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2歳で視力を失い、光のない世界の住民になった…全盲のスイマー・木村敬一が「大変ですね」と言われて思うこと

プレジデントオンライン / 2024年9月1日 10時15分

東京パラリンピックで金メダルを獲得した木村敬一選手 - 写真提供=プレジデント社

「全盲スイマー」と呼ばれる木村敬一選手は、東京パラリンピックで金メダルを獲得した。幼少期から目が見えない中で、どのように世界のトップに上り詰めたのか。木村選手の著書『壁を超えるマインドセット』(プレジデント社)より、一部を紹介する――。(第2回)

※本稿は、木村敬一『壁を超えるマインドセット』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■東京パラリンピックで“金メダル”の「全盲スイマー」

僕は「全盲スイマー」だとか、「盲目の金メダリスト」と呼ばれている。と言っても、僕のことを知らない方も多いと思うので、本稿では、僕がこれまで歩んできた道、考えてきたことをご紹介させていただきたい。

2021(令和3)年に行われた「東京2020パラリンピック」では、100メートルバタフライS11で悲願の金メダルを、100メートル平泳ぎSB11では銀メダルを獲得した。

はじめて出会う人からは、「目が見えなくて大変ですね」といってもらうことが多いのだけれど、僕としては「目が見えない世界」が日常だから、「えぇ、まぁ……」と曖昧な返事になってしまうことが多い。

1990(平成2)年9月11日、木村家の第2子、長男として僕は誕生した。生まれた直後はほかの子と同じように目が見えていたようだ。

でも、少し成長して、食卓の縁につかまって伝い歩きをするようになると、ほかの子よりも、あるいは3歳上の姉のときと比べても、角にぶつかって転ぶシーンが目立つようになったという。そこで母が眼科に僕を連れていくと、医師から衝撃的な宣告を受けることになる。

「この子はいずれ、ほぼ確実に視力を失います」

■物心がついたときには“光のない世界の住人”だった

僕が生まれた滋賀県内の眼科では手の施しようがなく、滋賀から700キロも離れた福岡大学病院で診察を受けることになった。その後、2歳4カ月で最初の手術を受けた。しかし、まったく事態は改善せずに、さらに視力は低下してしまう。

こうしたことが何度も繰り返され、三度の入院で計7回の手術を行ったのだけれど、手術のたびに僕の目は悪くなる一方だった。この間も、両親は滋賀の実家と福岡の病院を行ったり来たりしながら、懸命に僕の目のことを心配してくれていた。

しかし、7回も手術をしたのに好転の気配もなく、病院の先生からは「敬一君は、盲児として育ててください」と宣告され、母もまた「これ以上、息子に痛い思いをさせたくない」と決心したという。

こうして僕は、物心ついたときにはすでに光のない世界の住人となっていた。そして、それが僕にとっての「日常」となったのだ。だから、多くの人から「大変ですね」と心配されても、おそらくその人が思っているよりは大変じゃない。

むしろ大変だったのは、両親、特に母のほうだろう。全盲の子どもを育てる親の苦労なんて、想像するだけでも「本当に大変だろうなぁ……」と、まるで他人事のように思ってしまうのだ。

■「プールの中なら迷子にならない」という母の胸の内

僕は目が見えないけれど、幼い頃から活発で元気な少年だった。小さな頃から、3歳上の姉の助けを借りながら野山で遊び回る、ごく普通の男の子。なにも見えていないのに、むやみやたらと走り回るものだから、僕はいつも泥だらけ、傷だらけだったそうだ。

小学校3年生の頃には、「野球」に夢中になった。鈴の入ったバレーボールを使った「野球」では、何度も特大ホームランもかっ飛ばした。

そして、小学4年生のときには、近所のスイミングスクールに通うことになった。このとき、母の胸の内には、「プールのなかには障がい物もない。迷子にだってならない」という思いがあったという。

確かに親にとってみたら、ケガの心配も迷子の心配もない、子育てするには完璧な、最高のアイデアだったはずだ。僕自身も体育の授業を通じて水泳には興味を持っていたし、すでにクロールで泳ぐこともできていたので、まさに渡りに船の提案だった。

こうして僕は本格的に水泳を習うことになった。まさかそれ以来、現在に至るまでずっとプールとともに歩むことになるとはまったく想像もしていなかった。

競泳のジャパンパラ大会男子100メートルバタフライ(視覚障害S11)で泳ぐ木村敬一
写真提供=共同通信社
競泳のジャパンパラ大会男子100メートルバタフライ(視覚障害S11)で泳ぐ木村敬一=2024年5月5日、横浜国際プール - 写真提供=共同通信社

■選手は“参加する”だけではダメ

中学生の頃に「パラリンピックに出る」という目標ができた。そして、猛練習の甲斐あって、高校3年生だった2008年の北京大会出場を決める。

この大会では、自己ベストを5秒も上回る記録を出したのだが、最高が5位入賞で、メダルには手が届かなかった。大会前には「出られるだけでも十分だ」と思っていたけれど、実際にメダルを逃すと悔しさが募ってくる。

よく、「参加することに意義がある」という。だけど、当事者の選手にとっては「参加するだけではダメなんだ」というのが真実だ。こうして、この日から僕の目標は「絶対に金メダルを獲る」に変わった。それから4年後、僕は日本大学の4年、22歳になっていた。

そして2012年、ロンドンパラリンピックに出場する。本命の50メートル自由形ではメダルを逃したけれど、自分でも期待していなかった100メートル平泳ぎで銀メダルを獲得した。

順調に結果が伴っていたからこそ、僕は当然のように、「4年後のリオパラリンピックでは金メダルだ」と思っていた。

もちろん、そのための努力は怠らなかった。それまでよりもさらにハードな練習を自らに課したし、日頃から「金メダルのために」とストイックな生活を実践した。

それでも、リオ大会でまたしても金メダルを逃してしまった。たかだか三十数年の人生かもしれないけれど、もしも誰かに「人生で最大の挫折は?」と尋ねられたら、僕は迷いなくこのときの経験をあげるだろう。

結局、リオ大会では5日連続でレースに出場して、初日は銀、2日目は銅、3日目は銀、4日目は銅、そして最終日は5位に終わった。

次の大会は東京で行われることが決まっていた。母国開催で金メダルを目指すにはなにかを変えなければいけない。いや、すべてを変えるべきだ。こうして僕は、なにもツテがないのにアメリカ留学を決めた。

■“目の見えない人”に出会ったらどう声をかけるか

突然だが、みなさんは街を歩いていて、向こうから点字ブロックの上を進みながら白杖を持って歩いていく人を見かけたらどんな心情になるだろう?

おそらく、多くの人が若干の緊張感を覚えつつ、「邪魔にならないようによけようか」と、静かに道を空けてくれるのではないだろうか。

もちろん、その光景は僕には見えないけれど、その人が緊張している雰囲気はビンビン伝わってきている。それは「なにか手を差し伸べてあげたいのだけれど、なにをしていいのかわからない」という思いがあるからではないだろうか。

実に多くの人から「なにをすればいい?」と聞かれてきたが、その答えとしては「状況による」としかいえないのが本当のところなのだ。

例えば、駅のホームにいたとしても、「乗るべき電車がわからない」というケースだけではなく、単に「トイレに行きたい」というケースもあるし、「目的の出口を探している」場合もあれば、「待ち合わせしている人を探している」こともある。

だから、単にひとこと「なにかお困りですか?」とか、「なにかお手伝いできることはありますか?」といってもらえると、本当に助かる。

杖を使って歩く視覚障害者
写真=iStock.com/FG Trade
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/FG Trade

■日米で違った“目の見えない人”に出会ったときの対応

ただ、ややこしい表現になるけれど、困るのは「なにも困っていないとき」だ。

なんのトラブルもなく順調にことが進んでいるときに、「なにかお困りですか?」といわれると、どんなリアクションを取っていいのか悩んでしまう。声をかけてくれた人は、きっと勇気を出して「なにかお困りですか?」と気遣ってくれているのは痛いほど理解している。

それなのに、「別になにも困っていません」というのも悪い気がするし、そうかといって、自分ひとりで目的地に行けるのに「出口はどこですか?」と、知らないフリをするのも気が引ける。

だから、その点はぜひご理解いただきたい。もしも仮に「困っていません」といわれても、決して気を落とさずに、また次の機会に別の方に救いの手を差し伸べてもらえると、すごく嬉しい。

その点、アメリカの人々はまったく異なっていた。アメリカ留学中に驚いたのは、こちらが何度も「困っていないです」といっているのに、次に会うときにはまた「なにか困っていない?」と聞いてくれるのだ。

そこには、まったくためらいがない。たぶん、いちいち勇気を振り絞ったり、緊張したりすることなく、普段のあいさつのような感覚で声をかけるのだろう。あれは自然体で、本当によかった。硬くならず、ゆるく生きていこう。人生もまさに、かくありたい。

■八方ふさがりだったアメリカ留学

アメリカでの生活は、自分なりに波乱万丈だった。昼間に通っていた語学学校では僕だけが視覚障がい者だった。寮生活では食事が出ていたけれど、聞いたことのないメニューばかりで、口にするまでなにかわからない得体の知れないものを食べることも多かった。

最初のトレーナーである愛すべきトニーが突然、辞めてしまったり、クラスメイトが急死したり、大学時代の恩師の突然の訃報で猛烈なホームシックになったりしたこともあった。

そして、2020年には世界中が新型コロナウイルス禍に揺れた。その結果、久々に日本で行われる大会も中止になり、ホームシックはますます強くなった。語学学校も休校となり、いつものプールも使えなくなり、街のレストランもジムも閉鎖された。

まさに、八方ふさがりだったけど、僕には「逃げることは恥ずかしいことじゃない」という思いがある。だから、すぐに帰国を決めた。逃げるようにアメリカに行き、逃げるように日本に帰ってきたのだ。

東京パラリンピックの1年延期が決まった後、「せっかく1年という猶予をもらえたのだから、多少無理やりでもいいから、それを前向きにとらえて有意義に過ごそう」と決めた。いろいろありながら、結局は日本に帰国することが決まったのだから、「アメリカではできないトレーニングをしよう」と決意したのだ。

そのひとつが高地トレーニングだ。マラソン選手がしばしば採り入れているトレーニング方法なので、ご存知の方も多いと思うけれど、わざわざ酸素の薄い山の上に行って、苦しい思いをしながらひたすら泳ぐ。そうすることで心肺機能を強化するのだ。

こうしたことなどが功を奏して、僕は東京大会で金メダルを獲得したのだ。

■パリパラリンピックは「正直、怖い」

東京大会後、しばらくは目標が定まらなかったが、しばらくすると「もう一度、パラリンピックに出場しよう」という気持ちが芽生えてきた。そして2024年のパリパラリンピックを見据えて、僕ははじめて「フォーム改造」に取り組むことを決めた。

水泳人生ではじめての挑戦だったが、女子200メートルバタフライでオリンピック2大会連続銅メダルを獲得している星奈津美さんから技術指導を受けることにしたのだ。

指導を受けてみると、いままで気づかなかったことがたくさん学べるし、「オレにもまだ伸びしろがたくさんあるな」と感じることができた。フォームを崩す怖さより、どこまでいけるかという楽しみのほうが断然勝っていた。

2024年のパリパラリンピックが目前に迫ってきた。

もちろん、2大会連続金メダルを目指して日々の練習に取り組んでいるけれど、正直なところ、内心では「パリ大会で金メダルを獲ることは難しいかもしれないな……」という思いも抱いている。

オリンピック・パラリンピックのために装飾されたフランス・パリ市庁舎のファサード
写真=iStock.com/HJBC
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/HJBC

別に謙遜しているわけでも、弱気になっているわけでもない。現在の自分のコンディションや、他国の有力選手の現状を冷静に考えると、今回はかなり厳しい戦いが予想されるからだ。

木村敬一『壁を超えるマインドセット』(プレジデント社)
木村敬一『壁を超えるマインドセット』(プレジデント社)

パラリンピックの視覚障がい者による世界では、僕のように先天的な疾患による者と、事故や病気によって後天的な理由で障がいを負ってしまう者がいる。そして、両者のあいだには越えられない大きな壁があるのもまた事実なのである。

正直、怖い。うまくいくかどうかはわからない。けれども、彼らが身を以て証明しているではないか。「怖さ」は慣れで簡単に克服できると。そう、慣れていくしかないのだ。

彼らが次第に慣れていくように、僕もまた少しずつ慣れていくしかないのだ。はたして、どんな結果となるのか? ぜひ期待して注目してほしい。

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木村 敬一(きむら・けいいち)
パラリンピック 水泳(視覚障害クラス)金メダリスト
1990年、滋賀県に生まれる。日本大学文理学部卒業。同大学大学院文学研究科博士前期課程修了。2歳の時に病気のため視力を失う。小学校4年生で水泳を始め、2012年ロンドンパラリンピックで銀・銅2つのメダルを獲得し、2016年リオ大会では銀・銅合わせて4つのメダルを獲得する(日本人最多記録)。2021年東京大会では自身初となる悲願の金メダルを獲得する。東京ガス株式会社人事部に在籍。日本パラリンピアンズ協会(PAJPAJ)の理事も務めている。著書には『闇を泳ぐ 全盲スイマー、自分を超えて世界に挑む。』(ミライカナイ)がある。

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(パラリンピック 水泳(視覚障害クラス)金メダリスト 木村 敬一)

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