとの作業行程を組んでくれました。その上で、「金藤さんは被災者本人しかできないことに集中する。息子さんは現場の指示を行う総監督的な役割をやってもらおう」などと役割分担を決めるように助言もしてくれました。

被災者本人しかできないことというのは、たとえば代車を素早く手配したり、り災証明書を役所に取りに行ったりすることです。また、貴重品だけでなく、家族との思い出の大事な品々も手元に集めることは本人にしかできません。

一旦泥まみれになってしまうと、ボランティアで来ていただいた方たちには見分けがつかず、災害ごみとして廃棄されてしまいます。息子の運動会の動画や旅行の記録もそうです。「でもこれを残してほしい」と指示をしなかったので仕方ありません。

片付けでは、合板で作られた家具は水を含んで膨れ上がってしまい捨てることになるのですが、1枚1枚のしっかりした板で作られた家具はまだ使えます。泥まみれの鍋や食器も洗って消毒すれば使えます。細かい泥が固まる前に水で早く流したいのですが、被災して水や電気が止まっているため、洗えません。

■2カ月間、頭痛と下痢に見舞われ続けた

そこで倉敷市内の中でも被災していない下流のほうにあるスーパーやホームセンターに買い物に行ったところ、スコップやデッキブラシ、長靴、バケツ、たらい、水タンクといった片付けに必要な道具が売り切れてなくなってしまっていました。それらを買うためには被災地から相当離れた地域のホームセンターまで行かなければいけません。

しかし、やるべきことが多すぎてそこまで行く余裕がありません。そこで友人に買い出しをお願いして、タンクに水を詰めて真備町まで届けてもらいました。

真夏の災害です。水分や塩分が不足し、疲労の中、熱中症になる人が続出しました。私も毎日毎日、片付けをし、仮住宅の手配をし、段ボールの上にお皿をのせて食事をとり、家財を買い、生活基盤を整えるという暮らしが続きました。心労がたたったのか、被災後2カ月ほどはずっと頭痛と下痢に見舞われました。しかし不思議なものですね。涙は流れないのです。

片付けのため、みなし仮設住宅(賃貸型応急住宅)と真備を往復するのですが、ある日の夕方の帰り道、眠くて眠くて意識が飛び、運転が危険な状況に陥ったこともありました。

なんとかスーパーの駐車場に停車し睡眠をとり、意識を取り戻しました。それでも私には支えてくれる多数の友人がいて、復職する職場があり、前向きな気持ちがありました。

■死者73人、仮設住宅の入居者は最大8780人

そして、災害が発生してから1カ月半後の8月22日から、やっと仕事に復帰することができました。それでも、これはかなり早く復帰できたほうでした。お年寄りだけのお宅ではなかなか片付けが進まず、被災した後何カ月間も元の生活に戻れないことも決して珍しくありません。私が早く復帰できたのは、段取りと役割分担を決めて、同僚や友人たち、ボランティアスタッフが手伝ってくれたからでした。

甚大な自然災害が起きた被災地は、全壊・半壊の家屋の片付けのみならず、ライフラインが途絶していますから、すぐに戻って生活することはできません。電気もですが、地中を通るガス管、上下水道の復旧に相当な時間が必要となります。

長期にわたり自らの住宅に居住できないと市町長(地方公共団体)が認める地域では、住宅再建までの間、一時的にみなし仮設住宅(賃貸型応急住宅)が提供されます。被災者はこのみなし仮設住宅で生活しながら、生活再建を行っていきます。

被災状況等
出所=『今すぐ逃げて! 人ごとではない自然災害』

■明治時代から14回もの水害が起きている

発災半年後の2018年12月末時点で、真備町世帯の約3分の1が、真備地区外のみなし仮設住宅に暮らしていました。

しかし、ライフラインが復旧すれば、すぐに自宅に戻れるわけではありません。まず、自宅の被害程度について、全壊、大規模半壊、半壊の認定を受け、自治体にり災証明書を発行してもらいます。自宅に戻るかどうかの意思決定は、修理を行えば居住することが可能なのかなどの損壊程度の問題だけで決められるものではなく、水災補償特約付きの火災保険に加入していたかどうかも大いに関係しています。

そして被災しても住宅ローンの返済負担は残り続けますから、残債有無も判断に影響します。新たに住宅を建築する必要があっても、高齢のため、住宅ローンが組めないケースもあります。

我が家の場合、両親の住む実家と私の賃貸の2軒が全壊し、家財のほとんどと車を失いました。災害後、ここは明治以来14回も水害が起きた地域だと初めて知りました。片付けが進み、住み家をどうしようか考え始めたとき、私も息子も真備町に戻って生活するリスクを心配しました。

■「死んでもええから、帰らせてくれ」と言う理由

そこで、私は両親に、「ここはまた水が来る。もう水が来る心配のない、安全な地域に引っ越したほうがいい」と親戚の家の近所に中古住宅を探すことを提案しました。しかし、80代の両親は「もう、あと生きて10年じゃ。死んでもええけえ、川辺にかえらせてくれ」と口を揃えて訴えるのです。

その強い願望に根負けしました。古民家再生を手掛ける地元の工務店に家屋を調査していただき、築45年の実家をリフォームし、真備町に戻ることにしました。そして私が1人で暮らしていたアパートは引き払い、私は再び実家で暮らすことになったのです。

東日本大震災では、津波で壊滅的な被害を受け、6年も7年も経って高台の復興住宅に集団移転した集落もありました。そのニュースを観て私は「地震で被害が大きかったところになぜわざわざ戻ってくるのだろう」と疑問に思っていました。

我が家のケースでいうと、真備町は両親の生まれ故郷ではありません。なのに、なぜ両親は真備町に執着するのでしょう。両親との会話の端々でみえてきたのは、生活の匂いというか、土臭さや近所付き合いです。

母は川辺のお友達との暮らしを懐かしがり、戻れないことに苦しんでいました。何年も掛けて樹木を増やし、季節の花を愛でていました。庭の梅で梅干しを作り、庭の山椒で筍を和えて食べ、味噌やぽん酢、漬物を作っていた母。お裾分けをするご近所付き合いがあり、農家さんからお野菜をいただくこともある土地柄です。

■母にとって「安全に住めること」は最上位ではない

日中、鍵は掛けずに生活し、親しい母のお友達が勝手に上がって昼寝しているなんてこともありました。子を育て、孫の世話をしてきた場所でもあります。家庭内の悩みも気苦労も分かち合い、励ましあい、泣いて笑ってきた場所です。母にとって、安全に住めることが最上位ではなく、彼女らしい暮らしが、いや、母の人生そのものが真備にあるといっても過言ではないのでしょう。

母の健康状態が心配だったため、みなし仮設住宅にひとり残して、父と私は毎日昼間に真備へ片付けに戻っていたのですが、ある日の夕方にみなし仮設住宅に戻ると、母はパジャマ姿のまま、ぼーっと座っていました。おそらく、これが認知症の始まりだったのだと思います。

母は携帯電話を持っておらず、固定電話で友人とつながっていました。ですから、被災後、近所の友達がどこに散らばっていったのか、わかりませんでした。この寂しさが認知症を発症させてしまったのかもしれません。

真備に戻りたいのは母だけではなく、父もです。母が真備に戻りたい理由はわかりましたが、リタイヤしたとはいえ、毎週ゴルフを楽しみ、地元の活動には一切関わらないでいた父が、真備に戻りたいという理由がわかりません。そこで父に聞いてみると、「飼い犬のトイプードルの散歩道が違う。土がない。舗装されている」というのです。

■だから、被災しても9割が「戻りたい」と希望する

みなし仮設住宅の周辺は真備よりは栄えている地域で、片側3車線の交通量の多い道路沿いの住宅街でした。その環境の変化に戸惑っていたのですね。

真備町に戻りたいと思っていたのは両親だけではありませんでした。実際に、発災から2カ月後に真備町川辺地区に住んでいた人々240人にアンケートを取ったところ、9割が「戻りたい」と回答していました。

金藤純子『今すぐ逃げて!人ごとではない自然災害』(プレジデント社)
金藤純子『今すぐ逃げて!人ごとではない自然災害』(プレジデント社)

生まれ育った場所だけが故郷なのではない。引っ越し組でも半世紀も暮らしていたら、そこが故郷になっていくのだ。私は、メディアなどで見てきた過去の「社会的孤立」「被災地の孤独死」「地域コミュニティの崩壊」という単語の意味を映像として、生活シーンとして初めて想像することになりました。

被災するまで、津波や洪水浸水の危険地区に戻ろうとする被災者の気持ちはなかなか理解できませんでした。いえ、被災しても両親の強い抵抗がなければ、気づかなかったかもしれません。

でも、住み慣れた暮らしを失うことは、自分の生きてきた証や自分そのものを見失うような耐えがたい経験なのです。だから、人々は被災地に戻ろうとするのではないでしょうか。

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金藤 純子(かねとう・じゅんこ)
株式会社EnPal代表取締役
岡山大学大学院環境生命自然科学研究科博士後期課程在学。西日本豪雨で家が全壊した経験をきっかけに2020年6月EnPalを起業。防災研修、イベントを通じて防災啓蒙活動を行う。岡山大学では、事前防災における自助共助公助の役割と防災まちづくりについて研究。倉敷市真備町出身。

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(株式会社EnPal代表取締役 金藤 純子)

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