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3人家族で収入609万円、支出は600万円…副業しないと暮らしていけない下級武士の「ギリギリ家計簿」

プレジデントオンライン / 2024年9月17日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tekinturkdogan

江戸時代の支配階級だった武士はどんな生活を送っていたのか。一般的な御家人の収入は約600万円だったのに対し、幕府トップの将軍の収入は1兆3890億円にも上ったという。歴史学者・磯田道史さん監修の『新版 江戸の家計簿』(宝島社)より、一部を紹介する――。

■家禄が多いほど裕福になる、わけではなかった

米が貨幣の単位となった江戸時代では、武士の給料(禄)もまた、米で支給されるのが通例だった。金銭で支払われるのは稀で、食用にする分以外を換金して用いた。上級の武士は主に知行地という領地を与えられ、その土地の年貢から支払われる。これを知行取と呼ぶ。下級の場合には、直接、米が支給される蔵米取(切米取ともいう)が一般的だった。

知行取の武士の収入は、親から子へと引き継がれる「家」に対する禄であるため、「家禄」と呼ばれた。この家禄に応じて役職に就くことができ、米で支給される役料や、金銭で支給される手当などをもらうことができた。

一方で武士は戦に備えるため、家禄の石高に対応して家臣を常時、雇わなければならなかった。家禄200石で約5人、1000石で21人ほど、1万石になると200人にまでなる。家禄が多いほどその分出費もかさみ、家計を圧迫した。

■家族や家来を養うため内職に励んだ武士たち

その他、下層の御家人や諸藩の下級武士のなかには「50俵3人扶持」と表記される者がいる。この「扶持」とは家来を雇うための手当であり、人数に応じて支給額が決まった。

「50俵3人扶持」の場合(図表1を参照)、蔵米50俵は現在の価格にして約525万円。扶持は1日1人玄米5合支給とし、年間(360日で計算)すると1石8斗となる。3人だと約5.4石。現在の価格にすると約162万円だが、家来の食事にも充てるので、すべて換金できたわけではない。

【図表1】武士の収支
収入は蔵米525万円、内職30万円、扶持54万円。支出は家族のほか家来も養うため、衣服代や食費、光熱費で600万円に上った[出所=『新版 江戸の家計簿』(宝島社)]

家族や家来を養い、その他、行事や仕事での出費もかさむため、武士は内職も余儀なくされた。傘張り、提灯作りから、金魚やコオロギ、鈴虫などを飼育し売り出すなど、さまざまな内職をし、家計の足しにしていた。

■江戸に「単身赴任」した紀州藩士の食生活

人口100万人超の大都市・江戸は、その約半数が武士階級の人間たちで、その多くが江戸勤番として地方からやってきた武士だった。そうした地方武士の江戸暮らしの実際を今日に伝えるのが、紀州藩士・酒井伴四郎の記した日記である。

禄高25石の下級武士であった伴四郎は、故郷・和歌山に妻子と両親を残して約1年7カ月にわたって江戸勤番を務めた。現代で言えば、単身赴任のサラリーマンといったところだろうか。

単身赴任の男性となると外食が常と考えがちだが、勤番侍が屋敷の外を出歩くのを、藩側は快くは思っていなかったため、基本は同僚の藩士と共同生活を送る長屋で、自炊をするのが日常だった。

朝に米を炊き味噌汁と一緒に食べ、昼はだいたい冷や飯で済ませるか、おかずに野菜、魚などを添えた。夕食は冷や飯を茶漬けにして香の物を添える程度である。特に伴四郎が好んだのは、豆腐だったようだ。そのまま冷奴で食べたり、温めて湯豆腐で食べたり、串に刺して焼いた焼き豆腐なども買ったりしている。

■江戸幕府将軍の収入はなんと1兆円超

江戸幕府の誕生以来265年余り続いた江戸時代。支配階級である武士の生活を支えるためにさまざまな商人や職人たちが江戸に集まった結果、同時代のヨーロッパ最大の都市ロンドン(約70万人)やパリ(約50万人)を凌駕する巨大都市へと変貌した。

武家を中心とする統治機構によって日本全国を支配した江戸幕府の財政収入は、金に換算して約401万1766両に及ぶ(天保9〈1838〉年頃)。内訳は主に年貢収入や直轄鉱山からの収益である。徳川将軍家がおよそ800万石を所有していたと一般に知られる。

しかし、これは家臣の旗本の領地を合算した値である。実際には400万石ほどが天領で、江戸幕府中興の祖であり、享保の改革を実施した8代将軍・吉宗の頃に、新田開発と年貢徴収の強化で最大463万石に達したという。

現在の価格に換算すると、1兆3890億円となる。むろん、すべてが将軍個人の収入になったわけではないが、莫大な金額が幕府の財源となっていた。

8代将軍吉宗の石高は約463万石。現在の価格では1兆3890億円になる
8代将軍吉宗の石高は約463万石。現在の価格では1兆3890億円になる[出所=『新版 江戸の家計簿』(宝島社)]

■高収入の大名たちを苦しめた参勤交代

江戸時代の武家社会は身分や格式が厳格に定められ、それに応じて、収入額も異なった。

将軍の直臣のうち、1万石以上の知行を持つ者が、いわゆる「大名」である。なかでも尾張、紀州、後に水戸の三藩は「御三家」と呼ばれ、最も格式の高い大名だった。将軍家に継嗣がない場合、この三家のうちから将軍が選出された。

江戸幕府に直属した1万石未満の武士を直参と呼ぶ。江戸時代には、将軍に謁見できる御目見得以上を旗本、謁見できない御目見得以下の武士を御家人としていた。

大名の収入は、「加賀百万石」で有名な加賀藩の場合(102万5000石とする)、「現代感覚」で算出すると約3075億円にものぼる。しかし、江戸時代の大名は「参勤交代」の制度によって、江戸と領地を行き来することが義務付けられているなど、出費も多かった。

参勤交代における大名行列は、3万石クラスの大名で、150人から300人規模の供の者を従えた。しかし、加賀藩の場合、5代藩主・前田綱紀、4000人もの大行列を組んだとも伝わる。行列の費用や江戸の滞在費など、大人数の移動は大名にとって相当な負担となった。それは、藩財の約6割も占めたという。

■旗本の収入は1200万~12億円までさまざま

将軍直臣のうち、1万石未満の直参は、旗本と御家人に大別される。

旗本は100石から1万石未満と大小さまざまだったが、200石から600石程度の中堅層が多数を占めた。役職としては主に管理職に就いたが、大別して戦時に備える「番方」と、行政等の組織運営を行う「役方」に分かれる。書院番から奉行職になり大名にまで上り詰めたのが大岡忠相だが、江戸時代を通じて極めて稀有な例である。

御家人は、将軍直参のなかでも「御目見得」以下である。将軍に謁見する権利はなく、俸禄の多くが蔵米取だった。収入も旗本に比べ少なく、宝永年間(1704-1711年)の蔵米高によれば、50俵未満、10俵以上の御家人が9割を超していたとされる。主に与力や同心など、奉行の下で働く職に就いた。

旗本の実収入は1200万~12億円未満、御家人の実収入は1200万円以下だった
旗本の実収入は1200万~12億円未満、御家人の実収入は1200万円以下だった[出所=『新版 江戸の家計簿』(宝島社)]

旗本が務めた奉行、御家人が務めた与力、同心は時代劇でもお馴染みの役職である。

■2人しかいない町奉行は3億円超稼いだ

旗本は役職に応じて、役料を得たが、そのすべてが役職に就けたわけではない。全旗本のうち半数にも及ぶ2300家は無役だった。こうした無役の旗本であっても、江戸城の石垣や屋根の修復といった普請(工事)には人夫を派遣する役目があった。無役のため役料は入らず、ただ出費だけがかさむ。旗本の半数が経済的に逼迫していたと言える。

磯田道史監修『新版 江戸の家計簿』(宝島社)
磯田道史監修『新版 江戸の家計簿』(宝島社)

そうした旗本の役職のなかでも江戸の町奉行は、南町奉行と北町奉行に1人ずつと、わずか定員2名。実務能力が高い旗本が選ばれた。俸禄も高く、約1050石、現在の価格にすれば、年収3億1500万円にものぼる。

むろん、家来の世話など出費もかさむためすべてが収入となったわけではない。しかも町奉行は激務だったことで知られていた。江戸の行政・司法・治安維持・防災といった行政面だけでなく、経済・金融政策なども担う。そのため、在職期間は平均5、6年に過ぎなかったという。そのなかでも大岡忠相は20年間も奉行職を務めたというから、その優秀さが推して知れる。

■江戸時代の警察「同心」は年収300万円

南北町奉行にはそれぞれ、与力25騎、同心120人が勤務していた。奉行を補佐し、財政や人事から市中の治安維持まで、職務は多岐にわたる。御家人身分で、禄高は150〜200石ほどが平均。現在の価格にすると年収4500万〜6000万円ほど。

幕臣内では下級の部類とされるが、このほかに諸大名からの付け届けなど副収入も多く、裕福な暮らしだったという。与力の下で実務を行った同心は、主に市中見廻りを担う、江戸時代の警察である。

私費で岡っ引き(目明かしともいう)を雇い、捜査活動に従事した。市中の風聞を調べる隠密廻り、定期的な巡回を行う定廻り、臨時の巡回にあたった臨時廻りの3つを総称した三廻りが主な任務だ。同心の家禄は30俵程度の小禄であったが、諸大名からの付け届けもあったという。

同心の収入は300万円、岡っ引きの収入はたったの7万5千円
同心の収入は300万円、岡っ引きの収入はたったの7万5千円[出所=『新版 江戸の家計簿』(宝島社)]

付け届けとは、一種の賄賂のようなもの。参勤交代のため、大名は江戸屋敷に多くの家臣を置いた。彼らが江戸市中で騒ぎを起こした際、穏便に済ませるために特定の与力や同心に付け届けをしたのである。

また、御家人は幕府から組単位で屋敷を拝領した。与力、同心の場合、八丁堀に組屋敷があったことで知られる。与力は約250〜350坪、同心は100坪ほどの屋敷が与えられたが、学者や医師、絵師などに貸し付け、地代を取って収入にする者も多かったという。

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磯田 道史(いそだ・みちふみ)
歴史家
1970年生まれ。歴史家。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。国際日本文化研究センター教授。『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞受賞)、『天災から日本史を読みなおす』(日本エッセイスト・クラブ賞受賞)、『日本史を暴く』『徳川家康 弱者の戦略』など著書多数。

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(歴史家 磯田 道史)

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