父・兼家でも紫式部でも天皇でもない…"婚活"で大出世した藤原道長が唯一逆らえなかった人物の名前【2024上半期BEST5】
プレジデントオンライン / 2024年9月19日 16時15分
■これから大河で描かれる藤原道長の婚活
ありとあらゆる政略を駆使して自分と一族の栄華を極める。史料から読み取るかぎり、藤原道長とはそういう人物だと思っていたので、「光る君へ」で柄本佑が演じている道長、すなわち正義感があり、人の心に敏感で、打算のない恋愛をする道長像には、多少の違和感を覚えていた。
もっとも、それが若さだということもできる。康保3年(966)に生まれた道長は、「光る君へ」の第10回「まどう心」(3月17日放送)では、まだ数え21歳ほど。身分が違うまひろ(紫式部のこと、吉高由里子)に真剣に恋しても、不思議ではない年齢なのだろう。この回でも2人は密会し、熱い口づけを交わした。
しかし、ここから先はドラマでも、ようやく道長らしさが発揮されるのではないだろうか。というのも、道長はまひろに結婚を申し込んだが、正妻でなければ嫌だといわれて、彼女との関係にケリをつけたからである。
道長はいまや摂政の息子。それが無官の下級貴族の娘を正妻に迎えるなど、当時の常識から外れている。それを求めたまひろが非常識なのである。脚本家は、紫式部の常識にとらわれないスケールを描くために、彼女にそんな要求をさせたのかもしれないが、ともかく、道長はここから、常識的な婚活に勤しむことになる。
■義父からは「問題外」と言われた道長の結婚
対象の一人が、左大臣源雅信の娘で、「光る君へ」では黒木華が演じている倫子だった。この時点で道長の父の兼家はすでに摂政であり、その息子を婿にするのは悪くないように思えるかもしれない。だが、道長は所詮、末っ子の五男(正室の子としては三男)だった。だから雅信は、「ことのほかや(問題外だ)」(『栄華物語』)と、最初は一笑に付している。
雅信には、自分の家は兼家の家とは血筋が違う、という意識もあった。『源氏物語』の主人公の光源氏が、天皇の子であったことを思い出してほしい。皇族の数が多くなりすぎないように、天皇の子の一部は姓をもらって臣下の籍に降りた。その姓の一つが「源」だった。
こうした姓は平や在原などほかにもあったが、なかでも源の姓は一世、すなわち天皇の子にあたえられることが多く、血統がより天皇に近かった。事実、源雅信の父は、宇多天皇の息子で醍醐天皇の同母弟の敦実親王で、雅信自身が天皇の孫だった。最初から臣下である藤原氏とは血統が違う――。雅信も、そういう自負を抱いていたに違いない。
だから、雅信は倫子を后候補として育てたのだが、花山天皇はエキセントリックで上級貴族がみな入内を躊躇し、次の一条天皇はまだ7歳。事実上、行き場を失っていたため、倫子の母、穆子の勧めもあって、道長は婿入りすることができた。
■同じく天皇の血筋を引く源氏なのに
道長側がこの結婚で、政界における左大臣のバックアップと、高貴な血筋による箔(はく)づけをねらったことはいうまでもない。そして、時期はおそらく少しだけさかのぼるが、道長は源明子とも結婚している。道長の実姉で一条天皇の母、詮子のもとに引きとられていた明子は、血筋だけなら倫子を上回っていた。
父の源高明は醍醐天皇の息子だから(源雅信とは従兄弟)、明子は孫になる。宇多天皇のひ孫であった倫子よりも、血統が天皇に近かった。ただ、左大臣だった高明は藤原氏による策略で太宰府に流され(安和の変)、のちに死去していたので、明子には当時の結婚に重要だった、親や親族による後ろ盾がなかった。それでも、道長は血筋を欲したということだろう。
しかし、道長にとっては血筋プラスアルファも重要だった。2人の妻はそれぞれ、道長とのあいだに子沢山で、倫子は2男4女、明子は4男2女をもうけた。ただし、子供たちの処遇は、正室となった倫子が産んだ子と、事実上、側室であった明子が産んだ子とで、道長は露骨に差をつけたのである。
たしかに、倫子は明子が子を産む前に、長男の頼通と長女の彰子を産んでいた。だが、それにしても、というほどの差がつけられた。
■ショックで仏門に入った側室の子
まず、倫子腹の男子は長男の頼通も五男の教通も、関白太政大臣という、臣下としては考え得る最高位にまで出世した。
一方、明子が産んだ男子は、次男の頼宗が右大臣になったものの、四男の能信と六男の長家は権大納言止まりだった。むろん、一般にはまずまずの出世なのだが、倫子の息子とのあいだの格差は歴然としていた。
長保3年(1001)10月9日に起きたことを、藤原実資は『小右記』に記している。この日、道長の姉で一条天皇の母、詮子の40歳の祝いが、道長が住む土御門殿で行われ、10歳の長男頼通が「蘭陵王」を、9歳の次男頼宗が「納蘇利」を舞ったという。
これを観ていた一条天皇は、とくに頼宗の「納蘇利」を気に入り、褒美をつかわした。すると、道長は露骨に不機嫌になった。居合わせた人たちは、「蘭陵王は正妻の子だが、納蘇利は側室の子で道長の愛情が浅い。それなのに、側室の子だけ激賞されたから道長は立腹したのだ」と言い合ったというのだ。
また、寛弘8年(1011)年末のこと。三条天皇は道長の三男で明子が産んだ顕信を蔵人頭、すなわち天皇の側近中の側近である秘書室長に抜擢しようとした。むろん、18歳の顕信は大よろこびだったに違いないが、道長はこの人事を断ってしまった。
道長は、そのときの政治状況を読んだのだろうし、自信が考えている息子たちの秩序を乱されたくないという思いもあったのだろう。だが、顕信はかなりのショックを受けたようで、1カ月後の長和元年(1012)正月16日、突然、出家してしまったのだ。
■娘にも大きな格差
娘たちの嫁ぎ先も、その差は歴然としていた。倫子が産んだ娘は、長女の彰子が一条天皇の中宮になったのを皮切りに、次女の姸子は三条天皇の中宮、四女の威子は後一条天皇の中宮になった。
六女の嬉子は、中宮にはなれなかったが、それは入内した東宮(皇太子)が後朱雀天皇として即位する前に没したからにすぎない。要は、全員を天皇や東宮のもとに入内させ、正室にしたのである。
では、明子が産んだ娘はどうか。三女の寛子は19歳で、三条天皇の第一皇子である敦明親王の女御になったものの、その時点で親王は即位への道が断たれていた。また、五女の尊子は22歳で源師房のもとに嫁いだ。
この師房は村上天皇の第七皇子であった具平親王の子で、臣籍降下しているとはいえ天皇の孫ではある。しかし、倫子の娘が4人とも天皇や東宮に嫁いだのとくらべると、明らかに差がつけられている。『栄華物語』によれば、兄の頼宗や能信もこの縁談には、さすがに納得できなかったという。
■正室の尻に敷かれていた道長
だが、道長の出世に倫子が大きく貢献したことを考えれば、この格差も致し方なかったのかもしれない。道長は倫子と結婚するまで、摂政の息子とはいえ末っ子にすぎなかった。いま暮らす土御門殿も、もともとは源雅信夫妻から倫子が受け継いだものだった。
以下の話は、寛弘5年(1008)11月1日、倫子が産んだ道長の長女、彰子が一条天皇の中宮として産んだ敦成親王が生まれて五十日の祝いの日でのできごとだという。『紫式部日記』によれば、祝宴後に道長が「中宮の父として自分は好ましく、自分の娘として中宮は好ましい。母(倫子)もまた幸運で、良い夫をもったと思っているようだ」と発言したところ、倫子は怒って席を立ってしまったという。
道長は自分と結婚した倫子は幸運だという認識を示したが、山本淳子氏は「倫子に言わせれば、運が良かったのは彼女ではなく道長の方だった」と書く(『道長ものがたり』朝日選書)。どういうことか。
道長のいまがあるのは、「源氏の左大臣家が彼の後ろ盾となり、結婚当初からパリッとした装束を着せて人心を集めるなど、中関白家(註・道長の長兄、道隆の家)が隆盛を極めた時期でも経済的・政治的な援助を惜しまなかったからこそである。道長はその恩を忘れてはならない」。だから「倫子を玉の輿に乗せたかのような言い方は、断じて許すことができない」。それが倫子の認識だったと山本氏は記す(前掲書)。
道長は倫子の態度に立腹するどころか、すぐに彼女の後を追ったという。
木村朗子氏は、当時の貴族社会では「正妻格の子でなければ、劣り腹の子として扱われた。女たちは序列化されており、その女たちの序列にしたがって子も序列化されるわけである」と記す(『紫式部と男たち』文春新書)。
だから、道長が倫子所生と明子所生とで子供のあつかいを露骨に変えたのは、当時の常識にかなっている。加えて、倫子の家の政治力、経済力を当てにして、自分の出世と家の繁栄につなげた。最初からそれをねらい、実現させた。だから倫子には頭が上がらない。藤原道長とは、そういう人物だったのである。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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