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紫式部が実家に引きこもったのは藤原道長のせいである…NHK大河では描かれない「出仕拒否」の本当の理由

プレジデントオンライン / 2024年9月1日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke_Yoshi

紫式部とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「道長の推挙により、中宮彰子の元へ出仕するが、すぐに実家へ引きこもるようになる。これは彰子に使える女房たちとの相性が合わなかったことが大きい」という――。

■「天皇に直々に献上された源氏物語」への違和感

「古典文学の最高峰」という評価が定着しているから勘違いしがちだが、『源氏物語』は同時代においては、漢詩や和歌よりもはるかに格下の文学だった。そもそも物語という分野が、当時は大衆向けのサブカルチャーであった。

NHK大河ドラマ「光る君へ」の第31回「月の下」(8月18日放送)には、藤原道長(柄本佑)がまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に書かせた『源氏物語』のさわりを、一条天皇(塩野瑛久)に直々に献上する場面があった。

一条天皇が『源氏物語』を読んで評価したことは、『紫式部日記』の記述などからもうかがえる。だが、それはあくまでも、中宮彰子(見上愛)の後宮に置かれているのを読むなどしてのこと。文学として格下とされていたものを、道長が天皇に直々に献上したなど、到底考えられない。

それはさておき、第32回「誰がために書く」(8月25日放送)では、一条天皇がこの物語に反応した。

道長が感想を求めた際、一条天皇は読むのを忘れていたと答えたので、道長はまひろに、物語が帝の心に響かなかったと伝えた。しかし、後日、一条は道長に「物語を読んだ」と伝え、「朕への当てつけか?」といいつつも、「唐の故事や仏の教え、わが国の歴史などをさり気なく取り入れているところなど、書き手の博識ぶりは無双と思えた」と絶賛し、書き手の女に会ってみたいと道長に伝えた。

■「紫式部日記」に書かれた出仕初日の様子

それを受け、道長はまひろに、自身の娘である中宮彰子の女房になるように打診した。女房として彰子の後宮に囲って『源氏物語』の続きを書かせ、同時に、まひろと彼女が書く物語に関心をいだいた一条天皇が、彰子のもとに渡ってくる動機になることを期待しようというのである。

一人娘の賢子(福元愛悠)を家に置いて出仕することに、まひろは最初、乗り気ではなかった。だが、自分が出仕して物語の続きを書くしかないと判断し、父の藤原為時(岸谷五朗)も、「悪いことではない」とし、賢子は自分に任せるようにいってまひろを促した。こうして、まひろは雪の降る日、彰子の後宮に出仕した。

一条は書き手の紫式部にまで興味をいだいたのかどうか。それは史料からうかがい知ることはできない。だが、道長が『源氏物語』を書かせるために紫式部を出仕させたであろうことは、研究者の多くが推測している。

土佐光起筆「源氏物語画帖」より石山寺での紫式部
土佐光起筆「源氏物語画帖」より石山寺での紫式部(画像=ハーバード美術館群/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

出仕した日だが、『紫式部日記』の寛弘5年(1008)12月29日の条に、「しはすの二十九日にまゐる。はじめてまゐりしもこよひのことぞかし(12月29日に参上する。最初に参上したのも同じ日だった)」と書かれている。また、それに続いて、「こよなくたち馴れにけるも、うとまし身のほどやとおぼゆ(宮仕えにすっかり慣れてしまったのも、いとわしいことと思える)」とある。

したがって、寛弘5年の前年ではなく、寛弘3年(1006)か同2年(1005)の可能性が高そうだが、寛弘2年11月15日には、第32回で描かれたように内裏が焼失している。その慌ただしいなかで出仕できたものかと考えると、寛弘3年とするのが妥当なのではないだろうか。

■なぜ実家に引きこもったのか

ところが、紫式部は出仕してすぐにつまずいてしまった、『紫式部集』には、出仕後間もなく詠んだと思われる歌が載せられている。

身の憂さは 心のうちに したひきて いまここのへぞ 思ひみだるる(わが身のつらさは、私から離れずにこの場所にまでついてきて、いま宮中で幾重にも思い乱れていることです)

夫に死なれて以来の身のつらさは、出仕すれば少しはやすらぐと思ったが、そうはいかなかったということだろう。まもなく里に帰った紫式部は、少しだけ言葉を交わした女房に歌を詠み送った。

とじたりし 岩間の氷 うちとけば を絶えの水も 影みえじやは(山の岩間を閉ざしていた氷も、春になって溶ければ、水となって流れて人の姿を映すでしょう。同様に、心を閉ざしていたみなさんが打ち解けてくだされば、私も姿を見せるでしょう)

正月10日ごろには、中宮彰子から「新春の歌を献上せよ」というお達しがあったが、出仕はせず、「隠れ家のようにしている家から」歌を送った。

み吉野は 春のけしきに 霞めども 結ぼほれたる 雪の下草(雪深い吉野の山にも春が訪れるように、宮中は新春の景色で霞が立ち込めているのでしょうが、私は雪の下の草のように、芽を出さないままです)

■「私のことを人として扱ってくれない」

紫式部はなぜ、そんなに心を閉ざしてしまったのか。研究者の言葉を少し引用すると、山本淳子氏はこう書く。「紫式部は生まれてこのかた、中・下級役人や国司階級の世界から出た経験がない。高貴な人々を目の前にして、振る舞いにも受け答えにも戸惑うばかりだったろう。一方、同僚たちはそんな式部を遠巻きにして見るだけだった。初出仕の数日間、彼女に親しく接してくれる女房は誰一人いなかった」(『源氏物語の時代』朝日選書)。

伊井春樹氏の言葉で補っておく。「紫式部を迎える同僚の女房たちは、(中略)『あの方が、評判の物語を書いた方』『とても学才があるらしい』などと噂をし合い、用心して近づいて話しかけようともしない。紫式部が声をかけても、新参ということもあり、口をきいたこともないだけに、女房たちはとまどっている。不用意な発言をすると軽蔑されてしまうのではないか、などといささか恐れてもいる」(『紫式部の実像』朝日選書)。

こうして、出仕できないまま3月になってしまい、その間、宮中で自分がどう噂されているのかも耳に入る。『紫式部日記』にも、「かばかりも思ひ屈じぬべき身を『いといたうも上衆めくかな』と人のいひけるを聞きて(こんなにも思い悩み、気落ちしている私のことを『上品ぶって偉そうにしていること』なんて人が噂していると聞いて」と書かれており、それに続けて、歌がこう詠まれている。

わりなしや 人こそ人と いはざらめ みづから身をや 思ひすつべき(ひどいことに、人は私のことを人として扱ってくれませんが、だからといって、自分で自分を見捨てることなどできましょうか)

■家柄と血筋にこだわって選ばれた女房たち

結局、5月ごろになって、一人の女房が次のような助け舟ともいうべき歌を送ってきたのを受け、ようやく職場に戻ることができた。

忍びつる ねぞ現るる あやめ草 言はぬに朽ちて やみぬべければ(水の底に隠れていたあやめの根が現れるように、私はあなたに隠していた気持ちを表します。そうしないと、なにも言わないままに、あなたは朽ちて、ダメになってしまいかねないから)

紫式部がここまで実家に引きこもらざるをえなくなった原因には、中宮彰子の後宮ならではの雰囲気もあったものと思われる。

道長は彰子の後宮を整える際、そこを華やかな場にするためにかなりの力を入れた。女房を40人、童女と下仕えを6人ずつ、いずれも選りすぐり、とりわけ女房は、美貌はもとより家柄と血筋に徹底的にこだわった。それはいうまでもなく、まだ存命だった皇后定子の後宮に負けないようにするためだった。

紫式部日記絵巻断簡
紫式部日記絵巻断簡(画像=東京国立博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

だが、長保2年(1001)12月に定子が没したのちも、彼女の後宮の女房だった清少納言が、定子在りし日の華やかな後宮について、ネガティブ情報を除いて書いた『枕草子』の力を得て、定子の後宮は魅力的な存在として、宮中の人々の記憶を強く刺激し続けた。

■定子の後宮と対照的だった彰子の後宮

定子の後宮は社交的で、華やかで、人々は当意即妙の洒落た会話を交わし続ける場だった。だから、清少納言のような主張の強い女房が重用されたのである。

一方、彰子のそれは、紫式部自身が日記に書いているように、女房も子どもっぽいお嬢様ばかりで、みな引っ込み思案だったという。紫式部の観察によれば、彰子自身が自己主張を控え、大過なくやりすごそうとするタイプだったから、根っからのお嬢様たちは、なおさら消極的になったようだ。

風流を口にしたり、恥ずかしくない会話をしたりする女房が少なくなった、と貴族たちも嘆いている――。紫式部自身、のちに彰子の後宮について、このように記している(『紫式部日記』)。

そんな女房たちが、新参者の紫式部を冷たくあしらったものだから、「将来の引っ込み思案で内省的な性格に加えて、もともと持っていた宮仕え嫌悪感」(倉本一宏『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)もあって、紫式部は出仕できなくなってしまったのだろう。そうだとすれば、これは道長が女房に選りすぐりのお嬢さまばかりを集めたせいだといえよう。

■わざと高慢さを隠して勤め続けた

賢子のためにも稼ぐ必要があり、いつまでも引きこもってはいられないという判断もあっただろう。ようやく職場に戻った紫式部は、人から文句をつけられないように、なにを聞かれもボケて通すようになった。

ところが、そういう態度でいたところ、女房たちがこぞって紫式部を評価するようになったという。気取り屋で、才女ぶって、人を見下すような高慢な女性だと思っていたら、おっとりしていて、別人のようだと。

むろん紫式部は、そんな彼女たちを冷静に観察している。つまり、どちらかといえば「高慢な女性」なのだが、演技が功を奏したようだ。言い換えれば、そんな演技にだまされるようなお嬢様ばかりの環境だったから、紫式部が出仕できなくなったということだろう。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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