この店に来れば誰でも「素の私」になれる…25歳で始めた7.95坪の"素人料理の店"に著名人が押し寄せた理由
プレジデントオンライン / 2024年10月7日 18時15分
■名だたる常連客が「ほっとする」という店
ほっとする味――。
たくさんの著名なクリエイターたちが、こう評する料理を作る人がいる。1971年のオープン以来、45年間の長きにわたって中華風家庭料理の店、「ふーみん」を切り盛りしてきた斉風瑞(さいふうみ)さんである。
今年5月31日、斉さんの半生を描いたドキュメンタリー映画、『キッチンから花束を』(菊池久志監督)が公開された。映画にはふーみんの常連客が何人も登場してコメントを寄せているのだが、その顔ぶれがすごい。
料理愛好家で和田誠の妻・平野レミ、絵本作家の五味太郎、服飾評論家の石津祥介(VANの創業者、石津謙介の長男)、B.M.FT(飲食関係コンサルタント)ディレクターの渋沢文明、DEE’S HALL元オーナーの土器典美(アンティークブームの火付け役)、岡本太郎美術館にカフェをオープンし、現在は南青山骨董通りでパンケーキの名店APOCを営む大川雅子……。
ふーみんの常連客には、こうした一流のクリエイターも含めて、南青山界隈で仕事をし、生活をしてきた“地元民”が多い。
彼らはいくつもの洒落た飲食店がひしめき合う南青山の街の中から、生け花の小原流会館の地階にある、決して目立つとは言い難いふーみんを探し出し、長年通いつめ、そして多少のニュアンスの違いはあるものの、ほぼ一様に「ほっとする」と口にするのである。
優しい味だから、ホスピタリティーがあるから、美味し過ぎないから……。常連客たちはそれぞれにほっとする理由を挙げるのだが、どこか腑に落ち切らないものがあって、もどかしさが残る。
なぜ人は、斉さんの料理を食べるとほっとするのか?
斉さんの50年を超える料理人人生を俯瞰したら、この謎が解けるだろうか。
■賭け事も好きだが、家事が上手だった父
1946年、終戦の翌年に、斉さんは台湾人の両親のもと東京の中野区で生まれている。中野に関する記憶はほとんどなく、記憶があるのは小学生の大半を過ごした新宿時代から。斉さんが小学生の頃は必ずしも裕福な暮らしではなかったが、その原因はどうやら父親にあったようだ。
【斉】父は何をやってもうまく行かない人でしたけれど、とても綺麗好きで家事が得意でした。当時としては珍しかったと思いますが、いま風に言えば育メンの専業主夫。父が家にいたおかげで、母は思い切り外で仕事をできたという面もありますね。
父は賭け事も好きで、家に帰ってこないなんてこともありました。小さいとき競馬場に連れて行かれて、すっからかんになって、先に家に帰されたこともありましたよ。たぶん、子どもを一緒に連れていけば母が安心すると思ったのでしょうが、父はどうやって帰ってきたんでしょうね(笑)。
祖父が出張料理人だったこともあって、父親には祖父譲りの料理の才能があった。
【斉】私は4人姉妹の長女なんだけれど、父は料理がとても上手で、家族みんなに手料理をふるまってくれました。基本は台湾の家庭料理ですが、エビフライなんかも作ってくれましたよ。姉妹それぞれに思い出が違って、父の作るチャーハンがおいしかった、いや、スープがおいしかったって4人が4人ともみんな違うの。
母は、父の料理上手は「自分だけ外で美味しいものを食べているからだ」なんてよく言っていました。手料理を食べさせてはくれたけれど、父から愛情を感じたことはあまりなかったですね。
■商売好きでエネルギッシュな母
商売をすることが大好きだった母親はさまざまな仕事に携わったが、なかなか生活は安定しなかった。戦後の混乱期、日本人でも生きていくのが大変だった時代に、台湾人である女性が子ども4人の家計を支えていくのは、並みたいていの苦労ではなかった。
それでもなぜか、斉さんはひもじい思いをした記憶がないという。
【斉】 台湾には挨拶代わりに「ご飯食べた?」と尋ねる習慣があるぐらいですから、何はなくとも、ご飯だけは満足するまで食べさせてくれたんでしょうね。
貧しい生活ではあったけれど、母親は必ず年に2度、年越しと学校の遠足の時には決まって洋服を新調してくれた。
【斉】あんまり有難くて、あんまり申し訳なくて、私、母に甘えることができなくなった。ああしたいこうしたいと言うことができませんでしたね。
ちょうど斉さんが小学校を卒業する頃、母親は知人の紹介で日台間の貿易を手掛けることになった。日本の洋服を台湾に持っていって販売するのが主な仕事だったが、これが当たって斉さん一家はようやく一息つくことになった。
【斉】台湾は親日的なので、日本の製品を持っていくととても喜ばれたんですね。借金をして始めたんですが、うちの母は手ぶらで帰ってくるような人じゃなかったから(笑)、帰国する時、船いっぱいに青いバナナを積んできたこともありましたよ。船便はゆっくりだから、バナナを熟成させるのにちょうどよかったんですね。
うちの母は面白い人でね、ダンスに夢中になっちゃったりして、台湾に行ったきり半年も帰ってこなかったりするの。小さい子どもを家に置いたまま。家を長く空けるのは、父よりのびのび外で仕事をする母の方でした。
■小学6年生で決めた大人のような覚悟
父親から愛情を感じたことはあまりなかったという斉さんだが、では、母親から愛情を感じたことはあったのだろうか。
【斉】たとえば妹のひとりが風邪を引いて、鼻が詰まって息が苦しいなんていう時には、躊躇(ちゅうちょ)なく鼻を吸ってあげることができる人でした。一見、子どもに関心がなさそうなんだけど、それぞれの子どもの個性を理解してくれていたように思います。結婚してアメリカに渡った三女は勉強が好きだったんですが、先日、みんなでアメリカ旅行をしたとき、三女が「勉強のことはわからないけど、お金は出すから好きなことをやれってママから言われた。うちのママは面白いよー」なんて言っていました。
賭け事が好きで家事と料理が得意な父親と、自由奔放でエネルギッシュな母親に育てられた斉さんは、小学校6年生の時、あることを決心する。それは、子どもらしい夢や憧れといった類のものではなく、もっと強くて固い、人生の核になるような決心だ。
【斉】4人姉妹の長女だったから長男みたいな責任感もあって、将来、必ず独立して、自分のお店を持とうと決心したんです。妹たちはあまり知らないことですが、私は、お金がなくて母が苦労する姿を見て育ったので、「私はこういうお店を持っています」と言える職業を身につけようと思ったんです。
ほっとするよりも、むしろ胸が苦しくなるようなエピソードである。
■美容師にはピンとこなかった
高校を卒業した斉さんが選んだ職業は、美容師だった。ハリウッド美容専門学校を卒業すると、六本木にあったメイ牛山(ハリウッド美容専門学校学長、ハリウッドビューティーサロン社長等を歴任した)の美容室でインターンを経験した。
美容室内の人間関係も決して悪くはなかったが、いくつかの理由で斉さんは美容師になる道を断念している。
【斉】当時、女性が自立できる職業といったら、一番目に来るのが美容師さんだったのね。ゆくゆくは自分の美容室を持ちたいと思っていたんだけど、挫折をいたしました。背が低いのでいろいろな作業がやりにくいということもあったし、お客様と一対一で接する度胸もなかったのね。
斉さんは自身のことを、「口べたで、社交的でなく、とっつきにくい」と言う。たしかに自分から積極的に喋るタイプではないようだが、どうやら挫折の本当の理由は別にあった。
【斉】実は、美容師という仕事に自信が持てなかったんです。技術を身につけるのに頭が回らないというか、鈍かった。勘が働かないというか……。そう、勘ですね、勘がなかった。
美容師には向いていないと感じていた斉さんは、ある日、自宅に高校時代の友だちを招いて手料理をふるまった。すると、その友人が意外な言葉を口にしたのだ。
「私たちだけでこんなに美味しいものを食べるの、もったいないわね」
なんと、このひと言がふーみん誕生のきっかけとなったというから面白い。美容師の仕事にはまるで勘が働かなかったが、料理にはなぜか自信があったのだ。その自信を、友人の言葉が裏付けてくれた。
早速、母親から開業資金を借りると、斉さんは店舗探しを始めた。母親は飲食店の開業には反対だったが、「あなたは言い出したら聞かないから」と開業資金の援助を引き受けてくれた。
■キラー通りに生まれた8坪足らずの店
ふーみんの初代の店舗は、明治神宮前にあった。通称「キラー通り(外苑西通り)」に面したビルの地下1階である。新聞広告に出ていた別の物件を不動産屋に見せてもらったもののそこが気に入らず、いくつかの物件を紹介されるうちに、キラー通りの物件に行きついた。
この最初のお店のロケーションが、ふーみんと多くの著名人の関りに重要な役割を果たすことになるのだが、決め手はいったい何だったのだろうか。
【斉】わずか7.95坪の小さなお店でした。地下といっても階段を降りてすぐだったから外からの光が入って、「地下のどん詰まり」という感じがしなかったのね。あとは、景色が気に入ったの。青山通り(国道246号線)から千駄ヶ谷の方に抜ける景色に、なにか雰囲気があったんです。
美容師の仕事にはピンとこなかったが、この物件にはピンとくるものがあった。
【斉】縁もゆかりもない場所だったのにね。
1971年11月23日、斉さんは「中華風スナック ふーみん」をオープンする。店名の「中華風スナック」には、本格的な中国料理の店ではないということと、小腹を満たすような軽食を出す店であるという意味が込められていた。
記念すべき最初の客は、同じビルの上の階に住んでいる人物だった。
【斉】その方が、灘本唯人さん(イラストレーター)だったんです。私はイラストレーターという職業があることすら知らなかったんですが、一緒にお店をやってくれた友だちが耳年増っていうのかしら、「あの灘本さんのお友だちも有名なイラストレーターで、和田誠さんていうのよ」なんて、お客さんのことをいろいろ教えてくれたんです。
■スーパースターを引きつける何か
同じビルには、灘本唯人の他にDCブランド「ニコル」を立ち上げた松田光弘がいた。「ピンクハウス」の金子功や三宅一生も近くに事務所を構えており、よく来店したという。当時のキラー通りには、若いクリエイターたちを引き付ける何かがあったのかもしれない。
やがて和田誠が知り合いを大勢連れてくるようになったが、その中には渥美清や永六輔の顔もあった。また、神宮球場が近かったこともあって王貞治までやってきたというから、ふーみんの著名人吸引力、恐るべしである。
【斉】和田さんのお友だちが毎週金曜日に外苑を一周するランニングをやっていて、走り終えるとみなさんで食事をするんです。最初はうちの向いにあったとんかつ屋さんにいらしてたんだけど、やがてうちに来るようになって。王さんは神宮球場で試合がある時によくいらしたけど、王さんのマネージャーさんがうちのアルバイトの子をかわいがってくれて、何度か神宮球場に招待してくれたりもしました。
斉さんも神宮球場に招かれたのだろうか。
【斉】私は誘われなかったから(笑)。私が社交的でないこともあるし、プライベートでいらしてるんだから、あんまり踏み込んじゃいけないという気持ちもありました。王さんや永六輔さんは、当時からご活躍だったからさすがにお顔を知っていましたけれど、あまりお客様がどんな職業の方か知ろうと思わなかったところもありますね。
これは、著名人が「ほっとする」重要なポイントかもしれない。斉さんの口ぶりから察するに、プライベートに踏み込まないようにしていたというよりも、そもそも客の職業に興味がなかったのではないか。
【斉】そうね。私がもっと社交的だったら、ずいぶんいろいろな方とお友達になれたのに。何かしらの繋がりがあったら、楽しいことがたくさんあったのかなとも思いますね。
きっと斉さんは、そうした繋がりや楽しいことを求めていなかったのだろう。だからこそ、著名人たちはふーみんで「普通の人」になることができた。
ちなみに、ふーみんのロゴは灘本唯人がデザインし、トレードマークのニンニクは五味太郎が描いている。ふたりとも、言わずと知れた超一流のアーティストだが、斉さんはそれを鼻にかける風もない。
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ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。
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(ノンフィクションライター 山田 清機)
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