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夕方5時まで仕事でその後ピッチング練習…元プロ野球選手が語る「先発投手」と「営業マン」の意外な共通点

プレジデントオンライン / 2024年10月3日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/lamyai

プロの世界では、どこで差が生まれるのか。元プロ野球選手の川口和久さんは「プロの先発投手は登板する月5試合のうち2勝すれば、6カ月で12勝、先発投手としてのノルマは達成する。月の初めにポンポンと2勝すれば、3試合目は勝てば儲けもので、来月の貯金のつもりで投げられる。これはセールスマンと同じ。ノルマ達成して、肩の力が抜けると余計売れる」という。鳥取大学医学部附属病院の武中篤病院長との対談をお届けする――。

※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 17杯目』の一部を再編集したものです。

■温泉街のど真ん中にある旅館で一年中外遊びの少年時代

【武中篤(鳥取大学医学部附属病院長)】いきなり申し訳ないんですが、ぼくは江夏(豊)さん、田淵(幸一)さんの時代から(阪神)タイガースファンでした。川口さんがいた広島(カープ)は兄弟球団という感じというか……。

【川口和久(元プロ野球選手・コーチ)】(首を振って)もうどこのファンでもいいんです。とにかくプロ野球を応援して盛り上げていただければありがたい。

武中篤病院長(左)と川口和久さん(右)
撮影=中村 治
鳥取大学医学部附属病院の武中篤病院長(左)と元プロ野球選手・コーチで野球解説者の川口和久さん(右) - 撮影=中村 治

【武中】川口さんは鳥取市の生まれ。ご実家は吉岡温泉の旅館だったとか。

【川口】温泉街のど真ん中にある旅館でした。朝早くから深夜までお袋たちがお客さんの応対をしていました。夜まで電気がついているので、近所の仲間が集まってきて、ずっと外で遊んでいました。昼間は(収穫が終わった)田んぼで野球をして、川や海で泳いだり、文字通りの野生児でしたね。

【武中】ぼくは兵庫県の加東市出身ですが、同じような生活でした。ただ、うちは内陸部なので海はなかった。

【川口】秋は山でアケビや栗をとったり、冬はスキー。湖山池が近いのでテナガエビを釣ったり。夏は(日本海側の)白兎海岸まで自転車で3、40分走って泳ぎに行ってました。

【武中】最高の少年時代ですね。

■「石投げ」で肘の使い方を習得した少年時代

【川口】海岸で石を投げて、何段ハネるか競い合ってました。(立ち上がって左腕を横から振って)こうやってサイドから石を投げるじゃないですか。この肘の使い方って、ピッチャーゴロをとって、ファーストにふわっと投げるときと同じなんです。

【武中】遊びながら肘の使い方を習得していた(笑い)。子どもの頃からプロ野球選手になるつもりでしたか?

【川口】ぼくは3人兄弟の末っ子なんですけれど、上の2人が無茶苦茶野球が上手かったんです。兄を見ながら野球をしていただけでした。ぼくは投げるのは左なんですが、右打ち。(右打ちの)兄の真似をしていたら、右打ちになってしまった(笑い)。

川口和久さん
撮影=中村 治
元プロ野球選手・コーチで野球解説者の川口和久さん - 撮影=中村 治

【武中】左投げは川口さんだけ?

【川口】ぼくだけです。旅館やっていることもあって箸を左で持つなと親からきつく言われて、日常生活では一生懸命矯正しました。ぼくは右手で鉛筆持ちながら、左手に消しゴム。ハサミも両手で使えます。

【武中】外科医の世界では、左利きの人は両手を使えるから手術が上手いっていう説があります。利き手ではない方を使わなければならないので器用になるのかもしれません。

■高校3年で契約金3500万円のドラフトを拒否した理由

【武中】川口さんは中学校卒業後に地元の鳥取城北高校に進みました。他県からも誘いがあったのではないですか?

【川口】ありました。でも一番熱心に誘ってくれたのが鳥取城北でした。

【武中】どの高校に行くかというのは、一つの大きな選択ですよね。

【川口】ぼくの場合は鳥取城北が合っていたと思います。というのも、ほとんど教えられなかったんです。当時の鳥取は(読売)ジャイアンツ戦しか中継がなかった。(同じ左投げの)新浦(壽夫)さんの脚の上げ方とか真似ていたら、球が速くなった。

【武中】真似ることで自分のスタイルを確立した。高校生のときにはすでに全国に名前を知られるようになり3年生のときロッテ(オリオンズ 現千葉ロッテマリーンズ)からドラフト指名を受けました。

【川口】(監督だった)金田(正一)さんから電話がかかってきて、「俺の背番号34と契約金3500万円約束するから来い」って。ロッテに行くとすごく走らされるという印象があった。高校から入るよりも社会人で即戦力としてプロ入りした方がいいという考えもあったので断りました。

【武中】そこで鳥取城北から大阪にあった社会人野球のデュプロに進まれた。そこでは野球中心の生活だったんですか?

【川口】仕事8割、練習2割でした。朝から夕方5時まで営業マンとして普通に仕事していました。仕事が終わったら(大阪の)中之島公園を走って、会社の屋上にあったブルペンでピッチングして帰る。専用のグラウンドもなかったので全体練習場所も日替わりでしたね。

■プロ選手で差が出るのは「誰とどこで出会うか」

【武中】そんな生活をしながら良くモチベーションが保てましたね。

【川口】いや、保てなかった(苦笑い)。あの当時、高卒でドラフトを拒否すると3年間はプロ入りできなかった。デュプロの2年目、仕事ばっかりで練習できない。旅館を手伝いながらアマチュアで野球を続けようかと一度、鳥取に戻っているんです。

そうしたら知り合いが、広島(カープ)に先輩がいるからって電話してくれた。次の日、(監督の)古葉(竹識)さんから電話があって、左ピッチャーが欲しいから獲るっていうんです。

武中篤病院長
撮影=中村 治
鳥取大学医学部附属病院の武中篤病院長 - 撮影=中村 治

【武中】その方がいなければプロは諦めていたかもしれない。そして、ドラフト1位で広島から指名。広島は練習が厳しいというのは本当ですか?

【川口】その通りです。走るのが嫌でロッテを断ったのに、広島ではその数倍走らされました(苦笑い)。

【武中】そこで鍛えられたことでプロでやっていく素地ができた。医師でも同じですが、若いときに誰とどこで出会うかで人生が変わるとぼくは考えています。

【川口】同感です。プロに入ってくる選手はみんなそれなりに才能があるんです。差が出るのは人との出会いかもしれません。その意味でぼくは恵まれていたと思いますね。

■プロの先発投手とセールスマンの意外な共通点

【武中】広島では先輩に同じ山陰出身の左腕、大野 豊さんがいました。

【川口】ええ。大野さんには本当にお世話になりました。師匠みたいな方です。当時、大野さんは先発からリリーフに回っていたんです。プロ入り2年目の7月15日の(対大洋ホエールズ戦)で初勝利を挙げたとき、ぼくが6回まで投げて大野さんが3回を抑えてくださった。

【武中】クローザーは1イニング限定という意識がなかった時代ですね。あの当時の広島には、大野さんの他、北別府(学)さんという大エースもいましたね。

【川口】北別府さんは針の穴を通すコントロール、大野さんは七色の変化球。そこでぼくは“ノーコンの川口”で通したんです(笑い)。

【武中】確かに川口さんはコントロールよりも球の切れで勝負という印象がありました(笑い)。でも、ノーコンってプロの投手としてあまり嬉しくないですよね。

【川口】いいんです。人間って生き方だと思うんです。北別府さん、大野さんと違う自分の特色を出せばいい。

【武中】当時、川口さんはまだ20代、大人びていましたね。

【川口】会社員生活を経験したことがぼくの強みになったのかもしれませんね。プロの先発投手は月に5試合程度、登板。5試合のうち2勝すれば、6カ月で12勝。先発投手としてのノルマは達成。月の初めにポンポンと2勝すれば、3試合目は勝てば儲けもの、来月の貯金のつもりで投げられる。

【武中】そのときにこそ、いい投球ができたりしますよね(笑い)。

【川口】これってセールスマンと同じなんです。ノルマ達成して、肩の力が抜けると余計売れる(笑い)。

■鳥取県から「強打者」がでなかった理由

【武中】川口さんに一つ聞きたいことがあるんです。鳥取県は川口さんをはじめ、(元阪急ブレーブスの)米田哲也さん、(ジャイアンツの)角 三男さん、小林 繁さんなどいいピッチャーを輩出しています。なぜピッチャーだけなんでしょう?

【川口】(腕を組みながら)ぼくは2つ原因があると考えています。一つは打者に関しては、初球を振らないように指導されていたこと。ピッチャーのレベルが低いので待っていれば四球で塁に出られるかもしれない。だから初球がストライクでも振らない。

【武中】消極的ですね……。

【川口】慎重な県民性が出ていると思うんです。野球というのはタイミングのスポーツ。バットを振ってみないとどれぐらい遅れているのか分からない。一打席目の初球を見送ることは、チャンスを一つ失うことになる。

【武中】投手の球速に馴れる機会を失うことになる。

【川口】プロの世界では初球を見逃す選手は、甘い球が来れば仕留める自信がある。そうではないのに見逃す必要はない。そしてもう一つは、ボールを上から叩きなさいという指導が関係しているとぼくは見ています。

【武中】ゴロを打てという指示ですか?

【川口】フライは野手がとればアウト。ゴロは、野手がとってファーストに投げなければならない。一つ“工程”が増える。

【武中】そこでミスが起こる可能性がある、と。これも相手のミスを期待するという、消極的な発想ですね。

■プライベートの場で人間の性格が分かる

【川口】いい打者はバットをしっかりとボールに当てて遠くに飛ばす。その練習をしなかったから、いい打者が生まれなかった。これからは変わるはずです。

【武中】川口さんは広島から読売ジャイアンツに移り、現役引退。ジャイアンツでコーチとして多くの選手を指導しました。ぼくも教授として後進の教育をしてきましたが、人を育てる上で心がけていることはありますか?

農作業をする武中篤病院長と川口和久さん
撮影=中村 治

【川口】ぼくは自分の考えの押し売りはしないです。プロの選手は特に調子のいいときはコーチの言うことは聞かない(笑い)。上手くいかなくて悩んでいる、苦しんでいるときは、スポンジのように吸収する状態になっている。選手にはそれぞれ個性があります。

コーチはその選手に合った引き出しを持っていなければならない。あとはぼくは一緒にゴルフに行ったりして選手レベルまで降りることは意識していました。

(ジャイアンツの投手だった)杉内俊哉君はゴルフが好きでした。彼がノーヒットノーランを達成したときは、「ノーヒットノーラン記念、杉内君おめでとう」っていうボールを10ダースプレゼントしました(笑い)。

【武中】ぼくも同じ考えです。プライベートの場で人間の性格が分かることがあります。

【川口】それもぼくがセールスマンをやっていたからかもしれません。取引相手が何を考えているのか、どんな人なのか、釣りやゴルフで探るじゃないですか。

■鳥取と東京の理想的な二拠点生活

【武中】社会人生活という当時は、無駄だと思っていた時間が実はそうではなかった(笑い)。ところで、川口さんは2021年の年末から故郷の鳥取市に戻られましたね。

【川口】コロナ禍で野球教室などの仕事がすべてなくなってしまった。そこで女房と2人で鳥取に戻ってみたら、この地の良さに気がついた。水は美味しいし、空気は綺麗。海も山もあって、食材に恵まれている。ぼくは18歳までしか鳥取にいなかったので、本当の良さを知らなかったんです。

【武中】高校までは野球漬けでしたものね(笑い)。

【川口】そんな余裕ないです。たまに家にあるカニを食ったりするぐらい。そのときは身近にあるものだから、ありがたみはなかった。改めて食べてみると、これが旨い(笑い)。鳥取を気に入ったのはぼくよりも女房だったんです。

東京出身の彼女が鳥取はすごくいい、ここに住もうと言い出した。今は、鳥取(コナン)空港の近くに住んでいて、(野球)解説の仕事があるときだけ東京に行っています。

【武中】理想的な二拠点生活ですね。今は米作りもやられている。

■移住検討で考慮したのは信頼できる病院があるかどうか

【川口】コロナ禍の最中にお袋が亡くなったんです。納骨のときにたまたま空いている田んぼがあるという話になりました。女房がそこで米を作ろうと言い出した。

鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 17杯目』
鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 17杯目』

【武中】やはりきっかけは奥様だったんですね(笑い)。米を作るって大変じゃないですか?

【川口】いや、葉っぱ植えるだけだから(笑い)。もちろん草取りとかもありますが、それは大変だと思わない。今年で2年目なんですが、最初に収穫できたときは本当に嬉しかった。コーチのとき一生懸命教えても伸びない選手もいる。

でも、米は嘘をつかない。手を掛ければ結果が出る(笑い)。ここには山から来る美味しい水がある。それを使えば美味しい米ができることは分かっていました。刈り取った米を天日干しにしたら、甘みが凝縮して、それをつまみにお酒が飲めるぐらいなんですよ。

【武中】そのお米、とりだい病院に持って来てもらえませんか? 地元の人たちに食べてもらいたい。

【川口】ぜひぜひ! 移住を検討したときに、まず考慮したのが信頼できる病院があるかどうか、でした。この地域で高度医療を実践している、とりだい病院は最後の砦。頼りにしています!

川口 和久(かわぐち・かずひさ)
元プロ野球選手(投手)・コーチ、野球解説者・タレント・農家
1959年鳥取県鳥取市出身。鳥取湖南小学校で野球を始め、鳥取城北高校に進学後、県大会決勝にチームを導く。ロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)にドラフト6位で指名されるが拒否。社会人野球チーム、デュプロに入団。1980年ドラフト1位で広島カープに指名され入団。87年、89年、91年には奪三振王に輝く。1994年FAを宣言し、巨人に入団。1998年に現役を引退。
引退後は野球解説者の傍ら映画やテレビドラマに出演するなど、野球以外の分野でも活躍。コロナ禍における母の死をきっかけに、神奈川県から鳥取にUターンを決意。農業に従事する傍ら鳥取の野球振興に力を注いでいる。
武中 篤(たけなか・あつし)
鳥取大学医学部附属病院長
1961年兵庫県出身。山口大学医学部卒業。神戸大学院研究科(外科系、泌尿器科学専攻)修了。医学博士。神戸大学医学部附属病院。川崎医科大学医学部、米国コーネル大学医学部客員教授などを経て、2010年鳥取大学医学部腎泌尿器科学分野教授。2017年副病院長。低侵襲外科センター長、新規医療研究推進センター長、広報・企画戦略センター長、がんセンター長などを歴任し、2023年から病院長に就任。とりだい病院が住民や職員にとって積極的に誰かに自慢したくなる病院「Our hospital~私たちの病院」の実現に向けて取り組んでいる。

(カニジル編集部)

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