負傷者の四肢をもぎ取って、その肉を食べていた…豊臣秀吉による「史上最悪の兵糧攻め」の凄惨な光景
プレジデントオンライン / 2024年9月14日 9時15分
※本稿は、河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
■歴史作家が感服する秀吉の根気強さ
秀吉は築城の才があるだけでなく、城攻めも得意とした。中国平定戦でも巧みな攻城戦で次々と敵を屈服させていった。なかでも「三木の干殺し」「鳥取城の渇え殺し」「備中高松城の水攻め」は、日本の戦史上、刮目に値する戦いだとされる。
秀吉は戦よりも調略(事前工作や外交戦)を重視した。敵地の民情や家臣団の人間関係などを把握したうえで、甘言をもって誘降し、あるいは内部分裂を誘って自滅させるのを得意とした。
天正5年、そうした調略によって秀吉は難なく播磨を平定したが、翌6年2月に三木城主の別所長治が毛利氏に応じて叛旗を翻すと、今度は10月に織田家重臣の摂津国有岡城主・荒木村重が反乱をおこした。結果、播磨国内の国衆もほとんど毛利方になってしまった。
秀吉は、背いた三木城の周囲に柵や塀を幾重にも構築して城方の動きを封じ、30以上ある別所氏の支城を各個撃破する根気強い戦術をとった。結果、三木城内は食糧が尽きて飢え死にする者も現れたので、城主の別所長治は、自分と弟、叔父の命と引き換えに城兵の助命を秀吉に求めた。
秀吉はそれを了承し籠城戦は終わりを告げたが、終戦は籠城開始から2年後の天正8年正月のことであった。通常なら焦燥感に駆られて力攻めにしてしかるべきだが、秀吉の根気強さには感心する。
■究極の心理戦術「鳥取城の渇え殺し」とは
秀吉の鳥取城攻め(鳥取城の渇え殺し)を『信長公記』や江戸中期に書かれた香川景継の『陰徳太平記』(史料的価値は低い)などを参考に詳述していこう。
鳥取城主の山名豊国は、織田氏と毛利氏とのはざまで去就を決めかねていたが、天正8年(1580)、秀吉が大軍で鳥取城下に迫り、「織田に臣従するなら因幡一国を安堵するが、逆らえば人質を全て殺す」と伝えてきた。
このため豊国は、家臣の反対を押し切って織田方に降ってしまった。そこで秀吉は包囲を解いて帰陣するが、『陰徳太平記』によると、それからしばらくして山名氏の重臣が豊国を説得して翻意させたという。
これを知った秀吉は、鳥取城下で人質を木に縛り付けて次々と殺害し、豊国の愛娘も磔にしようとしたのだ。驚いた豊国は、娘を救おうと城を脱して秀吉のもとへ駆け込んでしまったといわれる。一説には、豊国が秀吉に降伏しようとしたので、重臣たちが鳥取城から主君を追放したともいう。
いずれにせよ、山名の重臣たちは主君の豊国に追従せず、毛利方に臣従を誓い、鳥取城に城将の派遣を要請した。そこで毛利輝元は、重臣の吉川経家を遣わしたのである。
鳥取城の離反を知った秀吉はすぐに出陣せず、入念に準備を整えたうえ、天正9年6月になってから兵2万人を率いて出立した。峻険な山城である鳥取城を力攻めにするのは難しいと判断し、兵糧攻めを企てたのである。
■欲に目がくらんで米を売り払った
兵糧攻めの基本は城の包囲を厳重にして糧道を完全に断つことだが、これに加えて秀吉は、城内の食糧を奪うこと、兵糧を早く消費させることにまんまと成功した。
出発に先立って秀吉は、若狭国の商船を雇い入れ、鳥取城のある因幡国へ遣わし、米などの穀物を時価の数倍で買い集めさせたのだ。若狭の商人を用いたのは、自分の仕業だと悟られないためだった。
このため、鳥取城周辺の農民は喜んで米穀を売り、鳥取城の兵までもが、欲に目が眩んで城米を売り払った。結果、戦う前から鳥取城の兵糧は払底していた。
さらに秀吉は、鳥取城下の領民たちに故意に危害や圧迫を加え、彼らが城へ避難するよう追い立てたのである。こうして、城内人口は4000に膨れ上がったが、うち半数は非戦闘員。彼らは戦の役に立たぬばかりか、兵と同量の飯を食うため、籠城戦が始まるとすぐに食糧が足りなくなった。
標高263メートルの久松山にある鳥取城は、四方が険しい地形になっており、北から西にかけて蒼海が広がっている。近く流れる大河(千代川)の岸辺(城から二十町離れた地点)には出城が置かれ、河口にも要害が築かれていた。この出城と要害は、安芸から水路で味方(毛利軍)を鳥取城に引き入れるためにつくられたものだった。
■ネズミ一匹通さない包囲網
鳥取城から1.5キロ離れた場所に、城と同じくらいの高さの山(252メートル)がある。秀吉は鳥取城下に着陣すると、ここに登って敵の城を眺めたあと、この山(本陣山)を本陣と定めて陣城(太閤ヶ平(たいこうがなる))を築いた。
太閤ヶ平は「大規模な土塁・櫓台で囲まれた方形の区画(内法=東西約58m・南北約58m)で、さらにその土塁の裾を大規模な横堀がほぼ全周する堅固な要塞」(西尾孝昌・細田隆博著「太閤ヶ平」村田修三監修・城郭談話会編『織豊系城郭とは何か その成果と課題』所収サンライズ出版)であった。
秀吉はその後、太閤ヶ平を中心に深さ8メートルにも及ぶ空堀を総延長12キロにわたって鳥取城の周囲に掘り回し、頑強な塀や柵を何重にも築いたうえ、約70の砦を設けた。そして1キロごとに3階建ての櫓を建て、騎馬武者20人、射手100人を配置し、500メートルごとに番所を設け、50名を入れて監視させたという。
また、毛利の援軍を警戒し、自軍の背後にも堀を掘り、柵を構築し、遠くからの矢が当たらないよう、高い土塁を築かせた。さらに、水路での敵方の兵糧輸送や城兵の脱出を防ぐため、海上に警護船を浮かべ、千代川や袋川に乱杭を打ち、縄を張り巡らした。
■籠城兵を精神的に追い詰める
こうして包囲陣が完成すると、鳥取城と中継の出城・要害との連絡は完全に絶たれた。秀吉は海辺の集落を容赦なく焼き払い、夜になると、無数の提灯や松明で鳥取城の周囲を照らし、昼間のように明るくした。
そして昼夜の別なく鐘や太鼓を叩き、あるいは鬨の声をあげさせ、城内に鉄砲や火矢をふいに放って不安を煽り立てた。このため、恐怖におびえて安眠できず、精神的に滅入ってしまう城兵が続出した。
また、制海権を握った秀吉は、丹波や但馬から自由に船で兵糧を運ばせ、城内が飢えているのをいいことに、これ見よがしに多数の商人を城外に呼び集め、市を開いて食べ物を売買させたり、都から芸人を招いて盛大に歌舞を演じさせたりした。大いに城内の厭戦気分を煽ったのである。
このどんちゃん騒ぎは、部下のためでもあった。長陣は兵を倦(う)ませるので、市を開いたり芸人を招いたりしたのだ。さらに秀吉自身が駕籠に乗って1日2度も陣中を見て回り、現場の軽輩に気安く声をかけて励ましたという。このため羽柴軍は常に活気と明るさに包まれ、長期戦による弛緩を感じさせなかったと伝えられる。
■負傷兵に群がり…
『信長公記』によれば、秀吉はこの鳥取城を囮に使うつもりだったという。安芸国から毛利本軍が後詰めに来た場合、2万の軍勢のうち数千の弓・鉄砲隊を繰り出して矢戦を展開し、その後、毛利軍が秀吉の陣城に押し寄せてきたら、敵を苦戦させたうえでどっと斬りかかり、ことごとく敵兵を皆殺しにし、その勢いで中国全土を一気に平らげようと考えていたというのだ。
しかし毛利軍は鳥取城に大軍を送らず、籠城4カ月で城は陥落してしまった。
落城間近になると、飢えた城兵が柵際に取り付き、もだえ苦しみながら羽柴軍に「ここから出して助けてくれ」と哀願するようになった。しかし秀吉は、容赦なく彼らを鉄砲で撃ち倒した。すると、まだ息があるにもかかわらず、城兵たちは刃物を片手に負傷者たちに殺到し、手足をもぎ取って、肉を剝ぎ、それを喰らったという。
ここにおいて、ついに城将の吉川経家は抵抗を断念。「自分と森下道与、奈佐日本介の三将が腹を切ることで城兵の命を助けてほしい」と降伏を申し入れた。秀吉がこれを了解すると、三将の首が秀吉の本陣に届けられた。
■立派すぎる「太閤ヶ平」の本当の役割
約束どおり秀吉は、鳥取城の籠城兵を全て放免した。ただ、彼らの多くは飢えて動ける状態ではなかった。不憫に思った秀吉が、彼らに十分な食べ物を与えたところ、一気に腹に入れたため過半数が頓死してしまったという。
ともあれ秀吉は、味方の損害を出さずに名城を手に入れたのである。なお、鳥取城攻めの陣城・太閤ヶ平は、三木城攻めや高松城攻めの陣城と「比較しても太閤ヶ平は圧倒的な構造を有する」(西尾孝昌・細田隆博著「太閤ヶ平」村田修三監修・城郭談話会編『織豊系城郭とは何かその成果と課題』所収サンライズ出版)ため、「単に秀吉の本陣ではなく、織田信長の出陣を前提に築かれた」(前掲書)という説もある。
じっさい、『信長公記』には、信長が鳥取城へ出向く覚悟があることが記されているので、秀吉は毛利本軍が鳥取城に来援したら、信長の応援を仰いで毛利軍を撃破し、信長とともに中国地方を平らげようと目論んでいたのかもしれない。
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歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史作家 河合 敦)
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