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回り込んで授乳を覗く義父、平然と介護を強要する義母、相談しても取り合わない夫…田舎の長男嫁の苦悩

プレジデントオンライン / 2024年9月28日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/DragonImages

中国地方在住で現在60代の女性は25歳のときに1つ上の男性と結婚した。悩みの種は義両親。義母からは将来は介護を頼むと事実上強要され、義父は女性が授乳時に目の前まで移動してきて平然と見ていた。その後、義父や義弟が他界すると、義実家との関係に暗雲が垂れ込め始めた――。(前編/全2回)
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹がいるいないにかかわらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

■4人きょうだいの末娘

中国地方在住の片岡智子さん(仮名・60代)の両親は、父親26歳、母親19歳の時にお見合い結婚。母親は1944年に長男を出産し、その3年後に次男、次男の2年後に長女、長女の8年後に片岡さんが生まれた。

父親は銀行マンだったが、35歳の頃、妻になんの相談もなく退職して起業。薬局経営を始めた。母親は上の子どもたちが小さいうちはベビーシッターを頼み、薬局の仕事を手伝ったが、35歳の時に末っ子の片岡さんを出産すると、子育てに専念。

やがて、大学を出て薬問屋に勤めていた長兄が25歳で結婚し、家を出てしばらくすると、父親の薬局の経営に参加する。

一浪した次兄は19歳の時に関東の大学に進学するため家を出、姉は27歳で関東の人と結婚し、家を出た。

■「嫁=自分の老後をみてくれる人」

片岡さんは大学2年の時に、クラブの合宿で一歳年上の男性と知り合い、その年の夏休みに交際をスタート。大学卒業後はそれぞれ教育系の仕事に就き、片岡さんが25歳の時に結婚した。

「夫は結納を済ませた後、結婚式までの間に上司と喧嘩したらしく、街まで特急で3時間ほどかかる田舎の部署へ飛ばされ、そこで新婚生活をスタートしました」

田舎暮らしとなって1番の問題は、夫の母親、義母だった。

「本当なら長男なんやから同居するところやけど、遠いから別々に住んでいるだけ。だから連休はこっちに帰ってきなさい」

と片岡さんにズケズケと言ってくるなど、自分の“理想の嫁像”を押し付ける人だった。

「連休前に私の実家の近くに夫が出張することになり、ついでだからと2人で私の実家に泊っていたら、『あんたの実家より遠くても、連休は必ずこっちに泊らなあかん!』と言って電話してくるんです。『元気か?』なんて言いながら、連休中は特に、私たちが私の実家へ帰っていないか必ずチェックしてくるので、げっそりしました」

中でも呪文のように言われたのは、「私が一人になったら、頼むな」という言葉。片岡さんが夫と結婚してすぐから、義実家へ帰る度に毎回言われていた。

「老後、一人で暮らすことへの恐怖でしょうか? 義母は、嫁=自分の老後をみてくれる人、みたいな感覚でいつも私を見ていたように思います」

この老後への異常なほどの恐怖感が、後に自分の家を失う一因になるとは、まだこの頃は知る由もなかった。

■逆転の発想

片岡さんの第一子が生まれる前後1カ月間、自分の実家にいると、「こっちにも1カ月いなさい」と義母。仕方なく、生まれたばかりの長女を連れて義実家へ行き、部屋の隅で授乳していると、義父がわざわざ片岡さんの前まで移動して見にくる。

赤ちゃんに授乳する母親
写真=iStock.com/Satoshi-K
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Satoshi-K

夫に言っても、「おっぱいではなくて、初孫がゴックンゴックン母乳を飲む所を見たいだけだよ」と取り合ってくれない。

出産後、母乳100%で長女のお腹を満たせていた片岡さんだったが、義実家に来てから精神的なストレスのせいか、母乳が出なくなり、粉ミルクを足すことに。

それから3年後、片岡さんは2人目を妊娠。そしてやっと夫は元の部署へ戻れることに。片岡さん夫婦は田舎から街なかに引っ越すと、ローンを組んで中古住宅を購入した。

この時から片岡さんは発想を転換。

「七五三とか、誕生日とか、ひな祭りとか、行事の度にうちが義実家へ行くのではなく、義両親を私の家に招待すればいい!」

義実家から片岡さんの家までは電車で2時間ほどかかるが、これがうまくいった。義両親は3歳の長女を喜んで相手し、その間に片岡さんは家事をするなど、マイペースに過ごすことができたのだ。

この成功体験から、次女出産後は、母親でなく義母に来てもらった。

「母に来てもらうと、夫との関係に気を遣いますが、義母ならそれがありません。義母は『床上げまでの三週間は、産後の体力回復のために寝ていなあかん』と言い、産後1カ月間、我が家の家事をしてくれました」

■義弟の結婚

長男の夫には、3歳離れた弟が1人いた。

片岡さんに長女が生まれると、義弟は百貨店のおもちゃ売り場で、よく高価なぬいぐるみを買ってきてくれた。片岡さんが結婚した8年後、義母が勧めるお見合いで義弟が結婚した。

結婚する前、義妹は義母に言った。

「私、小さい頃お祖母ちゃんと一緒に住んでました。だからお義母さん、一緒に住みましょう!」

この一言が、義母の運命を変えた。

「よし! では一緒に暮らせるように、この家を建て替えよか。あんたらの好きなように設計したらいいわ。お金は私が出したる!」

この日から義母は、

「うちは長男ではなく、次男が跡継ぎです!」

と親戚中に言って回るように。

「おかげで長男の嫁である私の上にのしかかっていた重圧がなくなり、『私が一人になったら、頼むな』という呪縛からも解放されました。私は家をもらうより、断然自由のほうがいいと思っていました」

義父は家の建て替えが始まるとき、義妹に言った。

「では、私にもしものことがあったら、ばあさん(義母)のことを最後までよろしくお願いしますよ」

義妹は優しく頷いた。

■義父の死

ところが、結婚した義弟の勤務地は四国。

そのため義両親と義弟夫婦との同居は、義実家を義弟夫婦のために建て始めた時点でも、「転勤願を出すか、ダメだったら転職すればいい」くらいの曖昧なものだった。

義実家を建て替え始めてから10カ月後、67歳だった義父は、「脳の中の大きな動脈瘤が、いつ破裂してもおかしくない危険な状態」と言われて手術を受けた。

脳のMRA
写真=iStock.com/Tonpor Kasa
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Tonpor Kasa

手術は成功したものの、義父には手術後、後遺症で記憶障害が出る。だが1年でほぼ改善され、義両親も義弟も片岡さん夫婦もほっとした。

しかし、ほっとしたのも束の間、今度は義父に肺がんが見つかった。すぐに抗がん剤治療を始めたが、思うように効果が出ない。

この間に義弟夫婦は、

「父さんが脳の手術をしたのは失敗だった」

「兄ちゃんの言う通りにしたからこうなった」

と義母の耳元で何度も囁いた。義妹と結婚してから、明らかに義弟の性格は変化していた。

がんが広がるスピードは想像より速く、義父は1996年、69歳で亡くなった。

■義実家を義弟名義に

それまで義父名義だった土地や建物の相続の話になったとき、義母は「全て義弟名義にする」と言った。

「私が死んだあと、また変えるのは二度手間やから、今からしといたらいいんや」

と平然としている。

しかし片岡さんの夫は、

「危険だ。母さんも住むのだから、自分の名義も入れといたほうが良い」と説得したが、聞き入れようとしない。

片岡さんがふと義母の隣を見ると、義妹が怖い顔をして義母を睨んでいる。埒が開かないと思った夫は、今度は義妹に、

「全部相続すると税金がかかるよ」

と話すが、義妹は

「税金は全部払います、大丈夫です」

と揺るがない。

結局土地も家屋も義弟が相続し、義弟名義にすることに決まった。相続の書類が出来上がると、義弟夫婦はまた四国へ帰って行った。

■夫のがん

2014年12月。56歳の夫が悪性リンパ腫と診断された。体調が悪かったため、病院を受診したことで判明した。

毎年の健康診断の血液検査では、ちょっと赤血球が高い程度。ガンマーカーもほとんど上がっていなかった。

「がんになると痩せてくると言われていますが、夫の場合はその逆で、身長168センチ程なのに、体重はマックスで93kgもありました。今思えば、腫れていたせいかもしれません。あと、寝る前にトイレに行っているのに、就寝後15分もするとまたトイレに起きていました。2度目もとてもたくさん出るのだと言っていました」

夫は血液内科の医師に、

「もっと体重を落としてください。このままでは、体重で計算した量の抗がん剤で死にますよ」

と言われた。

夫はリンパ節以外の臓器にリンパ腫があったため、まずはそれを取り除き、その後10kg近く減量して、抗がん剤治療に入った。

約1年で8回抗がん剤を投与し、髪の毛は全部抜け、ひどい倦怠感に苛まれていた。

そして約1年後、血液内科の医師に、

「リンパ腫は臓器などのがんと違って、5年経ったら安心ということにはなりません。薬で寛解となっているだけで、逆に5年過ぎた頃から、再発のリスクは高まります」

との説明を受け、診断から約1年後には仕事に復帰。3カ月に1回の定期健診を受けることになった。

■義弟のがん

義父が亡くなり、建て替えていた義実家を義弟名義にした8年後、義妹は中1の息子を連れて、義実家で義母との同居を開始。

すると、少しずつ本性を現し始めた義妹と義母の仲が険悪になっていき、四国で単身働く義弟にそれぞれから頻繁に愚痴電話がかかってくるようになった。

2人の仲裁に疲れ果てた義弟は、勤めていた会社に転勤願いを出すと、なんとリストラされてしまう。

「義弟は、会社から裏切られたというショックやプライドがひどく傷つけられたことから、人懐っこい穏やかな性格が一変し、義母や義妹に当たり散らすようになりました」

この頃義弟はまだ40代後半。そこへ追い討ちをかけるように、大腸がんの診断が下った。

大腸癌の医療イラスト
写真=iStock.com/peterschreiber.media
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/peterschreiber.media

夫は自分ががんになったことを義弟に報告したところ、義弟もがんになっていたことを告げられた。2人は「子どもたちのためにお互い頑張ろう」と励まし合った。

義弟の大腸がんは臓器の外側に進行していくタイプのもので、症状がほとんどないまま他の臓器や腹膜のほうへ広がり、気付いた時にはかなり進行していたようだ。

リストラにあってからの数年、義実家に引きこもり、腐っていた義弟だったが、抗がん剤治療は弱音や文句を言わず、粛々と受け続けていた。

しかし治療開始から約半年後、主治医から

「これ以上抗がん剤治療を続けると、逆に副作用で命を縮めます」

という説明があり、

「今年大学院に入る息子の就職や結婚を見届けたい」

という思いを残しながらも、義弟は緩和ケアに移り、2014年の夏に50代前半で亡くなった。

義弟が亡くなると、義妹はますます本性を現していった。義母を追い出そうとする義妹と、それに抗う義母の戦いが始まった。(以下、後編へ続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。

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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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