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300数十億匹分の卵と幼虫を焼き殺して埋めた…150年前に実際に起きた人類とある虫との壮絶な命がけの戦い

プレジデントオンライン / 2024年9月30日 10時15分

手稲山口のバッタ塚の石碑 - 撮影=鵜飼秀徳

来年2025年は北海道の開拓開始から150年の節目の年。政府は1875(明治8)年、ロシアの南下政策に対応するため、国防と営農を両立させる「屯田兵」を配置。未開の地を進む彼らを苦しめたのはマラリアやコレラに加え、寒冷・大雪などの過酷な環境だけではなかった――。

■150年前に実際に起きた人類とある虫との壮絶な命がけの戦い

来年2025(令和7)年は、「屯田兵」による北海道の開拓が本格的に始まって150年の節目にあたる。その開拓使の苦難を伝える存在が、道内に残されている。「バッタ塚」と呼ばれる、奇妙な昆虫の墓である。

バッタ塚は北海道開拓史時代、トノサマバッタの大量発生によって、農作物が甚大な被害を受けたことを物語る歴史遺産だ。だが長年、風雪にさらされ、その存在はいずれ消えゆく運命にある。筆者は現地を訪れ、林の中に眠るバッタ塚を確認。当時の蝗害(こうがい)の記録とともにレポートする。

札幌市街から道東に向けて車を走らせること3時間余り。富良野にも近い新得町新内の林道を歩き回る。探し回ること1時間。笹藪に埋もれるようにして土饅頭の塚がいくつも出現した。確認しただけで20基ほど。これが150年近く前、大量のバッタを退治して埋葬した、人類とバッタの戦いの痕跡である。

バッタ塚の説明に入る前に、北海道開拓の歴史を紹介しよう。

北海道への移住と開拓は1869(明治2)に開拓使が置かれて以降、本格的に進められていく。政府は1875(明治8)年、ロシアの南下政策にも対応するため、国防と営農を両立させる「屯田兵」を配置した。彼らは、寒冷・大雪などの過酷な環境に加え、マラリアやコレラの流行などに苦しめられながらも、未開の地に挑んだ。

北海道を訪れれば、地名に「北広島」「福井」「岐阜」「熊本」など、本州の地域名が多いことに気づくことだろう。これは、入植者たちが遠く離れた故郷を想って、名前をつけたからである。北の大地には毎年数万人単位で入植し、明治30年頃には、北海道の人口は100万人を超えたと言われている。

開拓者を苦しめたのがバッタであった。記録上、蝗害の記述の最初は1870(明治3)年。だが、かの地が蝦夷地と呼ばれていた江戸時代以前も、頻繁に蝗害が発生していたと考えられる。アイヌの人々によって、バッタの被害が語り継がれていた。

特に、明治初期に起きた十勝地方の蝗害はひどいものだった。

『十勝開拓史年表』(加藤公夫編)によれば、十勝における蝗害は1879(明治12)年6月、池田(中川郡池田町)の利別川河口流域におけるトノサマバッタ大発生がきっかけであった。原因は、この年の冬から春にかけて、大雪と大雨が続き、地表が凍結したこと。その結果、シカが笹を食べることができずに大量餓死した。利別川はシカの死骸で汚染され、またシカが減ったことで草が生い茂り、トノサマバッタの大発生につながった可能性がある。

当時の開拓使札幌勧業係が記した記録がある。

「現地の公務員や民間人はバッタの生態の知識はまったくなかった。茫然自失として何もできず、惨事を眺めているだけだった。バッタの襲来によって、青々とした風景があっという間に赤土の荒野と化した。バッタは穀物を好み、それらを食べ尽くすと他の植物へも食い荒らした。紙や布も噛み砕いた。交尾するまでの1〜2週間までが激しい群飛の期間で、1分間に650メートルほど移動する。全く手のつけようがない」(筆者意訳)

これをきっかけにして翌1880(明治13)年以降、5年間にわたって十勝地方でトノサマバッタによる被害が続く。バッタは日高山脈を超えて石狩、日高、胆振、後志、渡島、北見、釧路などに飛来。蝗害は全道へと広がっていった。バッタの大群が太陽光を遮り、日食のように辺りが暗くなったとの記述も残る。

蝗害被害を伝える図は1880(明治13)年に作成されたものだが、各地の河川に沿ってバッタが産卵地を設け、そこを中心にして蝗害が広がっている様子が窺える。

手稲山口のバッタ塚
撮影=鵜飼秀徳
手稲山口のバッタ塚。バッタを埋めて畝にした痕跡として、柵が波打っている - 撮影=鵜飼秀徳

■土中に産みつけられるトノサマバッタの卵を掘り起こして焼き殺した

バッタの生態についても触れておこう。特にバッタとイナゴは混同しやすい。バッタとは「直翅目(ちょくしもく)バッタ科(蝗虫科)」に属し、その総称を指す。トノサマバッタもその一種である。イナゴはバッタの仲間であり、直翅目バッタ科イナゴ属の昆虫を指す。

明確な違いは、喉元の突起の有無だ。イナゴの喉のあたりには小さな突起状のものがあるが、バッタにはない。イナゴは古くから食用とされてきた歴史があり、特にコバネイナゴが佃煮などに利用されてきた。

蝗害を引き起こすのは、主にトノサマバッタやハネナガフキバッタ、サバクトビバッタ、などの一部のバッタ類。通常、バッタは緑色の体をした「孤独相」と呼ばれる状態で、単独で行動する。だが、バッタの個体密度が高くなると、「群生相」に変化する。すると①体色が黒っぽくなって、羽が伸びる②食欲旺盛になる③飛翔能力が高まり④繁殖のスピードも増す――などの変異をもたらす。

ひとたび、蝗害が発生すると農作物被害を引き起こすだけではなく、食糧不足や水不足を招き、人々を飢餓状態に陥らせることもある。水不足を招くのはバッタの死骸が井戸や川に入り、水を腐らせるからである。

この明治初期の蝗害のピークは、1883(明治16)年から1885(明治18)年にかけて。東京から農商務省の役人が調査と対策のために、たびたび現地を視察した。

開拓民にとっては恐怖でしかないバッタの襲来は、1885(明治18)年の長雨によって、ようやく終息する。羽が濡れたバッタが飛べなくなり、地面に折り重なって共喰いを始めたのだ。

明治新政府は本州への飛蝗を食い止めるため、そして開拓者の意欲や希望を失わせないために、駆除のための資金5万円(現在の貨幣価値にすれば、およそ1億円)を拠出。この時に、米国やヨーロッパ、中近東で実施されていた防除法を参考にしたという。

こうして、作られたのがバッタ塚である。バッタ塚は、土中に産みつけられるトノサマバッタの卵を掘り起こして焼き殺し、その表面に土を被せて半球状にし、固く押し固めたもの。幼虫や成虫も捕らえて埋めた。

新得のバッタ塚の案内板
撮影=鵜飼秀徳
新得のバッタ塚の案内板。ここからはバッタ塚を観察することはできない - 撮影=鵜飼秀徳

1874(明治15)年と1875(明治16)年の2年間で掘り出されたトノサマバッタの卵の容量は1339m3、幼虫で400m3に達したという。バッタの数に換算すると300数十億匹に相当すると言われているから、驚愕の数である。ここ新得ではおよそ100坪ごとに1〜2カ所、作られた。

1966(昭和41)年に新得町が実施した調査によると、約5ヘクタールの土地に高さ1メートル、直径4〜5メートルの塚が70カ所以上確認された。新得町では2012(平成24)年に指定文化財に登録し、保全に務めている。しかし、現在では完全に森に飲まれてしまっている。年々、雪や雨に侵食されている様子が窺える。定期的に下草を刈って整備しなければ、その存在は完全に忘れ去られてしまうだろう。

バッタ塚の近くにある旧根室本線の小笹川橋梁
撮影=鵜飼秀徳
バッタ塚の近くにある旧根室本線の小笹川橋梁。1905(明治38)年に完成 - 撮影=鵜飼秀徳
新得のバッタ塚
撮影=鵜飼秀徳
新得のバッタ塚 - 撮影=鵜飼秀徳

■世界各地で脅威が続く蝗害…日本も無関係ではない

当時は道内各地にバッタ塚が作られたという。だが、開拓が進むにつれて畑に置き換わり、現存するのはここ新得町と札幌市の手稲山口のバッタ塚くらいである。

新得町のバッタ塚は、夏期は草生す林道を探し回らなければならず、冬期は雪に埋もれてしまうので発見が困難である。

新得のバッタ塚。大きく盛り上がっている
新得のバッタ塚。大きく盛り上がっている

手稲山口のバッタ塚は札幌市街地からも近く、駐車場や散策路も整備されているので行きやすい。こちらは、1883(明治16)の大発生時に札幌区の付近8kmの地域で掘り集めた大量の卵を、砂地に列状に並べ、各列の上に砂を25cmほどかけて作られた。当時は100条ほどあったと推測される。昭和42年(1967年)に一部が発見され、1978(昭和53)年に札幌市指定史跡となった。

さて、1885(明治18)年には終息した明治の蝗害騒動であるが、再び十勝地方にバッタが大規模発生するのが1938(昭和13)年のこと。この年は国家総動員法が公布され、北海道では軍用馬の育成が実施されるなど戦時色が濃くなっていた時期にあたる。6月19日、十勝平野の西部、芽室地方においてトノサマバッタが大発生した。534人が出動し、駆除にあたった。

1940(昭和15)年10月にはハネナガフキバッタが十勝平野北部の本別地方で大発生し、現地民を苦しめたとの記録がある。

世界に目を転じれば、蝗害の歴史は人類史とも重なる。紀元前13世紀頃の旧約聖書には、サバクトビバッタがエジプトを襲った様子が記されている。また、紀元前700年頃のアッシリアの遺跡には、蝗害の深刻さを示唆する壁画が残されている。3世紀の小アジアでは、聖バルバラにまつわる蝗害の伝説が残されている。

『北海道蝗害報告書』の地図と挿絵
撮影=鵜飼秀徳
『北海道蝗害報告書』の地図と挿絵 - 撮影=鵜飼秀徳

現代の蝗害の例では、2005(平成17)年に中国で、トノサマバッタによる大規模な蝗害が発生した。2019(令和元)年には、パキスタンでサバクトビバッタが大量発生し、被害面積は1800万ヘクタールにも及んでいる。コロナ禍に入る直前の2020(令和2)年2月には、東アフリカを中心にサバクトビバッタが大量発生。ソマリア政府は国家非常事態を宣言した。この蝗害は、アフリカだけでなく中東やアジア20カ国以上にまで広がり、日本への飛来の可能性も考えられた。

現在も世界各地で蝗害の脅威は続いている。いや、気候変動の影響でバッタの大発生はますます増えていくことだろう。干ばつの後に大雨が降ると、歴史的な大発生をもたらすことが指摘されている。

バッタ塚の遺跡群は、北海道開拓期における開拓民の困難な生活と、大自然に対峙する彼らの強靭な精神を伝える貴重な文化財であると同時に、気候変動への警鐘を鳴らす大切な存在といえる。

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)

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