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「乳児遺棄を助長する」と大逆風…それでも元熊本市長が「日本初の赤ちゃんポスト」にGOサインを出した理由

プレジデントオンライン / 2024年10月9日 17時15分

熊本市の慈恵病院が運営する「こうのとりのゆりかご」 - 筆者撮影

熊本市に設置されている「こうのとりのゆりかご」は日本初の赤ちゃんポストだ。当時、「匿名で子どもを置いていけるものをつくるのか」と、政治家などから否定的な声が上がる中、最終的に設置を許可したのは熊本市長だった。この決断の背景にはどんな考えがあったのか。ノンフィクションライターの三宅玲子さんが取材した――。

■17年経っても赤ちゃんポストは増えていない

日本で初めての赤ちゃんポストがつくられたのは2007年5月。それから17年の間、他県でつくろうとする動きが起きたこともあったが、封じられてきた。現在、公式に運営しているのは1カ所目となった慈恵病院(熊本市)の「こうのとりのゆりかご」(以下、ゆりかご)だけだ。

新たな動きがあったのは2022年。ゆりかごの運用初日に預け入れられた1人目の当事者の行動だった。18歳の成人を迎えたその人は、里親家庭で絆を深めながら成長した自身の物語を実名で公表した。

すると、心を打たれた個人の活動家が北海道当別町で赤ちゃんポストを開始。しかし、北海道と当別町は必要な医療を提供する体制が不十分などとして、受け入れを中止するよう要請している。

東京では、江東区の医療法人社団・モルゲンロートと墨田区の賛育会病院が相次いで赤ちゃんポストと内密出産の運用計画を発表した。賛育会病院は、今年度中に運用を開始する予定だという。

■四面楚歌の中、熊本市長が決断した

そもそも、赤ちゃんポストは現行法の隙間をかいくぐるようにして始まった。土壇場で国に突き放され、四面楚歌の中でゆりかごの運用を前提にした病院の改築許可を出したのは、当時42歳の熊本市長・幸山政史氏だった。

罪を問われずに産んだ赤ちゃんを匿名で預け入れられる――そんな仕組みが果たして可能なのか。当時、社会はこの構想に衝撃を受けた。幸山氏が判断しなかったら赤ちゃんポストは日本に登場しなかったかもしれない。

幸山氏は2014年、3期満了をもって熊本市長を退任した。退任する際、印象に残る仕事はと尋ねる記者団に幸山氏は「こうのとりのゆりかごの決断が、大変重たく難しかった」と答えている。

幸山氏は自身の下した判断をどう振り返るのか。また、後続の動きが活発化している現在をどう見ているのか。熊本市の事務所で話を聞いた。

■もし「あなたのせいで」と言われたら…

――ゆりかご設置を許可したことについて、今振り返ってどう思いますか。

認可した当時から今まで、(認可は)正しい判断だったのか、考え続けています。もし、将来、預け入れられた子が目の前に現れて、あなたがゆりかごをつくったせいで、自分は親から離された(親がわからない)、と言ったら、自分はどう答えるだろうか、と悩んだ時期もありました。

遺棄罪、戸籍法、あるいは児童虐待防止法に抵触しないかなど、さまざまな角度から慎重に検討を行った結果、許可を決断しました。赤ちゃんポストによって救われる命があるのならと。でも、当事者である子どもにとってはそうした一般論は関係のない話ですから。

元熊本市長の幸山政史さん
写真提供=幸山政史事務所
元熊本市長の幸山政史さん。1965年、熊本市生まれ。熊本県議を経て2002年に熊本市長選に初当選。2015年に市長を退任した後、熊本知事選に3回挑み、敗れた。今年8月に政治団体「くまもとVOICE」を発足 - 写真提供=幸山政史事務所

■厚労省の態度を変えた安倍元首相のひとこと

――当時の国との交渉はどのようなものだったのでしょうか。

実は厚労省の対応は親身だったんです。熊本市では、幹部である統括審議官が指揮して庁内横断の連絡会議を設置しました。戸籍法や遺棄罪、児童福祉法など、関係するすべての法律について関係部局と議論をし、問題になる可能性のある項目について厚労省と法務省に問い合わせをしています。

審議官は六法全書をすべて洗い出したと言っていました。そうやって整理して出した問題点に対し、厚労省も法務省も親身で打ち合わせは進めやすかったと聞いています。

私たちは2007年2月に厚労省で局長と面会しました。「安全性が確保されれば赤ちゃんポストの設置は明らかに違法とは言えない」という厚労省の見解を文書で出してほしいと要望し、局長は了承しました。ところが、その翌日、安倍晋三首相(当時)が「ポストという名前に大変抵抗を感じる。匿名で子どもを置いていけるものをつくるのがいいのか。大変抵抗を感じる」と強く反対姿勢を示しました。

厚労省の態度ががらりと変わりました。つまり、それまでの親身から、突き放した対応に変わったのです。

■「政治主導というより無責任ではないか」

――当時の地元紙の報道(熊本日日新聞、2007年2月23日朝刊)には、熊本市は文書での回答にこだわり、厚労省幹部は「今日、口頭で回答した内容の趣旨は変わらない」と発言したとあります。しかし、翌2月24日の朝刊では、安倍元首相の強い反発を紹介しました。

私たちは数カ月かけて隅々まで法律の検討を積み上げていました。生まれたばかりの赤ちゃんが殺害されたり遺棄されたりするのを防ぐことができればと考えたからです。ところが、突然、安倍首相が感想めいた発言をされました。それは現実を見ていない「あるべき論」だと私は思いました。

当時は行き過ぎた官僚主導に対して政治主導がもてはやされていた時期でしたが、これは間違った政治主導だと思いました。政治主導というよりも無責任であり、この問題について現状をわかっていないのではないかと受け止めました。ですので、そうした政治家の感情論に流されることはしないという気持ちが強くなりました。

■国も政治家もゆりかごを無視し続けている

――2月24日付の熊本日日新聞には「『積極的にOKしたとか、いいことだとは言っていない。法令違反を理由に設置を止めることはできない、という意味だ』。横やりを受けた厚労省幹部はそう釈明する」と書かれています。また、3月8日付では「厚労省の定例会見で事務次官(*辻哲夫氏)が、「なぜ(熊本市)は文書にこだわるのか」と気色ばみ、自己判断を強く促した」とあります。

書かれているとおりです。当時は第一次安倍政権が始まって5カ月でした。まだ内閣府が官僚の人事権を握るようにはなっていません。今振り返れば、逆に、当時だったからこそ、国がゆりかごに対して距離をとるという程度ですんだのかもしれないとも思います。

第二次安倍政権下だったら、官邸の意向を忖度して官僚の側から「やっぱりだめだ」と言われて、私が認可することもできなかったかもしれません。

――その後から現在まで、ゆりかごに対する国の姿勢をどのように見ていますか。

ゆりかごが開設されてから退任する2014年まで、ゆりかご運用の報告のために毎年厚労省を訪ねていました。そのたびにゆりかごに関与してほしいと要望してきました。具体的には、検証部会に参加してほしい、議論に参加することが難しいなら、オブザーバーでもかまわないと提案しましたが、それは私が退任した後も現在まで実現していません。

しかも、2010年から2年半の民主党政権の間も変わりませんでした。せいぜい変わったことといえば、安倍政権の頃には面会対応したのは厚労省の局長か課長でしたが、民主党政権になってからは鳩山内閣の山井和則政務官と野田内閣の西村智奈美厚労副大臣が応対されたぐらいのことでしょうか。自民党とは異なり政治家が対応してはくれましたが、ゆりかごに対する基本的な姿勢は自民党と変わらなかったということです。

■なぜ親を探す社会調査を始めたのか

――アメリカでは、例えば人工妊娠中絶を認めるかどうかの問題は共和党と民主党の争点のひとつです。

日本では、ゆりかごの議論の際、人工妊娠中絶の問題は争点になりませんでした。もちろん、ゆりかごも政治の争点になりませんでした。ゆりかごに預け入れられる赤ちゃんがいるという厳しい現実への関心が低いのは、与党も野党も同じだと私は思います。

慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」
筆者撮影
慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」。ベビーベッドに赤ちゃんを寝かせて扉を閉める仕組みになっている - 筆者撮影

――日本初の赤ちゃんポストとなった「こうのとりのゆりかご」では、運用開始に当たり、児童福祉法に基づいて、児童相談所がゆりかごに預け入れた親の身元を探す社会調査を実施する判断をしました。

これは熊本市が決めたものではありません。当時の状況を説明します。運用を開始する際、ゆりかごに預け入れられた赤ちゃんは児童相談所に一時保護されるというルールをつくりました。しかし、2007年当時、熊本市には熊本県の運営する熊本中央児童相談所しかありませんでした。

そのため、実際に預け入れられた赤ちゃんの一時保護やその後の乳児院への移管など、慈恵病院から赤ちゃんを受け渡されたあとの実務は熊本中央児相の管轄でした。私も県にお任せしていました。

端的に言えば、ゆりかごに預け入れられた赤ちゃんであっても、ほかの遺棄児のケースと同様に児童福祉法に則って社会調査をして親を探す、というルールをつくったのは熊本県です。でも、当時、そのことを決めるに当たっては、熊本県の担当者は大変悩まれたと聞いています。(*熊本市は2010年に熊本市児童相談所を設置)

■親の匿名性を守るか、出自を知る権利を守るか

正直に言えば、慈恵病院に病院改築許可を出したあのとき、私自身、社会調査をするかどうかという点にまでは考えが及んでいませんでした。ただ、私も社会調査はしなくてはならないという考えでした。

今も、子どもにとって出自を知ることは大事だという思いはあります。探した結果わからなかったのは仕方がないとしても、最初から探さないのが果たしてよいことなのでしょうか。

――ゆりかごの運用を巡る検証報告書には、第1回から最新の第6回まで一貫して「匿名性は容認できない」と記されています。市長としての幸山さんも同じ考えだったのでしょうか。

矛盾するようですが、私はそうではありません。赤ちゃんポストの設置を許可するということは、匿名での預け入れを認めるという意味です。匿名性を認めないのであれば赤ちゃんポストの要件を満たさないことになります。ただ、だからといって、親の身元を探さないでいいのか。それよりも、できる限り親と接触して、相談につなげることが大事ではないかと考えていました。

■孤立した女性の立場を考えられていなかった

――現在も同じ考えですか?

ゆりかご設置を許可したあのとき、預け入れる女性の背景を考えることができていたかと問われれば、私にも反省すべき点があります。たとえば、検証報告書の見出しにもなっている「安易な預け入れ」という言葉。これを最初に使ったのは私だと思います。

赤ちゃんポストという機能によって、救われる命があるのか、それとも安易な預け入れによる遺棄を助長するのか、対立点を明確にするために使ったワードでした。でも、今振り返ると、安易な預け入れという表現は、ゆりかごに預け入れなくてはならないほどに孤立した、あるいは追い詰められた、女性の立場について考えられていなかったと思います。女性への視点が足りなかったことは率直に認めなくてはなりません。

赤ちゃんの命を救いたい、でも、出自を知る権利も担保したい。私は二兎を追ったのだと思います。ただ、出自を知る権利を担保することを考えるとき、同じくらい、女性の背景にも目を向けなくてはならなかったと今は思います。

■内密出産制度には賛成だが、やり方は「乱暴」

――慈恵病院ではゆりかごの運用と並行して、2021年12月から「内密出産」の受け入れを開始しました。(*母親が病院の予め決められた職員にだけに身元を明かして出産することができる仕組み)

慈恵病院が受け入れた内密出産は、24年9月末時点で36件に上る
筆者撮影
慈恵病院が受け入れた内密出産は、24年9月末時点で36件に上る - 筆者撮影

ゆりかごには、子どもの出自を知る権利を担保できないという致命的な問題がありました。ですので、私が市長を退任した後の第4回検証報告書は内密出産の制度化を検討するよう国に提言しています。

内密出産であれば、親の情報を管理することができるという前提です。私は内密出産の制度化に賛成の立場です。ただ、内密出産を開始したときの慈恵病院のやり方はやや乱暴に見えました。

――乱暴とはどういった意味でしょうか。

慈恵病院が内密出産の実施の意思を示したとき、熊本市はゆりかごのときと同じように、現行法に抵触しないか、さまざまな角度から検証し、国に問い合わせていました。

国の反応は、ゆりかごのときと同様に、「現行法には抵触しない」というものでしたが、熊本市は「抵触しないとは言い切れない」として、慈恵病院に内密出産の受け入れを自粛するよう文書で伝えました。しかし、慈恵病院は強行突破して内密出産を始めました。

――「ゆりかごはダメだが内密出産はよい」という検証部会の言葉を受けてのことだと慈恵病院の蓮田健理事長は述べています。

それは、内密出産の制度化がされてから、という意味だったはずです。いずれにしても、慈恵病院と熊本市の意思疎通がはかれていないのは問題だと思いました。

■すれ違い、対立した熊本市と慈恵病院

――両者の間になぜ対立が起きたのでしょうか。

ゆりかごが17年間続いたのは、必要とされたことの表れではないでしょうか。ゆりかごは行政関係者や児童養護関係者の働きにも支えられてきたことを、慈恵病院にはもう少し受け止めてほしい。

――社会調査を実施したことも影響したのではないですか。

先代の理事長・蓮田太二さんは、預け入れに訪れた女性を追いかけてはならないというお考えでした。もちろん、熊本市に対してそうはおっしゃらない。なぜなら、運用開始に当たって、私は預け入れにきた女性をなるべく相談につなげてほしい、なるべく名前を名乗ってもらって匿名での預け入れを避けてほしい、とお願いしていましたし、そのときは「わかりました」とおっしゃった。

ですが、実際の運用では対応が違っていて、私は市長を退任する際にもその点を強く申し入れました。この「匿名性」をめぐって対立した。私はゆりかごの設置を許可しましたが、両手を挙げて賛成するという立場ではありませんでした。

■赤ちゃんポストや内密出産が不要になる未来へ

――内密出産をめぐる状況をどう見ますか。

内密出産の親の情報を現状では慈恵病院が管理していますが、これこそ、公の機関が責任を持って担うべき役割です。

――慈恵病院の蓮田理事長も同じ意味の発言をしています。(※連載第4回参照)ただ、親の情報を熊本市に渡したら、内密出産に関する特定法がない現状では、児童相談所は児童福祉法に則って社会調査をしなければならないのではないかとの危惧があるとも言っています。

それなら、検証報告書が示しているように、国が法律を整備するまで運用の開始を控えるべきだったのではないでしょうか。そうでないと、現状の運用はあまりに不安定で、私は慈恵病院が孤立して追い込まれてしまわないだろうかと懸念しています。

――厚労省が内密出産のガイドラインをつくったのは慈恵病院が内密出産の受け入れを開始した9カ月後でした。法整備には10年単位で時間がかかるとの意見があります。

私たちが法整備を急ぐように声を上げていかなくてはならないでしょう。そのためにも、何かしら橋渡しのような役割が果たせないかと思っています。内密出産については熊本市が検証部会を発足するべきです。そういうことをちゃんとやっていかないといけない、そのことも声を上げたい。

2007年のスタート時、赤ちゃんポストが使われなくてすむ社会を目指そうと、蓮田太二さんと誓い合いました。子どもの命や権利を守ることにとどまらず、預け入れなくてはならない女性の背景を掘り下げる視点が、今後、他の地域で広がっていく赤ちゃんポストや内密出産の運営にも生かされることを願います。

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三宅 玲子(みやけ・れいこ)
ノンフィクションライター
熊本県生まれ。「ひとと世の中」をテーマに取材。2024年3月、北海道から九州まで11の独立書店の物語『本屋のない人生なんて』(光文社)を出版。他に『真夜中の陽だまり ルポ・夜間保育園』(文芸春秋)。

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(ノンフィクションライター 三宅 玲子)

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