伊達政宗が女子供まで1000人を処刑したという小手森城落城の意外な真相…「撫で斬り」ではなく自刃だったか
プレジデントオンライン / 2024年10月11日 17時15分
■政宗は本当に無抵抗の1000人を「撫で切り」にしたのか
・伊達政宗は満17歳で伊達家の家督を継ぎ、米沢城主に
・自分に人質を送らず、会津の蘆名氏についた大内定綱に激怒
・現在の福島県二本松市にあった大内氏の小手森城を攻め落とす
・「城内の千人以上、犬まで斬った」という書状を残す
戦国武将の運命を決めた城。今回は奥州の若き伊達政宗が裏切り者と戦ったとき、城兵を残らず撫で斬りにしたという逸話から、戦国武将の矜持と覚悟を見ていきたい。
天正13年(1585)閏(うるう)8月24日、戦国武将の伊達政宗(だてまさむね)は、陸奥国安達(あだち)郡塩松の大内定綱(おおうちさだつな)の支城・小手森(おてのもり)城を攻めた。
政宗19歳、定綱40歳の時のことである。
27日、政宗は、小手森城を陥落させたが、その時に無抵抗の人々はもちろん動物まで大量虐殺したという話が「史実」として周知されている。
しかし政宗は本当に多数の人を殺害させたのだろうか。政宗の所業が真実か否か、手がかりは少ないが、可能な範囲で確認を進めていきたい。
■裏切りに次ぐ裏切りを重ねてきた大内家の討伐を決定
前年(1584)冬、大内定綱は伊達家の家督を相続したばかりの若き政宗のもとまで出向いて、「この米沢(よねざわ)城に我が屋敷を賜り、ぜひとも妻子を住まわせたい」と臣属を誓ってきた。
まだ若い政宗も心を許しただろうが、大内家の当主は要注意人物であった。父の代に主君たる石橋家を裏切ってその居城・小浜(おばま)を奪い取り、田村家に転属した。次に二本松(にほんまつ)の畠山(はたけやま)家に転属して、さらに蘆名(あしな)・佐竹(さたけ)連合陣営に鞍替えして、畠山家と争った。
その大内定綱が家族を人質に差し出すという申し出は、蘆名家の動向を警戒する伊達家にとって渡りに船であった。
ところが定綱は、なかなか約束を果たそうとしない。
妻子をはこちらに引っ越すと言って、そのまま連絡すら寄越さずにいたのである。政宗は父・輝宗(てるむね)に、定綱の背後にある蘆名家を攻めるべきかを相談した。
その結果、やはりまず肝の座らない大内定綱の態度をはっきりさせることから始めるべきだと、大内討伐を決定したのである。
■大内定綱は政宗の大軍を前にして小手森城から逃げ出す
閏8月12日、伊達政宗は米沢城を発った。
その12日後の24日には大内居城より北東12キロメートルほどの小手森城に差し迫った。
小手森城は大内定綱その人と大内家臣・小野主水らが守っていた。定綱は政宗の迎撃を試みたが、大軍を前に歯が立たず籠城以外の手がないと覚悟を決めた。
その夜、定綱は小手森から脱出して、本拠地の小浜城に移った。残された将兵は、主君定綱が蘆名・佐竹の援軍を連れて助けに来てくれることを願って徹底抗戦の構えを見せた。
獲物を逃した政宗は猛攻を重ねて3日後の27日に小手森城を陥落させた。
ここで悲劇が起きてしまう。
政宗が小手森城で、城に籠った男女を無差別に大量虐殺したというのだ。
その内容は、落城当日に叔父に、翌日に家臣に、翌月に地元の僧侶に宛てた書状に具体的内容が記されている。世に言う「小手森城の撫で斬り」である。
現在、NHKBSで再放送中の大河ドラマ『独眼竜政宗』(渡辺謙主演)でも第11話「八百人斬り」で描かれた有名なエピソードだ。
■「小手森城の撫で斬り」について政宗が残した3つの記録
合計3通の書状から、該当部分を引用してみよう。
まず事件当日、政宗本人が伯父の最上義光(もがみよしあき)に宛てて書き送った書状である。
城内にいた大内家臣(武士)と奉公人(一般人である従者とその家族)のほか、動物まで殺害させたというのである。無差別殺人である。
もう1通は、翌日、伊達家臣・後藤信康(のぶやす)に宛てて書き送った書状で、
と、その殺戮を誇らしげに伝えている。
最後にもう1通。事件翌月、政宗は僧侶の虎哉(こか)にも手紙を書き送った。
そこで政宗は
と伝えている。
すべて一次史料(当時の記録)に書かれており、しかも政宗本人の証言であるため、信頼度は高いと見られている。
だが、どの手紙も人数が違っていて、微妙に文意が異なるのは不可解である。
例えば、有名な「犬までも撫で斬り」という内容は、最初の最上義光宛書状にしか書かれていない。
この点を、政宗の激烈さを示す感情的な情報認識の齟齬と解釈するよりも、別の史料と見比べてみよう。
■殺したのは「200人」から「1500人」まで、証言が異なる
なぜ同じ人物の証言が異なっているのか?
他家の大名、家臣、地元の僧侶、それぞれで伝える情報が部分的に異なっている。
これはまるで映画『ダークナイト』(2008)のジョーカーを思わせる。この作品のジョーカーは、自分の口にある大きな傷跡について、ある人物には「親父は近づいてきた。“そのしかめツラは何だ?”俺の口に刃を入れ──“笑顔にしてやるぜ”」と父親にやられたものだと告白し、また別の人物には「カミソリを口に入れて裂いた、自分でな」と自傷であることを告白して笑っている。
すると、政宗はジョーカーのようなサイコパスだったのだろうか?
まず最初に事件を伝えた最上義光は、外側の大名である。戦果連絡に誇張を交えるぐらいでちょうどいい。
受け取る側も「誇張や粉飾があって当たり前だ」と思っていることだろう。そこを踏まえて、少しでも大袈裟に伝えることが常識だった。
いっぽうで、家臣に書き送った書状では、殺害人数を「200人以上」と、義光に知らせた人数の4分の1に減らしている。たった1日でこんなに人数が変わるのは少し不思議だ。
■政宗は「殺害させた」と言うが、その場にはいなかった可能性
それに、「実数は把握していない」と書いてあることも気にかかる。まるで、「俺はたくさん殺害させたが、詳しいことや具体的なことは知らない」ととぼけているようでもある。
それでも「満足したことにする」と述べているように、事実関係を曖昧にしたまま、作戦を落着させようとする様子がうかがえる。
そして翌月、地元の僧侶に宛てた書状では、人数を義光と信康に伝えた人数の中間ほどに調整して、「800人以上」を殺害したと伝えている。敵の家臣以外の男女も区別なく殺害したことも述べているが、義光宛書状で触れていた子供や犬の撫で斬りについては言及がない。
小手森城の撫で斬り事件は、このように政宗自ら発した情報ですら、大きな揺れがあって整合性を取れていない。
現在の通説は、これらの話のうちもっとも印象的な表現を情報源にすることで、「政宗は小手森城を落とすと、その成人男性だけでなく、女性と子供と犬までも撫で斬りにした。合計1000人以上が殺害された」ということになっている。
果たして真実はどうなのだろうか。ここで別の二次史料(後で書かれた記録)に目を向けてみよう。
■伊達家の二次史料に見る小手森落城のあらまし
まず伊達家の記録『伊達貞山治家記録』[一]である。
27日の朝、伊達軍が城攻めの布陣を整えた。すると小手森城の武士がひとり現れ、伊達成実(しげざね)の陣所に向かい、取次を願い出た。
「それがしは石川勘解由(かげゆ)と申す者。成実殿の家士・遠藤下野(えんどうしもつけ)と知り合いゆえ、対面を願いたい」
すると遠藤下野が「何事ぞ」と勘解由に応じた。
「すでに大内さまは小浜城へ移られた。この小手森には大内さまの側近がまだ多数残ってござるが、もはや落城間近。それなら、そのまま城をお渡しして、われらは主君のもとへ移りとうござる」
勘解由は伊達軍の様子を観察して、「話し合いの余地あり」と考え、このような提案を持ちかけたようだ。遠藤が主君の成実に事の次第を報告すると、めぐり巡って政宗のもとまで話が伝わり、交渉が開始された。
伊達軍は「提案を受け容れてもいい。しかし小浜城ではなく伊達領に移れ」と半分ほど譲歩してみせた。このまま無事に返したら、定綱と彼らが結束して徹底抗戦することは間違いない。それを避けるのは、当然の代案である。
すると勘解由は、城中の者たちと相談して、「主君のもとで一緒に自害したいから命乞いをしているのだ」と主張してきた。
戦国の世にこんな自分勝手な交渉が通るはずもない。
■政宗は「主君の元へ行きたい」という命乞いをはねつけて攻撃
これを聞いた政宗は「御許容ナシ」の顔色で、「自分たちの陣構えが緩いから、城中の者も自分勝手なことを言い出すのだ(厳ク攻メ給ハサル故、城中如此ノ自由ヲ申出ス)」と怒り、「本丸まで攻め落とせ」と下命した。
よく見ろ大石侍、これが戦国時代だと言わんばかりの返答である。
こうして午後から総攻撃が始まった。城は夕暮れ前に陥落した。伊達軍は本丸に入るなり、「男女800人ほどを一人も残さず監視をつけて斬殺」したと言う。
800人斬殺──。僧侶に宛てた書状と同じ人数である。
ついで『伊達貞山治家記録』だけでなく、成実関連の二次史料『伊達成実記』を見てみよう。
ここでも、石川勘解由が交渉に登場しており、その内容はほぼ前述通りである。それで伊達軍が本丸を落とすと「(政宗が)撫で斬りにせよとの指示があり、男女・牛馬まで切り捨て、日暮れになって引き上げた」とある。
殺害した人数は記しておらず、「牛馬迄」を殺害したという点が、ほかの史料と異なっている。
ただしどちらも政宗の苛烈さは一致しており、その命令で城兵およびそれ以外の生き物全てが命を奪われたことになっている。
ただ、これがもし政宗と伊達軍のついた嘘であったとしたらどうだろうか。
■もし政宗が「全員撫で切りした」という嘘をついていたら?
では最後に軍記『奥羽永慶軍記』[八]を取り上げる。これは近世の秋田藩士が書いた軍記で、伊達政宗を立てる理由は何もない。
同書は多くの歴史事件を記していて、明らかな事実誤認の記述も見られるが、軍記の研究者たちからは「奥羽における戦国時代を考える上でも、もう一度、史料的にも検討し直してみる必要がある」とされており、全てを荒唐無稽と切り捨てることのできない貴重な文献のひとつである(『戦国軍記事典』[群雄割拠篇])。
もちろん近世の戦国軍記ならば、もし政宗が小手森城で虐殺を命令した事実があれば、これをベースに誇張を交えて面白おかしく描いたはずである。
あるいは、軍記の一般様式として、「通説はこうだが、歴史の事実はこうだ」という書き方をしたことだろう。
ところがこの軍記には、政宗が虐殺したという話を一切記さない。どうやら、世間一般にそのような認識がなかった可能性がある。
伊達軍による小手森城の制圧と城中の人々と動物の絶命は揺るぎない事実だが、政宗の虐殺命令はあまり拡散していなかったのではないか。
ここに書かれている内容を見てみよう。
石川勘解由が交渉を申し出て、決裂するまでの流れは同じである。
ところが、小手森落城のくだりでほかの文献と異なる内容が現れる。
■小手森城の武将が城中の者に「自害せよ」と命じたか
伊達軍と戦うべく、城から打って出た小野(おの)半兵衛(はんべえ)が、深傷を負って城中に引き上げたところから転写転載しよう。
この記録によれば、城中の者たちは、伊達政宗の命令ではなく、城将の小野半兵衛の命令で、自発的に死んでいったとされている。
軍記は人々の覚悟の固さを褒めているが、不本意な死を迎えた者もいたに違いない。
半兵衛が大声で、伊達軍に略奪させず、武功を与えるなと命ずる描写から、この記主は読者にそうした印象が残ることを想定したと思われる。
なお、物資や人材の略奪は、戦国史料によく見られるが、ここで半兵衛が危惧したのは兵士の私的な略奪よりも、軍隊の公的な接収行為だろう。
特に馬や牛は持ち運びに困るから、兵士ひとりひとりが私的に奪ったら、次の軍事行動に差し障りが生じる。これらは総大将が組織的に管理して、組織的に配分させると考えてよい。
ここから小手森城事件の秘話が見えて来る。
■伊達軍が得るものをゼロにしようという焦土作戦だったのでは
おそらくこの軍記にあるとおり、小手森城の人々は自発的に死を選んでいった。
敵軍の略奪を防ぐため、自発的に物資を破壊し、建築物を放火して、家畜を殺害した。
伊達軍が得るものをゼロにしてやろうとしたのだ。いわゆる「焦土戦術」である(攻撃側の破壊行動を「焦土戦術」と記すものがあるが、正しくは防衛側が破壊すること)。
伊達軍将士が静かになった小手森城の本丸に乗り込むと、自害した侍と、差し違えた男女の死骸がたくさん転がっていただろう。伊達軍が討ち捕った500人と、すでに亡くなっていた1000人で、合計1500人が死んでいて、死人に口なしの状態だったとも考えられる。
政宗は大内定綱に逃げられたばかりか、無血開城の交渉にも失敗し、さらには貯蓄物資(牛馬や兵糧など)の接収を果たせなかった。
おまけに、人質として取引の材料になりそうな捕虜の確保すらできていない。報告を受けた政宗は、「もし敵が自ら進んで自害したという風聞が広まったら、大内方の抵抗はこれからより激しくなる」と見て、この事実をなかったことにしたのだろう。
■わざわざ「皆殺しにしてやった」と手紙に書いたワケ
こうして政宗は叔父の最上義光に、この惨事は彼らが積極的に行ったものではなく、伊達軍がやったこととして伝えたのではなかろうか。
牛馬もみんな死んでしまったが、さすがに「牛馬まで撫で切りにした」というと嘘くさいので、「犬までも撫で斬りにした」と誇大表現することで、過剰な殺意を演出して、これ以上事実に触れないでもらいたいと婉曲に伝えたわけである。
家臣には「この破壊と殺戮は、我々の失敗でない。政宗の激情で決行した結果である。伊達軍は大戦果を挙げた。わたしはこれに満足している」という態度を通した。
戦国時代の史料では、相手に自害されてしまった武将が書状で「定めて満足となす」などと、個人的な満足感を記して軍事行動の落着を図る例がある。
これらは彼らが作戦目的を予定通りに果たせなかったことへの言い訳の側面がある。
死者の数が、第一報が合計1500人以上(侍と奉公人)、第二報が200人以上(侍だけ)、第三報が800人以上(侍と奉公人)へと大きく変化していったのも、政宗の心理から考えてみるとこのようなものだったのではないか。
最初、敵兵とその奉公人たちが1人残らず死んでいたことに驚いた政宗は、思わぬ結果に動揺した。本来は交渉で彼らを捕虜にするつもりであった。死体の数も実際より多く見えて、義光には過大に表現してしまった。
■家臣領民を惨殺されたはずの大内定綱は、政宗に仕え重臣に
翌日に落ち着きを取り戻した政宗は、侍のみの死亡数を200人ぐらいと精確な数が見えて、これを後藤信康に伝えた。そして翌月には侍と奉公人合わせて800人以下であることが見えてきて、僧侶の虎哉にこの数字を伝えることにした。
小手森城の落城悲話は、政宗のダークな一面を伝える挿話として有名だが、実際にはそうではなく、政宗自らが流した虚報である可能性が高いだろう。
この3年後、大内定綱は伊達家に帰参。政宗から徐々に重用され、子孫は一族格の扱いを受けることになった。
これも虐殺事件が事実ではないことを示しているのではなかろうか。
政宗は見栄っ張りで、他人に弱いところを見せようとしなかった。
最晩年のころ──。
仙台藩の江戸藩邸で重病に苦しむ政宗を見舞おうと、ひっきりなしに来客が訪れた。政宗は、周りが止めるのも聞かないで、来客相手に上下で正装して対応したという。
■徳川将軍に下り、70歳で没するまで見栄を通した政宗
隠密で見舞いにきた将軍・徳川家光は、その死期を察して、政宗の後継者・伊達忠宗に「政宗に万が一のことがあっても、そなたを粗略には扱わない」と約束した。
その最期は妻子を招かず、看護にあたる老いた侍女たちに向かって次のように語っていた。
「昔は戦場を死に場所と駆け巡っていたが、こんな形で死を迎えることになろうとは予想しなかった」
そしていよいよとなった時、「もはやいかん」と言い、天竺のある西に向かって手を合わせ、倒れた。
忠宗と侍医が駆けつけたが、政宗は彼らを睥睨(へいげい)する(睨んで威圧する)ように見て一喝するなり、そのまま息を引き取った。
屋敷ではホトトギスが鳴き続けていた(佐藤憲一『伊達政宗の手紙』)。
寛永13年(1636年)享年70。
最期まで見栄を通した男であった。
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歴史家
香川県高松市出身。著書に『戦国武将と男色』(洋泉社)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。新刊に『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)がある。がある。書籍監修や講演でも活動中。 公式サイト「天下静謐」
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(歴史家 乃至 政彦)
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