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7歳で嫁いだ豊臣秀頼は祖父に殺され、次の夫は31歳で早世…徳川家康の孫・千姫がたどった数奇な運命

プレジデントオンライン / 2024年9月15日 9時15分

お菊井戸。姫路城内。(写真=Takobou/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons)

徳川家康の孫、千姫とはどんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「最初に嫁いだ豊臣秀頼が没した後は、姫路城主の本田忠政の息子・忠刻の正室となった。だが、姫路にいたのはわずか9年だった」という――。(第2回)

※本稿は、河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

■姫路城が舞台の「怪談・皿屋敷」

奇妙な話は、たいてい一つや二つ、城には伝わっているものである。姫路城にも七不思議(じっさいには七つ以上ある)が残っている。

せっかくなので、いくつかを紹介しよう。

姫路城本丸のすぐ南、上の山里と称する台地に直径3メートルもある古井戸がある。かなり大きいので、姫路城を見学した方は印象に残っているはず。かつてお菊という娘が惨殺され、この井戸に投げ込まれたことからお菊井戸と呼ぶそうだ。

井戸からは時折、幽霊と化したお菊の声が聞こえるという。1枚、2枚、3枚とか細い声で数を数え、9枚目に来ると悲しそうにすすり泣き、ふたたび一枚から数えなおすという。

今から500年以上前の永正年間、まだ姫路城主が小寺則職の時代の話である。小寺氏の家老・青山鉄山は、主家の乗っ取りをたくらんでいた。これに対し、同じ家老の花房常秀は企みを察知し、お菊という娘を鉄山の屋敷に住み込ませ、情報を収集させていた。しかし結局、小寺則職は鉄山に姫路城を奪われ、お菊も間者であることがばれてしまう。

すると鉄山は、姫路城奪取の祝宴に小寺氏家宝の皿10枚を使用するが、宴後、それを1枚隠し、わざとお菊に皿を片付けさせ、足りないのをお菊のせいだとしてさんざん拷問にかけたうえ、最後は斬り殺して例の井戸に投げ込んだのである。

それからというもの、毎夜皿を数えるお菊の声が、井戸の底からこだまするようになったという。

この話は播州皿屋敷として、昔からこの地方で語り継がれている。ただ、皿屋敷の物語は全国各地に散在する。内容も時代もそれぞれ違うが、どういうわけか、被害者の名がお菊、古井戸から皿を数える声というのだけは共通している。

■天守が東に傾いている?

皿屋敷で最も有名なのは、やはり江戸の旗本屋敷を舞台にした番町皿屋敷だと思うが、いったいなぜ、同じような物語がたくさんあるのか、それこそが一番不思議である。

ちなみに、お菊井戸には水がなく、底から水平に抜け道が掘られ、城外の岩窟につながっていると伝えられてきた。抜け穴がばれぬよう、幽霊物語をこしらえて人が近づくのを防いだという話もある。ただ残念ながら調査の結果、抜け穴は発見されなかった。

続いて、天守にまつわる不思議を紹介しよう。

「東かたむく姫路の城は花のお江戸が恋しいか」

これは昔、城下でうたわれた俗謡だ。歌詞の内容は、天下の姫路城の五重天守が、東に傾いてしまっているというもの。果たしてそんな馬鹿なことがあるのだろうか。実は、あるのである。

昭和の大修理のさい、天守の傾斜を調べたところ、なんと東南側に50センチほど傾いていることが判明したのだ。これは、地盤沈下が原因だとされる。天守は姫山東端に位置するが、これを築くさい、敷地が不十分だったので、東南側に盛り土をして広さを確保したのだ。

そのため、盛り土をした地域が沈み始め、天守が東南へ傾いてしまったのである。そこでの天守解体修理のさい、コンクリートを流して補強したので、現在は傾斜していない。

5年間の屋根と壁の改修を経て、2015年5月に完成した姫路城
5年間の屋根と壁の改修を経て、2015年5月に完成した姫路城(写真=Niko Kitsakis/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■源兵衛は本当に生き埋めにされたのか

そんな天守の傾きについて、悲惨な伝承が残っている。

天守の作事責任者である大工の桜井源兵衛は、完成してまもなく妻をともない上へのぼった。というのは、天守が傾いている気がして仕方なかったからだ。そこで天守に妻をのぼらせ「傾いていると思うか」と問うた。妻は正直に「そう思います」と答えた。すると源兵衛は「素人のお前にもわかるか」と落胆し、後日一人で天守にのぼり、口にノミをくわえ飛び降りて死んだと伝えられる。責任を痛感しての自殺だったのだろう。

ただ、この話が史実とは思えない。いくら責任者だからといって、勝手に大工が女房を天守にともなったり、自由に一人で出入りできるはずがない。源兵衛の死が事実なら、むしろ他殺の可能性が高い。

城の内部構造、とくに極秘部分にたずさわった大工や職人が殺されたという逸話は各地に残っている。それに源兵衛が他の大工と生き埋めにされたという伝承もあり、その場所が埋門だといわれている。

ちなみに姫路城清水門の外、中堀と船場川を分ける外郭の土塁上に2メートルあまりの石碑が立つ。碑の表に記されてあった文字は、摩滅して読みとることができないが、伝承では源兵衛の墓石だと伝えられる。

だが、果たして天守の設計に失敗して自殺した職人の墓を建てるだろうか。墓石を建立してから源兵衛の魂はよく城を守護したというが、この石、そもそも墓石の形状をしていない。城下の旧家に残る文書によれば、元禄時代、船場川改修工事の竣工記念に清水門外に石碑を建てたもので、誰かが勝手に源兵衛の墓石だと語るようになったようだ。

■姫路城は池田家→本多家に

さて、輝政が50歳で亡くなると、輝政の嫡男(長男)・利隆が家督を相続した。ところがわずか3年後、利隆は若くして亡くなってしまう。嫡男の光政はわずか8歳、幼児に西国の要である播磨は任せられないと判断した幕府は、池田家を鳥取城へ移封してしまった。

領地は播磨から因幡・伯耆2国になったが、石高はあわせて三十二万石、播磨時代から十万石の減封となった。

こうして池田氏は、3代17年で姫路城を去り、代わって譜代の本多忠政が城主となった。忠政は徳川四天王・忠勝の嫡男として生まれ、父の隠居後、その領地を踏襲して桑名城主となった。大坂の役での戦功に加え、嫡男の忠刻が千姫と結婚したので、今回、姫路に栄転となったという。

周知のように千姫は豊臣秀頼の正室で、大坂落城のさい城から救い出された。

千姫を忠刻の妻にと願ったのは、忠政の妻で忠刻の生母・熊姫だった。熊姫も千姫同様、家康の孫(松平信康の娘)だが、婚家の本多家と将軍家の結びつきを深めたいと考え、祖父の家康に懇願したらしい。

忠勝が他界したあと、忠政は弟の忠朝と相続争いになり、結局、忠政が全てを継承したが、このおり、潔い忠朝の態度に感服した家康は「忠朝のほうが忠勝に似ている」とほめた。これに忠政・熊姫夫妻は、危機感を抱いたようだ。

千姫(天樹院)の肖像画(部分)
千姫(天樹院)の肖像画(部分)[写真=弘経寺(茨城県常総市)所蔵「千姫姿絵」/PD-Japan/Wikimedia Commons]

■流産を繰り返した上、夫は早世

家康は熊姫の願いを聞き入れ、元和2年(1616)9月、夫・秀頼の喪もあけないうちに千姫は忠刻のもとに嫁いだ。本多家には十万石という莫大な千姫の化粧料(持参金)が入り、翌年、忠政は桑名十万石から姫路十五万石へ移封する。

河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)
河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)

いまも姫路城の西の丸に残る化粧櫓は、千姫の居間として、彼女が持参した化粧料で建てられたもの。このとき忠政は、西の丸を高石垣で囲む大改修をおこなっている。化粧櫓の居室は全て畳敷きである。当時としては贅沢であり、壁や襖も極彩色の花鳥が描かれ、絢爛豪華な雰囲気を醸し出していた。また忠政は、三の丸に新たな御殿を創建している。

忠刻と千姫の夫婦仲はよく、千姫は元和4年に勝姫を生み、翌年に再び懐妊し、男児(幸千代)を出産した。ところが元和7年、幸千代は3歳で夭折してしまう。豊臣秀頼の祟りとの噂が立ったので、千姫は元和9年に伊勢慶光院の周清上人に秀頼の供養を依頼。

周清は、千姫が所持する秀頼の直筆(南無阿弥陀仏の名号)を観音像の胎内に納め、男山山麓の祠(現・男山千姫天満宮)に安置した。千姫は化粧櫓の西窓から毎日この祠を遥拝したという。

■道行く男を屋敷に招き入れ性交したという噂

けれども、その後も千姫は流産を繰り返し、3年後には夫の忠刻が31歳で早世してしまった。本多家は忠刻の弟・政朝が嗣ぐことになり、千姫は姫路城を去って江戸へ戻った。

その後は吉田御殿に住み、道行く男を屋敷に招き入れ、性交のあと男を殺して井戸に投げ捨てたという伝承が生まれるが、もちろんそれは後世のつくり話。千姫は江戸城内の竹橋御殿に住んでおり、一般人が通行できるところではない。

史実の千姫は、剃髪して天樹院と称し、一人娘の勝姫を立派に育て上げ、寛文6年(1666)に70歳で死去した。

ちなみに姫路城主は本多氏のあと、松平氏、榊原氏とたびたび変わり、最後は酒井氏が明治までの120年以上、姫路城を支配し続けたのである。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)

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