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「1日たった20杯」から月商500万円まで10年…どん底の「六厘舎初代店長」を救ったアルバイト女性の夫婦物語

プレジデントオンライン / 2024年9月9日 10時15分

東京都足立区北千住駅から徒歩5分のところにある「さなだ」 - 筆者撮影

■中学生で「サラリーマンにはなりたくない」

JR・東京メトロなどの北千住駅から徒歩5分。北千住駅前通りから一本路地に入った場所につけ麺の名店がある。「つけめん さなだ」だ。

2014年に埼玉県三郷市でオープン。「食べログ」では3.74点を誇り、北千住のラーメンランキングでは1位に輝いている(2024年8月20日現在)。店主の瀨戸口亮さんと妻のまやさんで切り盛りしている。

店主の瀨戸口さんは神奈川県川崎市生まれ。その後、埼玉県越谷市で育つ。小中時代から先輩・後輩の上下関係に悩み、将来はサラリーマンにはなりたくないと誓ったという。この頃からラーメンが好きで、ラーメン屋になることを中学時代から決めていた。

高校を中退し、定時制の浦和商業高校に通う。自由を求めて家を飛び出し、アルバイトに明け暮れる日々だった。

この頃は浦和駅の高架下にあった「がんこラーメン」でアルバイトをしていた。アルバイトという雇用形態でもしっかり従事すれば調理師免許が取れることを知り、ちゃんとした修行を始める前に免許を取ってしまった。

それから全国のラーメン店の食べ歩きをスタート。本格的な専門店を回るようになる。

行列が絶えない「さなだ」の人気メニュー「特製つけめん(1650円)」
筆者撮影
行列が絶えない「さなだ」の人気メニュー「特製つけめん(1650円)」 - 筆者撮影

■味も大事だが、最後のピースは「接客や店の雰囲気」

「自分がいいと思ったラーメンを、地元・埼玉で出そうと思い、各地を食べ歩きました。その中で出会ったのが門前仲町にある『こうかいぼう』さんでした」(瀨戸口さん)

名店「こうかいぼう」は煮干し、魚介系がまっすぐに効いた無化調(うま味調味料不使用)のラーメンを提供。瀨戸口さんは、それまではラーメンの味にしか興味はなかったが、味だけではなく接客の大事さを知ったという。

「『こうかいぼう』さんは“人柄”が成す味を教えてくれました。2回目に食べに伺った時に、女将さんはもう顔を覚えてくれていました。ラーメン自体の味はもちろん大事ですが、最後のピースは接客やお店の雰囲気であるということを学びました」(瀨戸口さん)

瀨戸口さんは「こうかいぼう」に弟子入りを志願したが、あいにく従業員を募集しているタイミングではなかった。店主からは「君ならどこでもやっていける」と背中を押してもらった。

次に瀨戸口さんが出会ったもう一つのお店が「六厘舎」だ。その後の東京のつけ麺ブームを牽引することになる名店。つけ麺にはそれまで興味はなかったが、「六厘舎」で食べて衝撃を受ける。

「つけ麺にはこんな凄いものがあるのかととにかく驚きました。とんでもないインパクトで、“つけ麺専門店”の出すつけ麺のパワーを知りました」(瀨戸口さん)

■初代店長として「六厘舎のレシピ」を確立

こうして22歳で瀨戸口さんは「六厘舎」の門を叩く。

まずはスープを作ってみて、これは底の見えない仕事だと思い知ったという。同じガラを使って同じ作り方をしても、作り手によって全然違った味になる。その奥深さに夢中になった。

可能性は無限大で、そうそう極められないことを知りつつ、毎日が楽しかった。

瀨戸口さんが「六厘舎」に入ったのは、創業から1年ぐらいたった頃で、大ブレイクの直前だった。テレビ番組で取り上げられ、オンエア後から一気に人気が沸騰した。「六厘舎」が大きくなっていく過程を間近で見られたことは大きな経験になっている。

その後、瀨戸口さんは初代店長に抜擢される。ここで瀨戸口さんはレシピやマニュアル作りを一から行う。それまでは店主の三田遼生さんの作り方を見て学ぶものだったが、これからお店が大きくなっていく中ではマニュアルが必要だと思ったからだ。

食材や調味料をグラム単位で、時間なども細かくマニュアル化し、できるだけ再現性の高いものを作り上げた。

「お店によっては『来る時間によって味が違う』ことや『作り手によって味が違う』ことが魅力になる部分もありますが、自分としては『六厘舎』はそういうお店ではないと捉えていました。『六厘舎』はいつ食べても濃厚で美味しくないとダメだったんです」(瀨戸口さん)

店主の瀬戸口亮さん。つけ麵の名店「六厘舎」で修業し、爆発的ブームが生まれた時期に初代店長として店を切り盛りした経験をもつ
筆者撮影
店主の瀬戸口亮さん。つけ麵の名店「六厘舎」で修業し、爆発的ブームが生まれた時期に初代店長として店を切り盛りした経験をもつ - 筆者撮影

■辞めたいと思ったことは「100回以上」あったが…

「六厘舎」が話題になってからは、「麺屋武蔵」や「中村屋」など各地の名店出身の人たちがつけ麺を学びに来て、瀨戸口さんは人に教える立場になっていく。

その後、東京駅の「東京ラーメンストリート」に支店ができて、瀨戸口さんは2店舗を見ることになる。さらに、この頃からデパートの催事やラーメンイベントなどにも出店するようになる。最終的には9店舗を見て、現場に出ながらマネージャーとして経営にも携わるようになった。

「『六厘舎』には結局8年在籍しました。辞めたいと思ったことは100回以上ありましたが、その都度『ちゃんと考えよう』と思い直しました。

30までに自分のお店を出そうと決めていたので、30歳6カ月で退職し、その後独立に向けて動き出しました」(瀨戸口さん)

券売機
筆者撮影

こうして2014年10月、埼玉県三郷市に「つけめん さなだ」はオープンした。長年「六厘舎」三田店主の右腕としてやってきた瀨戸口さん。「六厘舎」初代店長のお店ということで物凄いプレッシャーだった。

「とにかく三田さんの偉大さを思い知りました。三田さんが凄すぎたんです。お店に三田さんがいないと帰ってしまうお客さんも多かった。そんな『六厘舎』からの独立だったので、絶対にこけられないプレッシャーと戦いました」(瀨戸口さん)

■売り上げ1日2万円台が続き、給料は半分に

オープン景気はあったが、1日50~60杯に落ち着き始め、その後いきなり1日20~30杯という日が出てきた。独立して給料は『六厘舎』時代の半分になった。

そのうち、雨の降っていない天気のいい日にも20数杯で止まるようになり、そんな日が何日も続いた。エリア的につけ麺が浸透していなかったこともあり、時には「ラーメンないの?」とキレて帰るお客さんもいた。タバコを投げつけられたこともあった。

オープンから3カ月たった頃に、つけ麺の種類を増やし、麺の改良を行った。製麺をお願いしていた「浅草開化楼」の製麺師・不死鳥カラス氏に頼み込み、全粒粉入りの特注麺を開発してもらった。その甲斐もあり、次第に売り上げが上がっていった。

麺は全粒粉入りの特注麵を使用。丁寧に水で洗い、じっくり茹でていた
筆者撮影
麺は全粒粉入りの特注麵を使用している - 筆者撮影

「六厘舎」出身ということもあり、美味しいつけ麺を広げたいという思いがあったが、1年お店を続けてきて、ラーメンの需要を改めて感じ、冬の夜には「夜鳴きそば」を提供し始め、人気を博した。

瀨戸口さんが目指したのは、家族でも行ける専門店の味、かつ週2回食べられるつけ麺だ。

「大人だけで行ける店と、子連れで行ける店はまったく違うものです。子連れだと下手するとファミレスしか入れません。『さなだ』はそんな子供連れのファミリー客が入れるお店を目指しました。

高齢の方でも食べられるように、鶏を使って濃度を抑えながら食べやすいつけ麺を作り上げました」(瀨戸口さん)

「さなだ」のつけ麺
筆者撮影

■ピンチを救ったのは「常連客」だった

敷居の高いお店ではなく、あくまでフレンドリーで気さくな感じのお店を目指した。おかげで土日は家族連れで大行列になった。常連客がメインで、週1来てくれる人もたくさん現れた。

ドロドロのスープではなく、あっさりめに仕上げることで、スープを残されることもほとんどなかった。

のちに女将になるまやさんと瀨戸口さんは家族ぐるみの付き合いだった。実はまやさんのお父さんが「さなだ」のオープン日に食べに来ていた。その美味しさに感動したお父さんは、妻と娘のまやさんを連れてよく通っていたという。「さなだ」が従業員を募集した時は、最初にお母さんが応募してくれて、半年間働いてくれた。

従業員が足りなくなった時にお母さんに相談をすると「もううちの娘ぐらいしかいないよ」と言われ、今度はまやさんが働くことになる。こうして「さなだ」は母娘の働く店となる。

大学卒業まで働いたまやさん。瀨戸口さんはそれまで誰にも頼らず一人でお店を続けてきたが、次第にまやさんにお店の悩みを相談するようになる。ここから仲良くなり、2人でお店を作っていく素晴らしさを知る。

瀨戸口さんの好きな「こうかいぼう」にも一緒に行き、まやさんはその接客に感銘を受けて突撃取材し、「女将」をテーマに大学のレポートを作成した。まやさんとの出会いで、女性の視点の大切さを瀨戸口さんも学ぶことができた。

■大正ロマン風×大好きな道後温泉に似せた外観に

2019年には店を東京・北千住に移転し、東京で勝負をかける。

大正ロマン風のお店のコンセプトはまやさんによるものだ。温泉好きの2人は旅行で行った愛媛の道後温泉の雰囲気に惹かれ、道後温泉駅に見立てた店の外観にした。器も愛媛の砥部(とべ)焼だ。

「埼玉で味と店づくりを研究しブラッシュアップを重ねた中で、最終的には東京で出したいという思いがあったんです。三郷時代は『さなだ』を確立させる期間でした。

原価はどんどん値上がりしていましたが、多少高くなっても、原価を掛けることでより納得できる食材を使えると思い、煮干は伊吹いりこの最上級白口に、ベースに銘柄鶏の大山どりを使って勝負に出ることにしました」(瀨戸口さん)

大山どりを使うことで、以前よりも鶏の風味をさらに強めて旨味を深くした。売価は1000円に設定した。

もちろん「高い」と言われることは想定していたが、値段に見合ったものを作れば納得してもらえるだろうと思っていた。値段よりも安心安全で美味しいものを提供したいという思いが強かった。このタイミングで麺量を少し抑え、長さの変更をした。肉も研究し、数種類のチャーシューを仕込むようにした。

盛り付ける瀨戸口さん
筆者撮影

■値段は「各都道府県の最低賃金ぐらいでもいい」

「私の持論ですが、つけ麺の値段は各都道府県の最低賃金ぐらいであってもよいのではないかと思っています。

初めは厳しい声も多かったですが、今は悪い評価は本当に少なくなりました。悪く思った人をそう思わせないためにはどうしたらいいかを常に考えてブラッシュアップしてきたので、その結果だと思います」(瀨戸口さん)

三郷にあった頃から女性の入りやすさにはこだわっていて、女性従業員が作務衣で接客するのも好評だ。来店客の男女比は7:3。ファミリー客も引き続き多い。

「女性や家族に対する目線は、女将がお店に立つことでより強くなりました。女将はもともと『さなだ』のお客さんだったので、好きなつけ麺をもっと広めたい、もっと知ってもらいたいという熱が強いんです。その中で、あくまで主役はつけ麺と店主と、サポート役に徹してくれているのはとてもありがたいです」(瀨戸口さん)

現在月商は400万~500万円。今年の10月で10周年を迎えるが、まだ完成形は見えないという。営業時間の見直しや盛り付けの変更など、試行錯誤の日々だ。

一年通して売り上げの波は少なく、お客は常連客が多く、安定している。足立区の選んだ「あだちの輝くお店セレクション」にも選ばれた。これからも「さなだ」は北千住の街とともに生きていく。

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井手隊長(いでたいちょう)
ラーメンライター、ミュージシャン
全国47都道府県のラーメンを食べ歩くラーメンライター。東洋経済オンライン、AERA dot.など連載のほか、テレビ番組出演・監修、コンテスト審査員、イベントMCなどで活躍中。自身のインターネット番組、ブログ、Twitter、Facebookなどでも定期的にラーメン情報を発信。ミュージシャンとして、サザンオールスターズのトリビュートバンド「井手隊長バンド」や、昭和歌謡・オールディーズユニット「フカイデカフェ」でも活動。

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(ラーメンライター、ミュージシャン 井手隊長)

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