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六本木のホリエモンにもアポ入れた…興銀を辞めサイボウズへ転じた元副社長が譲れなかったバンカー魂

プレジデントオンライン / 2024年8月30日 8時15分

「ビットバレー」の住人が開いたパーティーでボードに張り付けられた名刺を真剣にチェックする、ビジネスチャンスを求める若者たち=1999年12月、東京都渋谷区恵比寿西 - 写真=共同通信社

ソフトウエア開発会社「サイボウズ」元副社長の山田理氏にとって、前職の銀行やバンカーはどのような存在か。金融業界をはじめ数多くの取材を続けるジャーナリストの秋場大輔さんは「当時は、銀行とIT業界は水と油の関係だと思われていた」という。山田氏はなぜ変化を遂げられたのか。前後編に分けてお届けする――。

※本稿は、秋場大輔『ヤメ銀 銀行を飛び出すバンカー』(文春新書)の一部を再編集したものです。

■眠たそうなホリエモンが「はあ?」

山田理(おさむ)は一九九二年に日本興業銀行(現みずほ銀行)へ入行した。

一九九九年に社員わずか十五人だったソフトウエア開発会社のサイボウズへの転職を決め、現社長の青野慶久を支えて二〇二一年三月まで副社長を務めた。興銀時代の後半にIT業界を担当したことが転職のきっかけとなったのだが、当時まだ黎明期だった業界の様子をこう語る。断片的な描写が続くが、山田の話の情景を思い浮かべるとIT業界の当時の息遣いが伝わってくると思う。

「一九九八年とか一九九九年ころのことですけど、(興銀で)上司の課長が突然言うたわけです。もっと新しいことをやろう。ITやろうって。これからはインターネットでしょうとか。ところでインターネットってなんやねんって感じでしたけど」

「ホリエモンのアポイントを取って六本木の雑居ビルに行ったこともありましたわ。ピンポン鳴らして『どうも』とか言うて。ホリエモンが中から眠たそうな顔をして出てきて、『はあ?』とか言う」

「楽天の三木谷浩史さんやDeNAの南場智子さん、サイバーエージェントの藤田晋さんなんかへ飛び込み営業をかけたこともあったなあ。そのうち『ちょっと集まってください』とか言うて、興銀の本店に来てもらって、そこで勝手にネットワークビジネス協議会みたいな適当な名前を付けた会を立ち上げたりした」

「その頃、光通信なんて飛ぶ鳥を落とす勢いですよ。いろんな銀行がまとわりついた。僕は後から入っていったんやけど、めっちゃ気に入ってもらって、最後メーンになって……。でもその後、飛ぶ鳥は落とされたわけやけどね」

■渋谷が「ビットバレー」と言われた頃

「あの業界はみんないい加減。でもノリが良かった。それが僕の性格に合った。でも普通のバンカーは、ああいうノリが嫌やったろうね」

山田はそう振り返った上でこんなことを言った。

「ネット関連の起業家がようけ集まったので、渋谷が『ビットバレー』とか言われたことがあったやないですか。あのビットバレーブームみたいなもんは六本木のディスコで開かれた交流イベントでピークを迎えたわけです。今にして思えばなんやねんっていうイベントやけど、ソフトバンクの孫正義さんがプライベートジェットで米国から戻ってくるとか、石原慎太郎・東京都知事(当時)や日銀の速水優総裁(同)も駆けつけるとか。そこで起業したい人やベンチャーキャピタルの人、バンカーが集まって名刺交換をしたりした。当然、僕も行きましたよ」

「そしたらその様子がテレビに映ったんです。翌日、会社に行ったら『なんで山田があの場におんねん?』と。僕以外にも名刺交換しよ思て会場に来ていた人はたくさんおったから別におかしくないんやけど、変な空気になった。しゃーないから『いやいやIT担当ですからおっただけです』とか言い訳して。バンカーって基本的に黒子やないですか。そのバンカーがテレビに映っとったから、『なんや!』という話になった。ほとんどの人は僕がおかしいと思ったんやないかなあ」

■大学を休学して世界一周旅行

銀行とIT業界。今でこそ両者には垣根などない時代だが、当時は水と油の関係と思われたのだろう。山田はなぜ異質な世界に飛び込んだのか、今の山田に古巣である銀行やバンカーはどのような存在に映るのか。

まずは興銀入行の経緯から辿ることにする。本人の軽妙なしゃべり方によるところが大きいがなかなか劇的だ。

大阪で生まれ育った山田は大阪外国語大学に入学、ペルシャ語を専攻した。

「体育会に入ったんですけど、それが終わってどうしようかとなりました。あんまり勉強していなかったし、周りは留学している人も多かったから、休学して世界一周をしてみようかなと」

旅に出たのは一九九一年だった。前年の八月にイラク大統領(当時)のサダム・フセインがクウェートへ侵攻、これに対して米国大統領(当時)のジョージ・H・W・ブッシュが多国籍軍を編成、空爆を開始したのは一九九一年一月十七日である。地上戦の開始は二月二十四日。和平条件を規定した国連安保理決議をイラクが受諾したのは四月六日。戦争は山田の旅行中に始まり、旅行中に終わったという。

「ペルシャ語を習っとったからイランへ寄ったんです。そしたらクウェートのお金持ちがたくさんホテルを占拠していた。『何があったんですか』って聞いたら『戦争や』と。それで初めて知った。それからしばらくしてアメリカへ渡ったら、米軍がなんとかいう地上作戦(砂漠の盾)を展開した。それで終結したいうのを知り合いの家のテレビで観ました」

■第一志望は商社で経済はわからない

一九九一年中に帰国。同期より一年遅れて就活をすることになった山田の第一志望は商社だった。海外赴任ができそうだし、自分の性格にも合った組織に映ったからだ。

たまたま先輩で住友商事の内定をもらった人がいたので、ますます商社に憧れるようになったが、その先輩がどういうわけか興銀への入行を決めた。

「当時、住友銀行とか三和銀行は知っていましたよ。せやけど興銀は知らんかった。住友や三和は五百人くらい採用していたけど興銀は百数十人。先輩はなんでそんな小さな銀行へ入ったんやろうと思って聞きに行った。そしたら先輩が『わしも最初はそう思っててん。せやけど興銀ってすごい銀行なんや。影響力のある銀行なんや。一人に任せる責任はごっつう重いんや。でも安心せい。お前は入られへんから』って言われた」

そう言われ、かえって興味を持った山田は興銀の面接を受けたが、そこで自分の身上を正直に話した。第一志望は商社であること、自分の性格は銀行に向いているとは思えないこと、経済のことはわからないから期待されても困ること、銀行でやりたいことは特にないこと……。そうしているうちに学生時代の経験を問われたため、バックパッカーとして世界一周旅行をしてパキスタンで睡眠薬を飲まされた話をした。

ラホールのデリーゲート市場
写真=iStock.com/Luca Ladi Bucciolini
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Luca Ladi Bucciolini

■「わしゃ興銀マンや」

「そらホント正直に話しましたよ。僕は嘘をつかないことだけは心に銘じているんで。その時、三井物産から良いお返事をもらっていることも言いました。ひょっとしてそれが良かったんちゃうかな? 商社から評価されているいうバイアスがかかったからなのか、興銀からも良いお返事をもらった」

第一志望が商社であることは変わらない。しかし三井物産には自分のような性格の人がたくさんいて、埋もれてしまうのではないか? 興銀なら浮くか沈むかは分からないけれど目立ちはするだろう。山田はそう考えて興銀を選んだ。

「ほんまに経済なんてわからんわけですよ。興銀に入ったって価値は提供できそうにないとも言った。それでも採用するんやったら、そら僕のせいやない。人事部のせいでしょ。そんなつもりやったです」

入行して最初の四年間は市場部門。その後、広島支店に転勤し、ゲームソフト会社コンパイルの担当になった。一世を風靡したソフト「ぷよぷよ」を開発した会社だ。

不動産担保主義の銀行にしてみれば、主な資産と言えばゲームソフトしかないコンパイルは融資しづらい取引先だったが、山田はそれよりもベンチャーの活気にひかれた。

「業を興すから興銀いうんやろ。わしゃ興銀マンや」。心の中でそう叫んで融資を増やすと、いつの間にか興銀は地元の地銀を抑えてメーンバンクになった。

■「ぷよぷよ」の著作権を売り融資を回収

だが、コンパイルは放漫経営が祟って一九九八年に経営破綻。

債権回収のため、山田は担保に取っていた「ぷよぷよ」の著作権をセガ・エンタープライゼス(現セガサミーHD)に売って融資の一部を回収した。融資は失敗。本店営業部へ異動となり、業績が芳しくないソフトウエア会社などを担当することになった。

「当時、ゲームソフトという知的財産を売って融資を回収するというのは非常に珍しい手口でした。でもそれをやったから今も世の中に『ぷよぷよ』はあると思うてます。自己満足ですけどね。もっともモノを見る目はあったけれど、会社を見る目がなかった。作っているモノがいくら良くても、組織がちゃんとしていなかったらダメなんやと痛感した」

二年間の広島支店勤務を終えて東京へ戻ってきた山田が聞いたのが上司の「もっと新しいことをやろう。ITやろう」という言葉。そうして目にしたのは眠たそうな顔をしてマンションの扉を開けたホリエモンだったわけだが、その頃、興銀を取り巻く環境は急速に悪化していった。

■「興銀は嘘をついた」結果の三行統合

一九九八年一月十八日、日本道路公団の外債発行幹事証券会社の選定に際して野村證券から贈賄があったとして、大蔵省OBの公団経理担当理事と野村證券元副社長らが逮捕された。

秋場大輔『ヤメ銀 銀行を飛び出すバンカー』(文春新書)
秋場大輔『ヤメ銀 銀行を飛び出すバンカー』(文春新書)

これを皮切りに大蔵省接待汚職事件が火を噴き、同年六月にかけて東京地検特捜部による大蔵省解体が進んだ。その後、十月には同じ長信銀の一角である日本長期信用銀行が、十二月には日本債券信用銀行がそれぞれ一時国有化された。

山田の上司が「もっと新しいことをやろう」と言ったのはこの頃だが、きっと興銀全体を覆っていた暗いムードから少しでも距離を置き、バンカーとしての仕事をまっとうしようとしたからだろう。

「営業部に一班、二班、三班ってあったんですよ。一班とか二班とかはピカピカの会社の担当。僕は微妙な会社を担当する班でした。上司も微妙な人。ピカピカからは少し外れているみたいな。でもめっちゃ優秀。周りは『山田、お前はあの人の下で大変やな』とか言ったけれど、僕は全くそうは思わんかった。あの人はほんまの興銀マンやと思った」

日本興業銀行本店
旧日本興業銀行本店の外観(写真=ゆうこくしゃ/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

一九九九年八月、興銀は富士銀行、第一勧業銀行との経営統合を発表した。

それは興銀が世間に嘘をつき続けた結果だと山田は考える。

「僕は嘘をつかへんけど、興銀は嘘をついた。だから経営統合せなならんかったんや。ケチのつき始めは尾上縫事件やろな」

(後編へつづく)

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秋場 大輔(あきば・だいすけ)
ジャーナリスト
1966年、東京生まれ。日本経済新聞社で電機、商社、電力、ゼネコンなど企業社会を幅広く取材。編集委員、日経ビジネス副編集長などを経て独立。

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(ジャーナリスト 秋場 大輔)

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