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それはもはや「城」ではなく「山」だった…大改造した江戸のど真ん中に徳川家康が築いた空前絶後の巨大天守

プレジデントオンライン / 2024年10月2日 18時15分

「江戸図屏風」に描かれた元和度もしくは寛永度天守。家康が建てた天守とは異なる(画像=http://www.rekihaku.ac.jp/e_gallery/edozu/l12.html/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

徳川家康が建てた江戸城とはどんな姿だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「かつて日本に築かれた城の中で、圧倒的に巨大だった。だが、その象徴ともいえるべき天守は、わずか15年しか存在しなかった」という――。

■日本に存在した城の中でけた違いに大きかった江戸城

日本に存在した城の数は3万とも4万ともいわれるが、そのなかで江戸城(東京都千代田区ほか)はけた違いに大きかった。内郭、つまり内堀の周囲だけで約7.85キロ、面積が424.8ヘクタールもあった。外郭、すなわち外堀の周囲となると約15.7キロで、面積は約2082ヘクタール。ざっと東京ドーム450個分の広さになる。

この日本史上において圧倒的に巨大な城は、天下普請で築かれた。「普請」とは土木工事のことで、「天下普請」とは全国の諸大名に命じ、費用から実際の工事まで諸大名に負わせることを意味する。徳川幕府に集中した権力がいかに強大だったか、ということである。

ただし、こうした工事は一気に行われたわけではなかった。

徳川家康が江戸に入城したのは、滅ぼされた北条氏の領土に移封になった天正18年(1590)の夏。すでに江戸には、15世紀に太田道灌が築き、のちに北条氏が整備した城があったが、織田信長の安土城(滋賀県近江八幡市)や豊臣秀吉の大坂城(大阪市中央区)など、天下人の城を見てきた家康にとっては、貧弱なものだった。

しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に勝つまでは、家康は豊臣政権下の一大名にすぎなかった。だから、しばらくは秀吉から要らぬ嫌疑をかけられないように、江戸城の改修は最小限にとどめていた。

■空前絶後の土木工事

家康が動いたのは、慶長8年(1603)の征夷大将軍就任後だった。翌慶長9年(1604)、西国の29大名に命じて、城の中核となる本丸、二の丸、三の丸、北の丸のほか、溜池から雉子橋までの外郭を築かせた。このとき神田山を切り崩し、いまの新橋近辺から大手町あたりまで入り込んでいた日比谷入江を埋め立て、土地を創出している。

徳川家康像
徳川家康像(画像=狩野探幽/大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

また、遅れて東北や関東、信州などの大名も駆り出され、慶長16年(1611)までに、現在は皇居の宮殿が建つ西の丸や吹上が整備された。この第1次天下普請で江戸城の骨格が整った。

家康の存命中に行われたのは、慶長19年(1614)の第2次天下普請までで、そのとき本丸から三の丸にかけての石垣が大規模に修築され、ほぼ今日見るような姿になった。ほかに西の丸を囲む堀が拡張され、現在は皇居外苑となっている西の丸下の石垣が整えられ、半蔵門から外桜田門までの幅100メートルを超える堀も、このとき整備された。

工事はまだまだ終わらなかった。慶長20年(1615)に豊臣氏が滅ぶと、元和6年(1620)に、東国の大名を中心に第3次天下普請がはじまり、大手門が再整備され、内桜田門から田安門までの石垣が整えられた。3代将軍家光の代になっても続き、寛永5年(1628)からの第4次天下普請で、外郭の石垣などが整えられた。そして、寛永13年(1628)からの第5次天下普請で、外郭の堀や門が整備され、江戸城の全体がひとまずの完成をみた。

その間、動員された大名は延べ471家を数え、最多の大名が加わった第5次天下普請では、西国の61大名、東国の54大名が携わった。空前絶後の土木工事だった。

■なぜ15年で壊されたのか

こうした工事のなかで、家康が主導したのは第1次天下普請だが、その後の普請で、城にはかなり手が加えられたため、たとえば石垣にせよ、家康時代のものは本丸東面の白鳥壕沿いや本丸東の富士見櫓周辺など、一部にしか残っていない。家康が慶長12年(1607)に築いた5重5階の天守も、2代将軍秀忠の時代にすっかり壊されてしまった。

富士見櫓 2012年正月 坂下門内側から撮影
家康時代の石垣上に建つ富士見櫓。 2012年正月 坂下門内側から撮影(写真=ぱたごん/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

秀忠は第3次天下普請の最中、元和8年(1622)8月から翌年にかけ、本丸を大きく改築した。幕府の職務が拡大したのに対応すべく、本丸を北方に大きく拡大する必要が生じたのである。その際、御殿を拡大するのに天守が邪魔だったので、解体されることになった。

家康が建てた天守は意外と貧弱だったのか? 建ててわずか15年で壊されたと聞けば、そのように思われても当然だが、そうではなかった。その時点でまちがいなく史上最大の天守だった。

慶長12年(1607)には、豊臣秀頼はまだ大坂城に健在で、情勢次第では外様大名たちがふたたび豊臣家を担ぐ可能性を否定しきれなかった。だからこそ家康は、江戸城をだれも攻められない不落の城にすると同時に、工事に加わる大名たちの経済力を削ぎ、さらには圧倒的な規模の天守を建て、大名たちに徳川の力と権威を見せつけようとしたのである。

■姫路城のような姿で、豊臣大坂城天守より高い

幕府大工頭の中井家に伝わった「建地割図」によれば、家康の天守は1階の大きさが18間(約38メートル)×16間(34メートル)で、これは豊臣大坂城天守の1階平面の2倍以上になる。また、高さは木造部分だけで16丈(約48メートル)で、天守台の石垣を加えると約20丈(約60メートル)にもなったという。天守台を入れて40メートル程度だった豊臣大坂城天守をはるかに上回る規模だった。

家康の天守について『慶長見聞集』には、「殿主は、雲井にそびえておびたゞしく、なまりかはらをふき給へば、雪山の如し」と記されている。壁面は白漆喰の総塗籠で、屋根には木の型に鉛の板を張った鉛瓦が葺かれたため、雪山のように白かったというのだ。

5年後の慶長17年(1612)に、家康の意向で建てられた名古屋城天守もそうだが、黒かった豊臣系の天守に対し、純白を採用して「刷新感」をねらったものと思われる。

だが、家康の天守はただ大きいだけではなかった。平成29年(2017)に発見された「江戸始図」等から見出せるのは、姫路城天守のように3つの小天守と渡櫓で結ばれた連立式天守で、しかも、付属する枡形を通り抜けないと天守に近づけない。要は、実戦に供し、万一のときには最後の砦になるように設計されていたのだ。しかも、この規模で姫路城のような連立式だったのだから、どれほどのスケールだったか、もはや想像を超えている。

姫路城
写真=iStock.com/SeanPavonePhoto
姫路城。 - 写真=iStock.com/SeanPavonePhoto

■家康、秀忠、家光それぞれの天守

ところが、家康の没後6年ほど経って、秀忠は先述のように、これほどの天守をあっけなく解体してしまった。豊臣氏が滅んで、事実上、戦闘がなくなったいま、実戦的な機能を犠牲にしてでも、本丸御殿の政治的機能を拡大することのほうが重要だ――。そんな理由で、立ちはだかるように建つ巨大な天守を壊したものと思われる。

だが、江戸城から天守が失われたわけではなかった。秀忠はただちに、拡張された本丸の北方にあらたに天守を建てた。ところが、この天守も3代将軍家光が、完成して15年後に解体し、あたらしい天守が建て直されている。

秀忠の天守に関しては、規模や形状が明確ではないが、天守台は家光の天守と同じ場所にあった。また、両者は破風の形状や窓のかたちが若干違う点を除けば、とても似ていたという。家光は父である秀忠の天守を解体し、ふたたび組み上げながら多少のお色直しをしたということではないだろうか。

やはり5重5階の家光の天守は、1重目から上にいくにしたがって平面が規則正しく逓減する層塔型で、高さは木造部分が44.8メートルで、天守台の石垣を入れると58.6メートル。先に記した家康の天守の高さにおよばないが、家康の天守も、現実には家光の天守程度の高さだったのかもしれない。いずれにしても、家光の天守より高い天守がほかの城に建ったことはなかった。

外壁には、煤に松脂と油を混ぜて練った黒チャンが塗られた銅板が張られ、屋根は銅瓦で、最上階には金の鯱が載り、破風飾りなどは黄金で飾られていた。

■息子・秀忠すら威圧した天守

このように家光の天守は、豪華絢爛たる外観だったが、天守台に小天守台が付属しているものの、小天守は建たない独立式だった。したがって、家康の天守にくらべると、かなりシンプルで、大天守に近づくのが困難な造りではなかった。

また、石落としはなく、鉄砲狭間も少なくとも外部からは見えなかった。それは泰平の世を前提に、実戦を考えるよりも、規模と豪華さで諸大名を威圧する天守だった。しかし、この天守も、完成して20年にも満たない明暦3年(1657)、江戸の3分の2を焼き尽くした大火の際、防火性能が高い黒チャン塗りの銅板で守られていながら、開いていた窓から火の粉が入って呆気なく焼失。その後、江戸城に天守が建てられることはなかった。

現在、一部で復元が検討されているのは、この家光の天守である。だが、いま旧本丸にある天守台は、この天守の焼失後にあらたに積まれたもので、家光の天守の天守台にくらべて高さも2メートルほど低い。その事実もふくめ、再建には困難がともなう。

それはともかく、史上最強の天守は、家康が建てた慶長期の江戸城天守だったかもしれない。史上最大規模の大天守の周りを、ほかの城の天守より大きな3重の小天守3棟が囲んだ雄姿。あまりの規模に、全国の大名を威圧する効果があったのはまちがいないが、息子の秀忠までが父の存在の大きさに圧されて、この天守を取り壊したくなった――。そんな想像もしてしまう。

東京都千代田区、皇居東御苑白鳥濠
家康時代の面影を残す皇居東御苑白鳥濠(写真=hilia/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons)

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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