1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

0歳からクルマ愛に溢れていた社長が語る…世界一の自動車会社がある日本で「4000万円の輸入車」を売る方法

プレジデントオンライン / 2024年9月12日 17時15分

グレゴリー・アダムスアストンマーティンリージョナル・プレジデント(アジア)。1965年、アメリカ生まれ。サウスカロライナ大学や早稲田大学で学んだ後、日産自動車に入社。フォード、三菱自動車、フェラーリなどを経て、22年より現職。

■フェラーリ・ジャパンの立ち上げに関わったワケ

かつて、日本では高級車を乗り回すことに「お金持ちが見せびらかしている」と眉を顰められた時代がありました。販売会社も非常に限られている。そんな時代に、たった4カ月で15人のベテランを新たに採用しなければならない……日産や三菱自動車などの大衆車メーカーを歩んできた私は、高級車のフィールドに足を踏み入れるやいなや正念場を迎えます。2008年3月から始まったフェラーリ・ジャパンの立ち上げで、私は「本当にできるのか」と焦りと共に過ごしていました。

当時の私は日産や三菱自動車でのキャリアを経て、クライスラーの本社で中国の生産パートナーを探して交渉する仕事を担当していました。出張で台湾に滞在していたとき、三菱時代に一緒に働いていたアメリカの友人から電話がかかってきたのです。

「フェラーリ・アメリカのマーケティング担当がアジア・パシフィックの責任者に就任することになり、日本の自動車業界に詳しい人を探している。真っ先にグレッグの顔が思い浮かんだんだ。興味はないかい?」

今だから言えますが、私はフェラーリに関心がありませんでした。フェラーリは、素晴らしいクルマです。しかし、4000万円の価格なら、いいクルマをつくれるのはあたりまえ。100万円とか200万円でいいクルマをつくることのほうがチャレンジングであり、困難だからこそワクワクします。

ただ、学生時代から暮らした日本での仕事には心が動かされました。オファーされたのは、中国を中心に11カ国で、商品の販売価格を設定するマーケティングが3割と、日本法人の立ち上げが7割。日本の自動車業界でまた働けるならばと、最終的に転職を決断しました。

08年、久しぶりに日本に戻ってきたのも束の間、私は大きな問題に直面します。それまで日本では、30年以上にわたってコーンズがフェラーリの総代理店を務めてきました。日本法人設立に伴って総代理店から販売やサービスを引き継ぐことになりますが、準備期間が短く、スタートから躓くおそれがあったのです。

■たった4カ月間で日本法人を構築する

日本法人の設立は3月3日でした。一方、コーンズとの総代理店契約は6月末で終了します。7月1日には日本法人だけで回せる体制をつくらないとお客様に迷惑をかけることになります。4カ月の間に新体制を構築することが私に課せられた責務でした。

高級車は大衆車に比べて販売台数が少なくてもビジネスが成り立ちます。そのぶん必要な人数は少なくていい。

ただし、頭数が揃えば誰でもいいというわけにはいきません。大手メーカーは業務が細分化されているのでそれぞれの領域の経験者を採用すればいいのですが、15人規模だと一人が何役もこなさないと回りません。オールマイティーにこなせる幅広いスキルと、複数の業務を並行して処理できるマネジメント能力、そしてそのような職場での働き方に喜びを感じられるエネルギーの高さ。これらを備える人材でなければ、採用したところでかえって混乱が起きかねません。

高級車ビジネスの経験も必要でした。高級車は、信頼がものを言う世界です。同じ能力を持った人だと、若くてフレッシュな人よりも経験や実績のあるベテランのほうが安心感を与えられます。

日本は国産車の生産台数が減る一方で、海外からの輸入台数は十数年で倍に伸びています。そのおかげで今は労働市場には経験豊かなベテランが大勢出てくるようになりましたが、16年前は市場がまだ小さく、高級輸入車を扱ったことがある経験者も少なかった。そうした環境の中で15人揃えるのは、けっして簡単なミッションではなかったのです。人材を集めるため、人材エージェントを活用してとにかく多くの人に会いました。

■「デザイア」のままに仕事と向き合ってきた

もっとも苦労したのはマーケティング人材です。当時世界1位になったトヨタをはじめ、巨大大衆車メーカーを数多く国内に抱える日本の市場は独特で、世界標準をそのまま当て込むだけでは難しい。その距離を埋められる人材はなかなか見つかりませんでした。

しかし「採れるなら誰でもいい」とは考えませんでした。間違った人を採用するくらいなら、ふさわしい人が見つかるまで自分が兼務すればいい。そうした覚悟でリクルートを続けました。

もちろん兼務すれば相当な激務になります。しかし、私はクルマに関わる仕事ならいくら働いても苦にならないタイプ。そのときはそのときで兼務を楽しもうと考えていたので、腹が据わったのでしょう。

人生において大切なのはデザイア、強い願望だと思います。キャリアやお金も大切ですが、自分の心に火がつくことを素直にやれば、それらは自然についてくるものです。

実際、自分の人生を振り返ってもクルマ愛が道を切り拓いてくれました。母親曰く、0歳のときからクルマに夢中で、街ゆくクルマを見ては「あれはフォードの○○式」「あっちはシボレーの△△」と言い当てていたとか。

10歳から近所の薬局で「バイト」を始めました。子どものお小遣いの足しになる程度でしたが、それくらいクルマが欲しかった。新聞の中古車広告でオースチン・ヒーレーと日産フェアレディZを見て、いつかそれに乗ることを夢に見ていました。実際に初めて買ったのはフォルクスワーゲンのビートル。16歳のときでした。

来日して早稲田の大学院に進学したのも、日本車に関わりたかったからです。念願叶って日産自動車に就職。いったんフォードの部品部門に転職しましたが、部品よりクルマに携わりたいという気持ちに素直に従って三菱自動車に移りました。

フェラーリ・ジャパン立ち上げのときも同じです。デザイアのままに仕事と向き合えば、おのずと道は切り拓かれる――。そう信じて権利引き継ぎまで突っ走りました。

結果はどうだったか。ギリギリまで動き回った成果で、7月1日の時点でなんとか15人のスタッフを確保。当初は私がマーケティングを兼務しつつ、コーンズとも交渉してサービス担当の方に何人か残ってもらい、経験豊富な人材を集めてスタートを切ることができました。

その後、プライベートの事情などもあり、私はまた日米のいくつかの自動車会社を経て、22年8月、アストンマーティンのリージョナル・プレジデントに就任しました。

グレゴリー氏が入社したときの日本スタッフはわずか4名
グレゴリー氏が入社したときの日本スタッフはわずか4名。ただ、過去の経験から動じなかった。

就任時、日本人のスタッフはわずか4人しかいませんでした。もちろん彼らは優秀でしたが、同じレベルの優秀な人材を更に集める必要がありました。日本の市場の大きさや重要性、また潜在的な成長力が評価され、アジア太平洋地域をカバーするオフィスを日本に設立することが決まっていたからです。

しかし、焦りはなかったですね。アストンマーティンに来たときは、これまでの転職とは異なり、自分が完全に準備ができたと感じていました。高級車ビジネスの経験者が少なく、しかもタイムリミットがあった08年当時の経験はもちろん、後のEVスタートアップでの経験も役に立ちました。高級車市場が盛り上がっている今は、さらに厳選して採用ができるようにもなっていました。

今や日本人のみならず、様々な国籍の人材が加わり、チームは拡大しています。また、今いるスタッフは優秀なだけではありません。私と同じように、クルマ愛に溢れた素晴らしい人ばかりです。みんなと力を合わせて、アストンマーティンらしい極上の体験をお客様に提供していきたいです。

※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年8月30日号)の一部を再編集したものです。

----------

グレゴリー・アダムス アストンマーティン アジア代表
アストンマーティンリージョナル・プレジデント(アジア)。1965年、アメリカ生まれ。サウスカロライナ大学や早稲田大学で学んだ後、日産自動車に入社。フォード、三菱自動車、フェラーリなどを経て、22年より現職。

----------

(アストンマーティン アジア代表 グレゴリー・アダムス 構成=村上敬 撮影=宇佐美雅浩)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください