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家康が死の間際に「もう会えなくなるな」と惜しんだ…城郭の新しいスタンダードをつくった天才武将の名前

プレジデントオンライン / 2024年9月16日 9時15分

藤堂高虎(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

戦国時代の武将、藤堂高虎とはどんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「元は秀吉配下の武将だったが、途中で家康に傾倒した。彼のために下僕のように働いたことから、外様ながら譜代大名のような待遇を受けた」という――。(第3回)

※本稿は、河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

■家康が伊賀上野城を建てさせた目的

藤堂高虎は、伊賀上野城の本丸に、五重の天守を建造し始めた。当初は今治城の天守を移築する予定だったが、幕府の丹波亀山城に寄進したので新築することになったのだ。

高さは天守台を含めて34メートルを予定していたという。30メートルの高石垣で囲まれた本丸の上に立てるのだから、優に60メートルを超える。いまでいえば20階建てぐらいのビルに相当する。

一説には、大坂城の豊臣方を威圧する目的があったという。伊賀上野城の天守は、大天守に小台(小天守)を接続させる複合式天守だったらしい。らしいというのは、建設途中で断念してしまったからである。じつは、とんでもないアクシデントに見舞われたのである。

慶長17年(1612)9月2日、作事(普請)は順調に進んで天守はほぼ完成し、五重目の瓦を葺き終えたところだった。だがこの日、伊賀上野周辺がにわかな大風雨に見舞われたのである。

城普請を統括していた奉行の石田清兵衛は、できるだけ天守の破損を防ごうと、大工や職人たち数十人を指揮して懸命の作業をおこなっていた。しかし、風雨はますます強まり、とうとう天守の三重目を吹き崩し、そのまま建物は東南方向に倒壊してしまったのだ。

■画期的な城下町

一階と二階部分は残存していたというから、真ん中(三階)から折れて吹き飛んだのだろう。倒壊したさい、その振動や音は数里先まで聞こえて、近隣の住民を驚愕させたという。それだけではない。この事故で多くの犠牲者が出てしまったのだ。なんと180人が亡くなり、多数が負傷したと伝えられる。

しかも、このとき天守に上がっていた作事奉行の平松喜蔵は転落死している。石田清兵衛も天守におり、15メートルほど吹き飛ばされて墜落したが、傘を持っていたのでどうにか死は免れた。ただ、このときの事故で負傷し、一生身体が不自由になってしまったという。

天守倒壊後、高虎が新たに天守を建てることはなかった。一説には、わざと豊臣方を安心させるために崩したとか、巨大な天守をつくって徳川方に疑われぬよう取り壊したという説もあるが、さすがにそれはあり得ないだろう。

伊賀上野には新たに城下町を造成したが、これにも高虎の特色がよく出ているという。

研究者の藤田達生氏は、「高虎の城下町の特徴は、非常に幅の広い道路を何本か並行して直線的に通し、それに何本か街路を直行させていくという面的な広がりを持つ都市設計に求められる。これは今治城下町で確認されるが、転封によってさらに明瞭となった。たとえば上野城下町では本町筋を四間幅(約7.2メートル)、二之町筋・三之町筋を三間幅としている。整然とした開放的なプランを実現し、人と物の集まりやすい環境をつくることによって、商工業の発展を支えたのである」(「藤堂高虎の城づくり・町づくり―今治から津へ―」藤堂高虎公入府四百年記念特別展覧会『藤堂高虎その生涯と津の町の発展~』津市・津市教育委員会編所収)と述べている。

■津城をリフォームする

伊賀上野城は家康のための城なので、高虎は伊勢国津(安濃津)に自分の居城をつくり始めた。その名からわかるとおり、津は平安時代から栄えた港町であり、もともと小規模な城が存在した。その後、このあたりは織田信包(信長の弟)の領地となり、さらに秀吉時代に富田知信(一白)が入城している。

伊賀上野城
撮影=プレジデントオンライン編集部
伊賀上野城 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

そんな津城を高虎が大規模に改修して居城としたのである。とはいえ、藤田達生氏によれば、「それまでの城郭を潰したり移転したりして立派なものにつくり変えるということはせずに、既にあるものを使ってどこまで拡大できるのかということに挑戦したようだ。したがって、天守や本丸はできるだけ活かしたものとなっている」(藤田達生著『江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎』講談社現代新書)とある。

事実、本丸を北側と東側に広げて高虎が好む正方形にしたが、内堀の中に一直線に西の丸、本丸、東の丸が並ぶ(連郭式)形状は富田氏時代からのものだといわれる。石垣も犬走りがあるところと、ないところがあり、犬走りを有する箇所は富田氏時代のものと考えられ、それをそのまま使用したらしい。

■「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」

高さも伊賀上野城のように高くはないが、やはり反りがない点では高虎式の特徴を備えている。だだっ広い水堀も、高虎が大きく拡幅したのだろう。なんと本丸の南側の堀は幅100メートル、北側の堀は幅70メートルもあった。これが津城最大の特徴だといえ、とても泳いで渡れるものではない。

本丸の天守も富田知信がつくった三重天守をそのまま使い、それに二重の小天守を連結したとされる。ただ、本丸には新たに三重櫓を二棟、二重櫓を三棟つくり、周囲を多門櫓(計約450メートル)で囲み、東西には枡形虎口をつくっている。こうした構造は高虎が好む手法であった。

そんな内堀全体を囲むかたち(輪郭式と呼ぶ)で二の丸が置かれ、外堀がうがたれ、その外側に城下町がつくられた。さらに城下町の北と南は河川をもって防御とし、西側には湿地帯をそのまま残して敵の襲来を防いだのである。

なお、伊勢街道(参宮街道)を曲げて城下町に引き入れ、町を繁栄させようとした。じっさいのちに「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」といわれるようになった。伊勢国は津という港町があるので伊勢神宮には参拝客が多く、一方、津の港は神宮へお参りする参拝客が使用するので栄えるという意味だ。

伊勢神宮
写真=iStock.com/OscarEspinosa
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/OscarEspinosa

■下僕のごとく家康に仕える

伊賀上野城と津城の完成前に、徳川と豊臣の武力衝突が始まってしまった。慶長19年(1614)の大坂冬の陣である。高虎も先鋒として参戦したが、大坂城内からは連日、高虎の陣へ激しい罵声があびせかけられたという。

秀吉の寵愛を受け大禄を与えられたのに、死後すぐに家康に取り入って伊予半国の大大名に栄達し、まるで徳川の家来のようにその権力強化のために尽力し、大坂城を圧迫する堅城を次々につくっているからだ。恨まれて当然であろう。

冬の陣で先鋒となった高虎だが、翌元和元年(1615)の夏の陣でも井伊直孝とともに先陣に選ばれている。ただ、さしたる戦闘を経験しなかった冬の陣と比較し、夏の陣は大変な試練となった。

八尾という大坂城南東8キロ地点において、長宗我部盛親軍と激突したのだ。

高虎は、敵が臨戦態勢を整える前に突撃して蹴散らそうと試みたが、八尾が湿地帯で急進が困難なうえ、長宗我部盛親軍がよく持ちこたえたので、結果として死闘となった。最後はどうにか長宗我部盛親軍を撃退できたものの、重臣の藤堂高刑や藤堂氏勝を含む300騎を失う大損害を被り、軍として再起不能に陥った。

そのため翌日は、先鋒辞退を申し出ざるを得なかった。しかし戦後、この奮戦を評価され、参戦武将としては最高の五万石を与えられた。

■江戸幕府のスタンダードとなる城をつくった

豊臣滅亡後、伊賀上野城と津城の工事はストップした。元和元年(1615)に将軍徳川秀忠の名をもって一国一城令と武家諸法度が出されたからであった。主に西国大名に対し、居城一つを除いて領内の城や砦を全て破却させ、新規の築城は認めないことにしたのである。大名の防衛力を大幅に削ぐのが目的だった。武装解除に等しい措置といえた。

高虎も命に従い、伊賀上野城と津城の修築を中止した。伊賀上野城の本丸が全て石垣で囲われず、土塁のままなのは、そのためだという説もある。

大坂の役後も、高虎の家康への傾倒ぶりは変わることはなかった。家康は臨終の床で高虎に「もう会えなくなるな」と寂しそうにいった。

高虎は「あの世でお目にかかれます」と答えたが、家康は「おまえとは宗派が違うので無理だ」と返した。すると高虎は、その座にいた天海僧正を導師として即座に家康が帰依していた天台宗に改宗したといわれる。

河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)
河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)

何の躊躇もせず、先祖代々の宗派を捨て去るのは、なかなかできることではない。いかに家康に尊崇していたかがわかる。高虎はその後、十数年を生き、将軍秀忠、そして家光にも信頼され、幕府のご意見番的な立場になった。家康の霊廟である日光東照宮の縄張りをになったのも高虎であった。

豊臣の大坂城を埋めて、新たに徳川の大坂城を築城したが、その縄張りを担当したのも高虎だ。さらに大坂城の石垣、二条城や淀城、上野寛永寺の縄張りや造立・増築に関わるなど、最晩年まで築城に関わり続けた。そして、寛永7年(1630)に75歳で没したのである。

藤堂高虎は、さまざまな工夫を凝らした鉄壁の城を生み出したが、自身が天下人徳川家康と結びついたことで、高虎式の城は江戸幕府のスタンダードとなり、諸大名に模倣され、江戸時代の主流となったのである。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)

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