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NHK大河でどこまで描けるのか…吉原で生まれ、花魁のガイドブックを手掛けた「江戸のメディア王」の才気

プレジデントオンライン / 2024年9月28日 16時15分

版元として出版物の序文に登場した蔦屋重三郎の肖像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

2025年NHK大河の主人公は、大衆的な娯楽本や浮世絵の出版を手がけ、喜多川歌麿や東洲斎写楽、葛飾北斎らを見出した蔦屋重三郎だ。彼が「江戸のメディア王」と呼ばれたのはなぜか。予備校講師・伊藤賀一さんの著書『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化』(Gakken)より、一部を紹介する――。

■両親の離別で養子に、家族は謎だらけ

大御所の有徳院(元8代将軍徳川吉宗)が、嫡男である9代将軍家重の後見をしていた寛延3(1750)年1月7日。蔦屋重三郎は、尾張国(現在の愛知県北部)出身の吉原(現在の台東区千束)で働く父の丸山重助と、江戸生まれの母・津与の間に生まれた。

幼名はおそらく「柯理」で、読みは不明(「からまる」と読む説があるが、後付けかもしれない)。父・重助の仕事の詳細や、兄弟姉妹の有無も不明である。

7歳のとき、両親が離別したことで引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川(北川)家の養子となった。引手茶屋は、男性客を遊女部屋へ案内する茶屋である。

御三家の筆頭、尾張徳川家の領地から江戸に移り住んだ父は、なにか特別な縁故でもない限り、当時の「人材派遣業」「職業安定所」であった口入屋の斡旋を受けた可能性が高い。

口入屋は、主に短期の奉公人や日雇い仕事を斡旋するが、遊郭(公娼街)・岡場所(私娼街)における性産業での仕事を紹介したり、賭場の用心棒を紹介することもあった。

■遊女の案内書「吉原細見本」を売り出す

安永元(1772)年、22歳の蔦屋重三郎は、吉原大門口の五十間道で引手茶屋を営む義理の兄・蔦屋次郎兵衛の軒先を借り、小さな書店を開店した。のちに「耕書堂」と呼ばれる初めての自分の店である。

当初は鱗形屋孫兵衛が発行する「遊女の案内書=吉原細見本(さいけんぼん)」の販売代理店や貸本屋だったが、江戸時代の書店は版元(印刷物の出版元、本の発売元)を兼ねることが普通で、蔦重も卸売・小売・版元として経営規模を拡大していった。

■当時の江戸の本屋は「やりたい放題」

江戸の出版界には二つのタイプがあった。もともと文化水準・経済水準が高かった上方(京都・大坂 ※現在の大阪)の資本が経営する専門書を主に扱った「書物問屋(書物屋)」と、江戸時代中期以降急速に発展した、江戸の資本が経営する大衆書を主に扱った「地本問屋(地本屋)」である。蔦重の耕書堂は、もちろん後者であった。

大衆書とは、絵入り小説の草双紙(子ども向けの赤本という絵本から始まり、大人向けの黒本・青本と発展し「黄表紙」「洒落本」「読本」「滑稽本」「人情本」につながる)や浄瑠璃本、各種案内書などを指す。

また、春画・人物画・風景画などの浮世絵(現世の世相・風景を描いた絵)版画も販売していた。

地本屋では、現在でいう小説・絵本・歌集・アダルト本・ガイドブックのようなものを広く扱い、さらに江戸には和漢物を扱う本屋、漢籍専門の唐本屋、写本を扱う書本屋などもあった。

8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」期に、統制のため「仲間」と呼ばれる組合の結成を命じられたり、幕政への批判を監視するために出版統制令を出された書物屋とは違い、当時の地本屋は相対的にやりたい放題だった。

■世界最大の「消費都市」で版元として活躍

当時の江戸は、100万人を超える世界最大の「消費都市」で、貨幣経済が大いに発展した。その勢いある経済が生み出す商品の広告が、上方(京都・大坂)にならって刊行点数を増やしてきた書籍や浮世絵に掲載されたのである。

蔦重は販売代理店としての卸売・小売のみならず、版元としての活動を広げることでメディア王への道を開いていった。

吉原で蔦重が始めた小さな本屋は、日本橋大伝馬町に古くからある鱗形屋孫兵衛の「鶴鱗堂」が版元だった吉原細見本『細見嗚呼御江戸』の卸売・小売からスタートしている。そのとき編集者としてかかわった蔦重は、平賀源内に「福内鬼外」名義で序文を書いてもらったことで彼との接点ができた。

■花魁の独自ガイドブックで業界を席巻

安永3(1774)年、鱗形屋の手代(使用人)・徳兵衛が大坂の版元との間で重板(同じ物を改題して無断で出版する)トラブルを起こして江戸から追放された。主人の孫兵衛も罰金刑を受けて、鶴鱗堂は一時的に吉原細見本を出版できなくなったのである。

24歳の蔦重はこれを機に、各店の「上級遊女=花魁(おいらん)」の名を実際の花に見立てて紹介する遊女評判記『一目千本』を独自に編集・出版し、その本は上客への贈答品となった。そして、2年後に鶴鱗堂の吉原細見本が復活した後も、この本の話題でもちきりだった。

こうして版元にもなった蔦重は、天明3(1783)年までに鶴鱗堂などから版権を続々と買い取り、販売網も整備し同種の本を『吉原細見』という呼称に統一し、このジャンルを独占することになった。

■吉原で育った人間ならではの着眼点

この成功には二つの背景があると思われる。

一つめは、蔦重の『吉原細見』が他の版元の物と比べて優れていたこと。蔦重は紙面から余分な装飾を削り、遊郭の場所や遊女の所属先がすぐにわかるようレイアウトを変更。ページ数を半分に減らす一方で、判型を大きくして見やすくするなど、利用者の使い勝手を徹底的に重視した。吉原で生まれ育った人間ならではの気づきや配慮だ。

二つめは、卸売・小売と並行して、確実に収益が上がる貸本を収入の軸にし、版元になるための投資を可能としたことだ。印刷技術が発達し書写(書き写すこと)に頼らずとも出版が可能になっても、書籍はまだまだ高価で購入できるのは一部の富裕層に限られていた。

また、「読み・書き・そろばん」を教える寺子屋教育が普及し、庶民の識字率が高まったことから「貸本=レンタル業」は十分需要もあった。そして、引手茶屋の養子という立場を利用して遊女屋へ常に出入りし、遊郭の経営者や従業員たちから最新の情報を手に入れ、その情報を活用することで、ヒット作を生み出し、販路を開拓し、事業を拡大することができたのである。

このように蔦屋重三郎は斬新な編集者であり、かつ堅実な経営者としてのディレクションとマネジメントの能力を発揮していった。

木の本棚の上の本の山
写真=iStock.com/Andani GG

■物価高で客が遠のいた吉原を盛り上げる

安永元(1772)年、10代将軍徳川家治に仕える田沼意次が側用人と老中を初めて兼任した。しかし、世間は物価高に振り回され、「年号は安く永しと変はれども 諸色高直今にめいわ九(年号〔元号〕は明和9年から安永元年へと変わったが、諸物価は高く、今まさに迷惑している)」と狂歌に詠まれる世相だった。

こうなると、人は安価で手軽に気分を発散できるものに流れる。性風俗においては江戸の南東(辰巳)の私娼街・深川の遊郭が流行し始めた。

一方、公娼街の吉原は客を呼び戻すためのキャンペーンを張る必要があった。遊女屋や引手茶屋が一丸となって伝統行事を復活させ、田沼時代の恩恵で富裕になった町人や町人化した武士を巻き込み、吉原を盛り上げていった。

その頃、前項のとおり新たな吉原細見本の版元になり、事業を拡大していく過程にあった蔦重は、行事があるたびに出版物を刊行し、吉原内外への情報発信を積極的に行った。

吉原の女たち(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
吉原の女たち(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■優れた自己認識力と自己プロデュース力

蔦屋重三郎は、「蔦重」という役を演じ切る人生だった。

彼が生まれ育った吉原は、そもそも嘘を含む色恋を売る場所。買う側も、それが僧侶なら医者に化けるために羽織を着ていったほどだ。

また、元吉原(現在の中央区日本橋人形町)から移転した際、新吉原には従来の昼営業にくわえて、夜営業の許可が幕府から出ていた。当時は江戸郊外の比較的に寂しい場所だったということもあり、昼だけでは娼家が成り立たなかったからである。

吉原の表玄関の大門は、千客万来の意味を込めて昼夜開けっ放しで、1年のうち休日は元日と7月13日のみだった。

両親の離縁という事情で、7歳から引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川(北川)家に養子に出された丸山柯理(蔦重の幼名)は、吉原遊女と同じように虚像としての「蔦屋重三郎」を昼夜を問わずフル稼働で演じたのではないだろうか?

彼は自己認識力と自己プロデュース力に長けていた。

下級町人、しかもグレーゾーンの吉原出身だ。普通のことをしていたのでは、日の当たる場所で堂々と活躍できない。

その頃の吉原は江戸唯一の公娼街であり、大名や幕臣(旗本・御家人)、藩士、武家奉公人、大商人の主人から番頭・手代、裏長屋に暮らす一般庶民まで、あらゆる階層の男が通う交差点のような場所だった。

そこで、すべての男に気に入られるだけの度胸と愛嬌をもって、教養と人脈を得ることができればチャンスである。さらに、吉原の遊郭内で主導権を握る遊女・女将・やり手婆などの女性たちを、惚れ惚れさせるような「粋人・通人」たる雰囲気を纏えばますます強い。

その出自から決して有利ではなかった蔦重が、立身出世のためにとった手法は、吉原という地に集まった人々から信頼を得ることだった。

■「何でもやる」精神が大衆に刺さった

さまざまな身分が集う吉原を商圏としてスタートした蔦重は、あらゆる客層に気に入られるチャンスに恵まれていたともいえる。

だからこそ、マニアックな吉原細見本の出版から脱皮し、地本問屋(地本屋)として浄瑠璃本・黄表紙・洒落本・往来物・狂歌絵本・浮世絵の出版に打って出て、日本橋にも進出。さらに、幕府の弾圧を受けたのちに、書物問屋(書物屋)として学術書・専門書の出版にまで手を広げた。

そのとき、本に掲載した有名戯作者・絵師たちによる各商店・商品の広告は、文人墨客や大衆に「何でもやる」蔦重の名を大いに広めてくれたことだろう。

さらに、幕藩体制において参勤交代が行われていたことから、大名たちは江戸に1年、国元に1年暮らしていた。蔦重の評判は、江戸の藩邸(上屋敷・中屋敷・下屋敷)において、大名や藩士たちに共有されるとともに、全国へ広がる可能性もあった。上級武士たちは今でいう貴重なインフルエンサーであった。

■出版業界の覇権が上方から江戸へ

江戸時代前半に、出版業界の主導権を握っていた上方(京都・大坂)の版元たちにとっても、江戸時代の中期以降、経済の中心が江戸に移っていく中で、圧倒的な勢力を誇る蔦重の耕書堂が大きな脅威となった。

伊藤賀一『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化』(Gakken)
伊藤賀一『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化』(Gakken)

ゆるい「田沼時代」を経た厳しい「寛政の改革期」という幕政を背景に、庶民にとって心理的な仮想敵である御上(御公儀)にあえて逆らい、処罰を受けたことも、「みんなの味方! 蔦重」を自己プロデュースする上で結果的に正解だった。

また、自分を養子に出した両親を呼び戻して養ったり、一時は離れていった喜多川歌麿を許したり、若手作家の曲亭馬琴や十返舎一九の面倒を見たりしたことも世間には好印象を与えた。文人たちを豪快に接待し、みずから狂歌師として連に加わるなど、話題作りにも事欠かない。

このような「生きざま」を見せつけて築いた身代(財産)に恋々とせず、すっぱりと番頭にすべてを譲る晩年も含め、メディア王による「蔦重」という一幕芝居は、40年間にわたり千両役者を得たのである。

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伊藤 賀一(いとう・がいち)
予備校講師
1972年、京都府生まれ。法政大学文学部史学科卒業後、早稲田大学教育学部生涯教育学専修卒業。東進ハイスクール講師などを経て、現在はンライン予備校「スタディサプリ」で高校日本史・歴史総合・倫理・政治経済・現代社会・公共・中学地理・中学歴史・中学公民の9科目を担当。「日本一生徒数の多い社会科講師」として活躍中。著書に『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化』(Gakken)のほか、『アイム総理』『改訂版世界一おもしろい日本史の授業』(以上、KADOKAWA)、『1日1ページで身につく! 歴史と地理の新しい教養365』(幻冬舎新書)、『いっきに学び直す教養としての西洋哲学・思想』(朝日新聞出版社、佐藤優氏との共著)など多数。

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(予備校講師 伊藤 賀一)

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