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「なぜ男性同士の結婚は認められていないの?」…必須科目になった「公共」の授業で高校生たちが学んでいること

プレジデントオンライン / 2024年10月10日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Korekore

高校の必須科目になった「公共」で、高校生はどんなことを学んでいるのか。東京学芸大学の渡部竜也准教授は「小中学校の社会科では、『政府は決して間違っていない』という姿勢で授業が行われている。しかし、『公共』という新科目が設けられたことで、学校教育で現在の制度課題や制度のあるべき姿についての議論が一部では始まっている」という――。

※本稿は、渡部竜也『大学の先生と学ぶ はじめての公共』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■高校生たちが語り合い、“民主主義の要”を学ぶ

2022年4月から登場した新科目が「公共」という名称になったことは、大変に注目すべきでしょう。

これまで「公共」という概念が学校教育で重視されることはほとんどなく、今回、公民科において唐突にこの言葉が出てきたような印象もありますから、学校現場には戸惑いもあるかもしれません。

学習指導要領を読む限り、この「公共」とは、「公共的な空間」、つまり「社会の諸問題・諸課題について市民が対等な関係で語り合う空間」のことを意味しているようです。

ドイツの哲学者、ユルゲン・ハーバーマスのいう「公共圏」を学校現場向けにわかりやすく表現したものであると言えるでしょう。

そしてここに、話し合いを通して賛同者を増やすという面倒なプロセスこそ民主主義の要であることをしっかりと意識づけしていこうとする文部科学省の本気度を見ることができます。

これには、これまでの学校教育が、進路決定、学力の形成と評価、政治思想の形成、その他何事についても個人単位でなされるべきであるとしてきたこと。

そして「急速かつ激しい変化が進行する社会を一人一人が主体的・創造的に生き抜いていく」という個人主義を当然としていたことが背景にあります。

■「一個人」では社会を変えられない

これでは、人間的成長、問題解決、政治参加は常に個人単位となってしまいます。

周りの人々(特に教室の同級生たち)の存在は、同志ではなく、競争相手か、利益を妨害する敵か、そうでなければたまたまそこにいるだけの一時的にやり過ごす存在になってきたのではないでしょうか。

民主主義体制下においては、一個人の思いだけでは政治や社会は変えられない、一個人の思いを投票にぶつけるだけで政治や社会は変えられないという、とても当たり前のことを日本国民は体験的にも理解する必要があります。

民主主義は「公共的な空間」に人々が参加することで本領が発揮できる政治体制なのであり、それは学校教育で教えていかないと、なかなか実感のできないことだと思います。

ただこうした新科目「公共」については、個人より全体=周囲を重視する「場の空気を読む子」を育てることにつながるのではないか、また、模擬裁判や模擬投票などが強調され、活動ばかりで中身がない科目になってしまうのではないかという危惧の声があると聞きます。

学習指導要領において話し合いは強調されているけれども、「批判」という言葉は登場せず、結局は政府の政策や制度への順応を第一にしているのではないかという主張も目にしました。

これらについては、確かに警戒しなければならない問題だと思います。

■「政策の何が悪いか」を問われてもわからない

実際、小中学校の社会科の教科書などを見ますと、政策や事業や制度について多少なりとも取り扱ってはいますが、それらは概ね「社会を支えている」「人々の社会生活に役立っている」という形になっています。

ゴミの処理も、選挙制度も、裁判員制度も、農林水産業対策も、各種の差別問題対策もそうです。

悪いのは、ルールを守らずゴミを出す一部の住民、投票に行かない/裁判員を拒否する市民、米(国産農産物)を食べない消費者や農業の後継者になろうとしない若者、差別をする一人一人の市民であると言わんばかり。

「政府は決して間違っていない」という姿勢です。

これが変であることは、多くの人が薄々感じているところではあると思いますが、では政府の政策のどこが具体的に問題なのかと問われると、多くの人がわからないままなのではないかと思われます。

この解決のために、筆者は制度批判学習論という考えをしばしば採用しています。

これは、制度が生まれた当時の議論を見直して現在の制度の課題や制度の本来あるべき姿について考える、もしくは諸外国では同じ問題に対してどのような対策や制度をとっているのか調べて、日本の事情にあった対策や制度を考えるというものです。

社会問題の考察にあたって社会科学者などが頻繁に採用する手法です。

また、憲法の考えに照らし合わせて問題点を浮き彫りにするという手法も採用しています。

その代表例として、最近話題である同性婚の法制化をテーマにこれを実践してみましょう。

■「憲法に照らして何が問題か」を考えてみる

同性婚をめぐっては、地方裁判所や高等裁判所で同性婚を認めない現在の法制度は憲法に違反しているのではないかという裁判が行われています。

結婚式でリングを交換する男性カップル
写真=iStock.com/Orbon Alija
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Orbon Alija

現在は、大阪地裁以外の全ての裁判で、同性カップルが異性カップルと比べてかなりの不利益を被る現状は何らかの形で憲法(特に性や人種などの差別を禁じる憲法14条)に違反している状態にあることが指摘されました。

実際、同性カップルはパートナーの遺産相続、生命保険金の受け取り、配偶者控除などの税金の優遇措置などが認められてきませんでしたから、こうした裁判所の指摘は妥当でしょう。

世論も何らかの形で同性婚またはその代替制度(パートナーシップ制度)の法制化をすべきだと考える人の数の方が、これらに反対する人より圧倒的に多く、しかも若者ほど法制化に前向きなようです。

しかし、地方自治体はともかく、日本政府は同性婚またはその代替制度の法制化について、現在のところあまり積極的ではありません。最高裁が判決を出すまで様子を見るようですね。

■「世界はどのような対応をしているか」調べてみる

世界に眼を向けると、北南米や西欧諸国は同性婚またはその代替制度を認める国が多く、アジアでは台湾で認められています。一方、ロシアや中国などでは同性愛は法による取り締まりの対象になっており、イスラム教の国の中には死刑を採用している国もあります。

結婚式で相手の女性に指輪をはめる花嫁
写真=iStock.com/GeoffGoldswain
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GeoffGoldswain

その国の宗教や歴史、そして人権意識の差異が姿勢の違いに大きな影響を与えているようです。

実は日本は、制度的に同性婚を認めたことはありませんが、同性愛には宗教的にも歴史的にも寛容な国であったことは、多くの歴史学者が指摘するところです。

同性愛を不自然な悪徳とする考え方はむしろキリスト教の国々の方がはっきり持ち合わせており、そしてこうした考え方は明治時代に西洋から日本にも伝わったのですが、明治時代の終わりまでこの考え方はほとんど広まらなかったようです。

しかし大正時代になると、軍隊の中で同性愛が問題視されるようになり、男性の同性愛者は女性性(「弱々しさ」「女々しさ」など)と結び付けられるようになります。

戦後も特に男性の同性愛者は女性性と結びつけられることで侮辱や嘲笑の対象となり、メディアでもしばしばお笑いという形でそうした見方や考え方が発信されてきました。

このように考えると、日本において同性カップルへの差別はかなり最近生まれたものであり、しかもそれは国家や教育やメディアが生み出したものと言えそうです。

■「問題解決に向けてどうしたら良いか」を考えてみる

そして現在、同性カップルが受ける差別的な状況を解消しよう、同性カップルにも異性カップルと同等の権利を法的に承認しようとする意識が日本国民の中で高まってきたにもかかわらず、日本政府が一番後ろ向きという状態にあります。

世論が同性婚またはその代替制度の法制化に概ね前向きで、宗教上の問題もあまりなく、そして地方政府も制度の見直しに前向きなところが多いのに、中央政府にその気がないというケースは、世界ではあまり例がないようです。

このまま政府は裁判の動向を見守るべきなのでしょうか。それとも1日も早く国会の審議に入るべきでしょうか。またどちらが問題解決において良い結果を生み出すでしょうか。

同性カップルが不利益を被っている現状の早い改善を望むなら、審議は1日でも早い方が良いでしょう。

ですが、問題解決に消極的な政府が不十分な制度を作ってしまうくらいなら、最高裁にしっかり違憲判決をしてもらった方が良いようにも思います。

「裁判を見守るべきか」それとも「国会の審議に入るべきか」、みなさんはどう思いますか?

■教師たちは「予定調和的な展開」に悩んでいる

広島大学の教育ヴィジョン研究センター(以下、EVRI)では、報告書において、高校現場での同性婚の取り扱いについて調査した結果をまとめています(『社会科教師の論争問題学習に対するスタンス調査研究/EVRI研究プロジェクト叢書』第6号、2022年)。

高校教師は「現代社会」または「公共」で現代のセンシティブな問題の取り扱いについては避ける傾向にあると言いますが、その中で同性婚は比較的に回避されず取り扱われる傾向にあるようです。

それは、同性婚自体が高校生にとっても、そして最近では世間においても、あまりセンシティブな論争問題になりえていないからのようです。

先ほども触れましたが、若年層を中心に多くの人が同性カップルの法律婚を認めるべきであると考えているという調査結果も各方面から出ています。

しかしだからこそ、同性婚を取り扱う授業が予定調和的な展開になりがちなことに悩む教師も少なくないようです。

結婚が認められないことで同性カップルがどんなことに困っているのかの実態について調べ(場合によっては当事者に共感的に理解させ)たのちに、国や司法に状況改善を呼びかけていく、というパターンに陥りがち……。

制度批判の視座を生徒たちに保障できているかもしれませんが、議論することを大切にする公共で取り上げるアプローチとしては、もうちょっと工夫が欲しいことです。

学生のディスカッションを見守る教師
写真=iStock.com/Casarsa
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Casarsa

■結婚という「制度」の存在まで問いかける実践も

実はこの点については、私もこの記事を書くにあたって、大変に悩んだところです。

EVRIの報告書には結婚を国が制度として強制すること自体の是非を問いかけることで、同性婚をめぐる議論が「結婚」という制度を当然として議論していることに疑問を投げかけるという、リバタリアン(自由至上主義)の見解を取り上げて「悪魔の代弁者」を演じる教師が紹介されています。

これも大変にラディカルで面白い試みだなと感じましたが(もしかしたら、こちらの方がより「制度/政策批判学習」の理念に対応しているかもしれませんね)、本記事では、まず政府が民法で結婚を制度として国が保障してきたことの意味(重要性)に注目することに重きを置きました。

あくまで結婚は大切な制度であって、そこから同性カップルが排除されて良いのかな、と読者に問いかけた上で、どうやれば皆が納得する形で同性婚もしくはその代替となる制度が社会で実現していくのか、手順(司法主導か、それとも議会主導か)について考察していけるように論を展開しました。

司法判断(最高裁判決)まで待とうとしている政府の姿勢を問い直す形にしたわけです。

こうした今回の私の判断が正しいのかどうか、それは読者に判断してもらいたいところです。ただ一つ言えることは、同性婚の取り扱い方には、複数の選択肢があるということです。

■生徒たちが議論をして、いまある制度を問い直す

さて、新科目「公共」でも、小中の社会科と同じ「政府は決して間違っていない」という姿勢を継承するのであれば、結局は投票率が改善することも、人々が公共的な空間で熱く政策について議論することも、ほとんど生じないでしょう。

渡部竜也『大学の先生と学ぶ はじめての公共』(KADOKAWA)
渡部竜也『大学の先生と学ぶ はじめての公共』(KADOKAWA)

だからこそ、政府とは直接は関係のないメディアに、御用学者ではない人間が本音で新科目について考えていく記事を出すことはとても大切であると思います。

ただ、一番良いのは、みんなで「公共」を良いものにするために、SNSなどの「公共的な空間」で議論する機会がどんどん増えていくことかと思います。

そこにこそ新科目「公共」の未来があるのです。

そして高校生の皆さんには、他者と議論しながら政策・制度を根源的に問い直し、納得できるものを選んでいけるようになってほしいと思います。

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渡部 竜也(わたなべ・たつや)
東京学芸大学准教授
1976年広島県生まれ。広島大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。著書に『教室で論争問題を立憲主義的に議論しよう―ハーバード法理学アプローチ』(東信堂、2024年)、『社会科授業づくりの理論と方法―本質的な問いを生かした科学的探求学習』(明治図書、2020年)、『主権者教育論―学校カリキュラム・学力・教師』(春風社、2019年)、『Doing History―歴史で私たちは何ができるか?』(清水書院、2019年)など。

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(東京学芸大学准教授 渡部 竜也)

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