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夫・一条天皇への愛が少女を大人に変えた…「うつけ」と呼ばれた中宮彰子が「天皇家を支える国母」になるまで

プレジデントオンライン / 2024年9月22日 10時15分

「光る君へ」で彰子を演じる見上愛。映画「衝動」の舞台あいさつにて=2021年12月、東京都豊島区 - 写真=共同通信社

藤原道長の娘で、一条天皇に嫁いだ彰子とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「12歳で入内したものの、引っ込み思案な性格もあって一条天皇に受け入れられなかった。その状況を変えたのは道長の行動と紫式部の教育だ」という――。

■NHK大河で放送された衝撃的なシーン

これまで引っ込み思案で、夫である一条天皇(塩野瑛久)の顔さえ真っすぐ見ることができなかった中宮彰子(見上愛)。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第30回「中宮の涙」(9月16日放送)では、そんな彰子が一皮むけて「大人」になる様子が描かれた。

彰子はまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に、不意に尋ねた。「光る君に引きとられて育てられる娘は、私のようであった。私も幼きころに入内して、ここで育ったゆえ。この娘は、このあとどうなるのだ?」。

まひろが「いま考えているところでございます」と答え、さらに「中宮様は、どうなれば良いとお思いでございますか?」と問い返すと、彰子はこう答えた。「光る君の妻になるのが良い。なれぬであろうか? 藤式部(註・まひろの後宮内での呼び名)、なれるようにしておくれ」。

これを彰子の一条天皇への真情だと受けとったまひろは、こう促した。「中宮様、帝にまことの妻になりたいと、仰せになったらよろしいのではないでしょうか。帝をお慕いしておられましょう?」。彰子は「そのようなことをするのが私ではない」と答えるが、まひろは彰子が豊かな心の持ち主であることを説いたうえで、「その息づくお心のうちを、帝にお伝えなされませ」と、さらに促した。

ちょうどそこに一条天皇が現れると、彰子は目に涙を溜め、半ば泣きつくように「お上、お慕いしております」と、心の内をはじめて「夫」に吐露したのである。これは視聴者にとって、かなりインパクトがある場面だったのではないだろうか。

■一条天皇を動かしたふたつの要素

その後、一条天皇は藤原道長(柄本佑)に、「左大臣、御嶽詣でのご利益はあったのか?」と尋ねた。御嶽詣でとは、道長が長女の彰子の懐妊を願って、危険を冒してまで金峯山に参詣したことを指している。道長が「まだわかりません」と答えると、一条は「今宵、藤壺(註・彰子の後宮)に参る。その旨伝えよ」と告げた。

つまり、一条天皇は道長の必死の御嶽詣でと彰子の告白を受けて、彰子と夜の営みをする決意をし、その予定を告げた。これはそういうシーンだった。寛弘4年(1007)も暮れに近づいている時期のことである。

こうして彰子は、史実として年内に懐妊し、翌寛弘5年(1008)9月11日、ついに道長の念願だった皇子、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産する。

寵愛した亡き皇后定子(高畑充希)への思いを断ち切れず、また、入内した当時、数え12歳にすぎなかった彰子を、なかなか妻として受け入れられなかった一条天皇の変化。それを促したのは、史実においても「光る君へ」で描かれたのと同様、道長の御嶽詣でによるプレッシャーと、彰子の精神的な成長だったと考えられる。そして彰子の成長には、紫式部による貢献が無視できない。

【図表1】藤原家家系図

■「私、漢文を学びたい」

彰子が入内したのは長保元年(999)で、年齢はわずかに数え12歳だった。そのころは定子が健在で、そもそも彼女は、道長の長兄である道隆の政略として入内したのだが、一条天皇とは、この時代には異例の「純愛」関係にあった。しかも、彰子が女御になったまさにその日、一条の第一皇子、敦康親王を出産しており、幼い彰子が一条から顧みられる余地など、まったくなかった。

それから8年間、彰子は一度も懐妊することなく、存在感が薄いままだった。「光る君へ」では、そんな彼女が「うつけ」と呼ばれているという描写があったが、外れていないと思う。しかし、最高権力者の道長が大がかりな御嶽詣でを挙行してまで、彰子の懐妊を祈願しているとなれば、一条も彰子を放っておくことはできなくなったに違いない。

加えて20歳になった彰子に、一条天皇への思いが芽生えていたことも推察される。

そのころ、紫式部は彰子を相手に漢文の講義をはじめている。『紫式部日記』によれば、だれかに要請されたからではなく、彰子が漢文のことを知りたそうにしていたからだという。その時期は、懐妊中の寛弘5年(1008)の夏ごろからだと考えられているが、その前年だとする見方もある。

彰子が漢文を学びたいと思うきっかけと思われる文言が、『紫式部日記』のなかにある。一条天皇が『源氏物語』を女房に読ませ、それを聞いて一条が「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし(この人、つまり紫式部は日本書紀を読んでいるに違いない。非常に才能があるはずだ)」と述べた、というくだりである。

■一条天皇の世界につながりたい

平安時代の中期から後期には、女性にとっては、たとえ高位の人物でも漢文の教養は必須ではなくなっていた。だから、道長も彰子に漢文を教えていなかった。

しかし、一条天皇は『源氏物語』を読んで即座に、漢文で書かれた『日本書紀』の影響を読みとった。彰子は漢文を学ぶことで、一条天皇の世界につながりたいと思ったのではないだろうか。一条が寵愛した亡き定子は、母親で漢文の才があった高階貴子の影響で、漢文に通じており、定子は一条と漢文の趣味を分かち合っていたとあっては、なおさらだっただろう。

テキストに選ばれたのは、中唐の詩人、白楽天の詩文集『白氏文集』で、そのなかの「新楽府」が選ばれた。『白氏文集』は平安時代のはじめごろ日本に伝わり、わかりやすい表現と劇的な描写で、貴族必携の書となっていた。そのなかでも「新楽府」は、とくに儒教的な色彩が濃く、一条天皇の好みに合っていたという。

いうまでもなく紫式部は、中国で書かれた漢文の書物(漢籍)に精通し、漢詩人としても名高かった父、為時の教えのおかげで、漢文に関する教養と才能は群を抜いていた。とはいえ、宮中ではそうした能力を見せると妬まれるので、漢文などまったく読めないように振舞っていたのだが、彰子には自身の才をもとに講義をはじめたのである。周囲に知られないようにこっそりと、ではあったが。

■紫式部との信頼関係

『紫式部日記』にはこんな記述がある。「宮の御前も『いとうちとけては見えまじとなむ思ひしかど、人よりけにむつまじうなりにたるこそ』と、のたまはする折々侍り〔中宮様も『あなた(註・紫式部)とは非常に気を許して付き合えるとは思わなかったけど、ほかの女房たちよりずっと親しくなってしまいました』と、おっしゃったこともありました〕」。

こうして彰子は紫式部と信頼関係で結ばれたうえで、講義を受け続けた。それは『紫式部日記』によれば、2年も続いている。

人目を避けて行っていた講義だったが、やがて一条天皇や道長の知るところとなり、道長は書に長けた人物に書かせた漢文の書物を、彰子のもとに届けたりしている。道長としては、漢文が彰子と一条天皇を近づけるかすがいになるなら、よろこんで後押ししたということだろう。

一条天皇が彰子のもとへ渡って懐妊させたことには、決死の御嶽詣でまで行って懐妊を願う道長の要求に応えたという面があるだろう。しかし、それだけなら、敦成親王が生まれた時点で、一条天皇は責任を果たしたことにもなるが、彰子は敦成親王を出産した翌寛弘6年(1009)11月25日にも、敦良親王(のちの後朱雀親王)を出産している。

やはり漢文を学んで一条天皇に近づきたい、という彰子の思いが、一条に受け入れられた面があるのではないか。そうであるなら、それは紫式部の功績でもある。

紫式部日記絵巻断簡
紫式部日記絵巻断簡(画像=東京国立博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■道長も戸惑うほどの精神的成長

道長は彰子の学びを後押しし、彰子は「新楽府」をとおして儒教的な政治思想を学び、一条天皇の心に近づく努力をしながら、精神的にも成長していったと思われる。だが、そのことは道長にとっては両刃の剣でもあった。

彰子は亡き定子が産んだ一条天皇の第一皇子の敦康親王を、8年にわたって親代わりとして育ててきた。その敦康の即位を一条天皇は願っていたが、じつは彰子も、第二皇子の敦成親王を出産したのちも、敦康に先に即位してほしいと望んでいた。

敦成がどうでもよかったのではなく、敦康が先に天皇になっても、遅れて敦成が天皇になる可能性は十分にあった。だから『栄花物語』によれば、後継選びの際、彰子は道長に何度も、敦康を東宮にするように申し入れたという。だが、聞き入れられなかった。すでに40代の道長は、元気なうちに一刻も早く天皇の外祖父になりたかったからである。

いずれにせよ、引っ込み思案で自己主張ができなかった彰子が、父に抵抗するほど強く成長した。そして、道長の死後も、「国母」として積極的に政治に口を出し、長く影響力を維持して87歳まで生きた。

その原点は、紫式部との学びにあったと思われる。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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