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「日本語に生まれて、フランス語を生きる」文学者だからわかった…日本からパワハラが消えない"意外な原因"

プレジデントオンライン / 2024年9月26日 10時15分

上智大学名誉教授の水林章さん - 撮影=今村拓馬

パワハラやカスハラの報道が絶えない。問題になっているにもかかわらず、消えないのはなぜか。『日本語に生まれること、フランス語を生きること』の著者である上智大学名誉教授の水林章さんは、背景に「日本社会の構造」と「日本語」があることを指摘する。ノンフィクションライターの山田清機さんが聞いた――。(前編/全2回)

■なぜ「告発者」が追い詰められるのか

パワー・ハラスメントの報道が絶えない。

北海道選挙区選出の参議院議員・長谷川岳氏(自民党)による自治体職員への威圧的言動、兵庫県知事・齋藤元彦氏(維新の会)による県庁職員に対する暴言や激しい叱責の疑惑、鹿児島県警では県警の不正捜査や不祥事の隠蔽をメディアにリークした巡査長と元生活安全部長が、当の鹿児島県警によって逮捕されるという異様な事態が起きている。

その他、地方自治体の首長や地方議員によるパワハラ報道は、枚挙にいとまがない状態だ。

なぜパワハラが多発するのかももちろん問題だが、パワハラ報道に接して最も恐ろしいと感じるのは、告発された側ではなく告発した側が追い詰められて、退職や自死を選んでしまうケースが多いことだ。

兵庫県の例では内部告発をした元県民局長が自殺したと見られ、鹿児島県警の例ではメディアに情報を提供した巡査長が守秘義務違反で懲戒免職、元生活安全部長は逮捕される直前に自殺未遂を図っている。また、内部告発ではないが、森友学園問題でも公文書の改竄を命じられた近畿財務局職員の赤木俊夫さんが、その旨を記した遺書を残して自殺している。

結果として告発者の方が不利益を被ってしまう状況に、寒々としたものを感じるのは筆者だけだろうか。

■『日本語に生まれること、フランス語を生きること』

昨年9月、『日本語に生まれること、フランス語を生きること』(春秋社)という、一風変わったタイトルの本が出版された。著者は上智大学名誉教授(フランス文学)で作家の水林章さんである。

水林章『日本語に生まれること、フランス語を生きること』(春秋社)
水林章『日本語に生まれること、フランス語を生きること』(春秋社)

水林さんはフランスの作家、ダニエル・ペナックの作品『学校の悲しみ』を翻訳したことがきっかけで、フランスの出版社、ガリマール社の名編集者、J=B・ポンタリスと知り合う。そしてポンタリスの勧めによって、フランス語による初の著書、『他所から来た言語』を出版。『他所から来た言語』は2011年度のアカデミー・フランセーズ仏語・仏文学大賞を受賞し、その後水林さんは、8冊の小説やエッセイをフランス語で発表している。

『日本語に生まれること、フランス語を生きること』には、パワハラが多発する日本社会の構造を解き明かすヒントが含まれている。

水林さんに、本書執筆の経緯から伺うことにした。

【水林】ポンタリスさんという人は、フランスでは誰もが一目を置く著名な編集者で、精神分析学者としても令名を馳せていた人です。彼の「君とフランス語の関係について書いてみないか?」という勧めによって『他所から来た言語』を書くことになったわけですが、ガリマールの出版システムはなかなか面白くて、何を出版するかを決める編集会議の中心にいるのは、いわゆる社員ではなく結構な数にのぼる高名な作家たちなのです。ポンタリスさんも作家の顔をもつ編集者でした。

■執筆のきっかけは「フクシマ」だった

【水林】本を出版した後に起こることも日本とはまったく違って、作家はフランス各地の大小さまざまな書店の招待を受け、読者との討論会にのぞみます。日本でも作家が書店に呼ばれてトークイベントが開催されることはあるようですが、作家は「先生扱い」をされますよね。ところがフランスでは、書店のスタッフや読者と対等な立場で、自著についてディスカッションをするのが印象的です。

ぼくはフランス語で本を出版したことによって、大学でフランス語を教えているだけでは決して知ることのできなかったことを、たくさん経験することになりました。フランス「社会」を内側から経験したと言ってもよいと思います。

フランス語で書いた最新の小説、『忘れがたき組曲』が出版されたのは昨年の8月ですが、すでに書店やブック・フェアに40回以上呼ばれて、読者の質問を受けたり、他の作家と議論を交わしたりしました。ゴンクール賞のセレクションに入ったことから、フランス全国の高校生と交流したり、あちこちの刑務所に出かけて受刑者と討論するという経験までしました。フランスはとにかく、「議論の国、討論の国」なのです。

帰国直前まで最新刊のディスカッションに呼ばれていたそうだ。
撮影=今村拓馬
帰国直前まで最新刊のディスカッションに呼ばれていたそうだ。 - 撮影=今村拓馬

フランス語で著書を発表することによって、フランス語を教えるだけでなく、まさに「フランス語を生きること」になった水林さんが、『日本語に生まれること、フランス語を生きること』を執筆する契機となったのは、フクシマだったという。

奇しくも2011年の3月11日、水林さんは日本からフランスに向かう飛行機に搭乗していた。水を飲みに飛行機後部のビュッフェに行ったとき、CAが「地震があったみたいです」と言ったのが印象に残っているという……。

■首相が118回虚偽答弁をしても抵抗が起こらない日本

【水林】フランスに到着すると、空港の巨大なモニターに大変な状況が映し出されているのでびっくりしました。その後およそ3週間、フクシマ原発事故の状況をパリでずっと注視し、不安な毎日を送りました。3月の末に帰国する際には、国が壊滅しかねない大惨事を前にしているのだから、日本でも原発の是非について国民的な規模での大議論が巻き起こるのではないかという気持ちを心に秘めていました。

ところが、事態は全然そのようには展開しませんでした。まして、原子力政策を推進してきた自民党に対する疑義なんて、ほとんど出てこない。これほどの危機的事態にいたっても、何事も起こらないのかと、正直驚きました。一時、大江健三郎や鎌田慧といった人たちが中心になって署名活動やデモが組織されましたが、一時の盛り上がりにもかかわらず、結局のところ、事態はフクシマなどなかったかのように進展しました。オリンピックの招致など、ぼくの目には集団的記憶からフクシマを抹消する試みのように思えたものです。

2012年に第2次安倍晋三内閣が成立すると、集団的自衛権の行使容認を閣議で決めてしまうといった政治の破壊、政治の私物化が次々と強行されていきました。はなはだしいのは、安倍首相による国会での118回にも上る虚偽答弁です。もしもフランスの政治家について同じようなことが発覚したら、大きなデモが起こって辞任に追い込まれるのではないかと想像します。

ところが日本では、こうした恐るべき腐敗状況が存在するにもかかわらず、国民の側から有意な抵抗が起こることがなく、なし崩し的に物事が進んでいくのです。なぜ、この国では何事も起こらないのか? この、白井聡(政治学者)言うところの、「完成した奴隷根性と泥沼のような無関心」の根本にはいったい何があるのか? 

こうした疑問を抱いたことが、『日本語に生まれること、フランス語を生きること』を執筆するきっかけでした。

■「えらい人に聞かないとわかりません」という表現

水林さんは、有意な抵抗が起こらない原因のひとつに、日本社会に内在している構造的な特徴を挙げる。これは、パワハラやカスハラが多発する原因でもあるという。

【水林】日本社会の構造的な特徴は、上位者が下位者に命令し、下位者が上位者に隷従するという垂直的な構造です。ぼくは歴史の専門家ではありませんが、その直接の起源は徳川幕藩体制によって作られた天皇→将軍→大名→家臣→領民という体制、すなわち法度体制(権力者が被支配者に対して「ああしろ、こうしろ」という命令を差し向ける法体制)にあると考えています。法度体制は、8世紀に中華帝国から移入した律令体制が原型になっているわけですが、人間の階層化の根幹にあったのは天皇制です。

こうした、天皇を頂点とする日本社会の秩序の特徴は、上位者に「価値」が集中することです。それを日常の言葉で表現すれば、「えらい」ということになる。われわれは「えらい人に聞かないとわかりません」とか「えらい先生がおっしゃっているので」などという表現を頻繁に使いますが、福沢諭吉はこうした上位者に価値が集中する現象にいち早く気づいていて、それを「権力の偏重」と名づけました(『日本語に生まれること、フランス語を生きること』p.230-239。以下、ページ数の表記はすべて同書のもの)。

■いわゆる「内部告発」がしにくい日本

たとえば官僚制(官庁ばかりでなく企業をも貫く合理化された「組織」という広い意味での官僚制)を例にとってみると、本来、上下の区別は単に作業の役割分担なのであって、上位者であることは人間としての価値とは何の関係もないはずです。ところが日本では、福沢が指摘したように、上位者に価値が集中して「えらい人」になってしまう。『文明論の概略』を読み抜いた丸山眞男が説明してくれているとおりです。

「えらい人に聞かないとわかりません」といった表現は頻繁に使われているという。
撮影=今村拓馬
「えらい人に聞かないとわかりません」といった表現は頻繁に使われている。 - 撮影=今村拓馬

このことを「個人」と「集団・組織」との関係という観点から見ると、この国では帰属集団に超越する価値が決して支配的にならないという点が重要です。上位者が体現する集団の価値が絶対化してしまうのです。ですから、たとえば、「知事」の理不尽な行動について疑問を抱いた下位者が、「県庁」という集団・組織を超越する価値(たとえば「良心」)に依拠して糾弾するという、いわゆる内部告発がしにくいのです。

集団の価値が絶対化し、それが自明の、問われることのない価値であれば、告発者は裏切り者と見なされ徹底的に弾圧されます。いわゆる「村八分」の構造ですね。この国の最終的な帰属集団は「日本」ですから、最後には「おまれはそれでも日本人か」という殺し文句が出てくる。ここにはこの国のあり方と西欧世界のそれとの根本的な相違があると思います。

西欧にも絶対君主といわれるような「国王」がいましたし、今でも国王を抱えている国がありますが、西欧では絶対君主といわれる場合でさえ、国王は絶対ではないのです。あらゆる地上的存在を超越する神=普遍者がいるからです。ですから、そのような超越的普遍者を拠り所に抵抗を試みる可能性がいつも存在しました。しかしこの国には、唯一鎌倉仏教の時代を除いて、そのような普遍者意識が存在しなかったようです。もしもこの国に普遍者意識があり、そこに重きをおく文化があれば、「内部告発」を重視し、告発者を擁護するはずなのです。以上は、ぼくが加藤周一、丸山眞男に学んだことの一端です。

■告発者は「わきまえない人間」となる

この垂直的な構造と権力の偏重がパワハラを生み出す温床となっていることは、容易に推測がつくことだろう。人間が階層化され、しかも「上の人」に価値が集中する社会では、上の人が「下の人」に対して横暴に振る舞うことが容認され、下の人はその横暴に隷従するのを当然だと考える。なぜなら、上の人の方が「えらい」からだ。

まれに横暴に耐えきれずに内部告発に踏み切る人が現れても、告発者は身柄を保護されるどころか、むしろ「わきまえない人間」として組織内で孤立するか、組織から排除されてしまう。わが国でパワハラの内部告発者が退職や自死に追いやられるケースが多い理由は、そこにあるだろう。

【水林】別の言い方をすれば、日本の組織(企業、政党、学校等々)は、いまだに親分・子分の原理によって貫かれている、ヤクザ的な世界だということです。

自民党という組織を見れば一目瞭然ですが、森喜朗、麻生太郎、二階俊博といった老齢の、しばしば世襲的に継受される「親分」が隠然たる権力を持っていて、「子分」である若手議員は親分に隷属することによってしか生きる道を見いだせない。親分の言うことイコール自分の考えであって、そこから抜け出すことはできないのです。「派閥解消」などといっても「派閥的なもの」は決してなくならない。組織の構造そのものだからです。

■「わきまえ」なくてはならないのは女性だけではない

【水林】かつてぼくが所属していた学会にも親分らしき「えらい先生」がいたものですが(笑)、まだ若かった頃、自分の思うところを堂々と述べてしまったものですから、そういう親分的な先生の一人の怒りを買ってしまったことがありました。いみじくも親分のひとりである森喜朗の言葉ですが、オマエは自分を「わきまえて」いないということだったのでしょう。

江戸時代の儒者である石田梅岩の石門心学では、人間にはそれぞれ与えられた「分限」があり、各人が分限をわきまえ、分限をはみ出さないことが社会の秩序を安定させると考えるわけですが(p.66)、要するに生まれ落ちた境遇に満足せよということですね。農民は農民であることに満足せよ、商人は商人であることに満足せよ、社会、組織の中の地位をわきまえてそれに甘んじて生きよということです。

以前、「週刊金曜日」が「『わきまえない女』でいこう」というタイトルを打っていましたが(2021年3月19日発売1321号)、日本社会で「わきまえ」なくてはならないのは、決して女性だけではないのです。

こうした、親分による抑圧から自由になるためには、親分と縁を切って離れてしまえばいいのかといえば、事はそう単純ではないようだ。なぜなら、わが国では組織のトップだけが「えらい」わけではないからだ。「えらい」人は、予期せぬ形でわれわれの前に立ち現れてくる。

■殿様のような管理職が、重役の前では前かがみに…

【水林】政治学者の丸山眞男は、戦前の日本の軍隊=皇軍では、人間の地位が「天皇との距離」によって測られていたと述べていますが、日本社会の絶対的な上位者は天皇であって、これは常に変わることがありません。ところが天皇以下の人間の上下関係は、必ずしも固定的ではないのです。

日本社会では、客観的かつ固定的な形で人間の上下関係が決まっているのではなく、社会関係によって上になったり下になったりする。たとえば作家の山本七平は、『一下級将校の見た帝国陸軍』(文春文庫)という本の中で、山本の家に出入りしていた腰の低い酒屋の店員が、徴兵検査会場で新兵の検査をする立場になったとたん、恐ろしく傲慢な人間に豹変するのを目撃したと述べています(p.246)。

ぼく自身、学生時代に某大商社で通訳のアルバイトをした経験があるのですが、あるフロアでは殿様のように振る舞っている管理職が、重役のいる最上階に行ったとたんにかしこまってしまって、言葉使いがガラっと変わるだけでなく、姿勢=身のこなしまで前屈みになるのを目にしました。こうした現象――相手によって言語および身体的作法が著しく変化するという現象――はフランスでは見たことがありません。

■カスハラに作用する「抑圧移譲」の原理

【水林】福沢諭吉に深く学んだ丸山眞男は「抑圧移譲」という表現を使っていますが、日本社会では組織のトップだけが抑圧者なのではなく、ある人物が上位者から抑圧を受けると、その抑圧を自分よりも下位の人間に仕向けていく(移譲する)のです。

そして、「抑圧移譲」が集中的かつ極限的な形で現れたのが、戦前の日本軍=皇軍でした。五味川純平の『人間の條件』(岩波現代文庫)で描かれているように、下級の兵士は古参兵から徹底的にいじめを受けるわけですが、アジア諸国の人々に対して目を覆うような残虐行為を直接的に働いたのは、他ならぬ下級兵士だったわけです。つまり、日常的に抑圧を受けている人間が、立場が変わったとたんに抑圧する人間に化けてしまうのです。

いま問題になっているカスタマー・ハラスメントには、まさに「抑圧移譲」の原理が作用していると思います。自分の職業現場では上位者からいじめを受けている人間が、客という立場になったとたん、店員に暴言を吐くようになる。なぜなら、日本では「お客様は神様」ですから、小売店の店内では絶対的な上位者=「えらい」人なわけです。

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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。

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(ノンフィクションライター 山田 清機)

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