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「6~15歳不登校→通信制高校→難関国立の藝大合格」センター試験をノー勉強で臨んだ私の"ドタバタ受験記"

プレジデントオンライン / 2024年10月13日 16時15分

2023年12月、初開催した自身の“個展(コンサート)”でピアノ演奏する内田さん - 提供=内田拓海

作曲家の内田拓海さんは小中学校には行かず、高校から通信制に通い始めた。2浪して難関の東京藝術大学に合格し、26歳になった現在は藝大大学院に在学している。大学受験を振り返ると、「まったく勉強せずにセンター試験の国語と英語を受けたのだが、これが失敗の始まりだった」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、内田拓海『不登校クエスト』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。

■義務教育を受けていないのにノー勉強で臨む

音楽の力は順調に着実についていったのですが、1次試験であるセンター試験対策をまったくしませんでした。「ホント?」と思われてしまうかもしれませんが、本当に1度も、参考書も過去問も開きませんでした。

センター試験自体は、国語と英語の2教科で受験できるのですが、2教科とも“完全ノー勉強”で試験に臨んでしまいました。

国語も英語も小・中学校で一度も勉強したことがないのに、です。

ご存じの方もいると思いますが、藝大では多くの学科において、センター試験の必要得点は決して高くありません。年度にもよりますが、5〜6割取れればボーダーラインという程度。それはやはり、実技や知識などの専門の能力のほうが圧倒的に重視されているからです。

あくまでも英語や国語は“一般的な高校生の常識程度のことがわかっていればOK”というスタンスなのです。

■「試験のために勉強」がどうしても嫌だった

私自身、先にも書いたように本も好きでしたから国語――言葉や文章はむしろ好きですし、英語も英会話教室にしばらく通っていたくらいなので、決して英語そのものが嫌いなわけではありません。

では何が嫌だったのか? 試験のために単語帳を暗記したり、構文や熟語を覚えたりする行為がどうしても好きになれなかったのです。わかってもらえないかもしれませんが、“言語を学ぶ”というところからかけ離れた、何か強引な行為のような気がしてしまったんです。

そう書くと少し格好いいですが、つまりは受験のために英文法を覚えたりすることが面白いと思えなかったのです。勉強するならば、シャドーイングなど自分なりに“やりたい”勉強法があったのですが、受験勉強ですからとにかく期日までに詰め込まなければいけない。それがどうしても嫌でした。

そして、このことが受験の結果に大きく影響してくることになります。

■2次試験は日に日に受験者が減っていく

高校3年の2月、いよいよ藝大入試がやって来ました。2年間、自分なりに考えて努力して、積み重ねてきた成果を出す時です。いや、必ず出し切って人生を逆転させなければいけないのです。

センター試験は点数を取れていない、ということは自分でもわかっていましたが、根拠のない“現役の自信”がありました。本気で「多分、受かるだろう」と思っていたのです。

「実技がすごく良かったら、正直センターは点数を取れなくても受かるんじゃないかな……」

藝大作曲科の入試では、ほかの国公立大学のように1次のセンター試験の“足切り”はありませんでした。志願者全員が進める2次試験は、ピアノ、ソルフェージュ、作曲などの実技や音楽的知識を問われる試験を1日目から4日目まで行い、50人ほどいた受験生が1日ごとに10人くらいずつ落とされていく、という流れになっています。

審査が進んでいくごとに人が減っていく雰囲気は、オーディションや就活に似ているかもしれません。4日目の最終試験まで残れると、教授陣との面接もあります。

■最終試験でふるい落とされた原因は英語

特徴的なのは、事前の“足切り”がない代わりに、この最終試験後に“足切り”があること。センター試験の点数が基準に達していないと、2次試験の結果が合格ラインを超えていたとしても、4日間を終えた後の最後の合格発表で落とされてしまうことがあるのです。あとひとつ関門を越えれば合格が手に入るところまで来ていて、目の前で落とされる。それだけでも辛いのに、それが音楽の力ならまだしも英語や国語でとなったら――。この不合格は、かなりメンタルにきます。

初めての入試、私も2次の最終試験までふるい落とされずに残ることができました。でも合格発表の日、合格者の受験番号が貼り出される掲示板には、私の番号はありませんでした。大ブレーキになったのは、あろうことかセンター試験の英語でした。

自分の入試の各課題や科目の採点結果は、後日、大学事務局に開示請求をすると確認することができます。どの科目や課題が足を引っ張ってしまったのか、自分が受験者中何位だったのか、すべて教えてくれるのです。

悔しいし辛い作業ですが、これを確認しておくことで「自分は何が足りなかったか」「どこがダメだったか」を正確に把握することができるので、来年の入試に向けてやらない手はありません。

■ピアノやソルフェージュ、作曲は合格ライン

1度目の入試に落ちた私は、早速、開示請求して採点を確認しました。

2次試験4日間の音楽の実技や知識の試験、苦労したピアノやソルフェージュ、絶望から始まった作曲の得点は、総合的に見ると合格ラインを超えていました。とは言っても、15人定員で志願者数50人前後の中で、合格15人の中のギリギリボーダーラインくらい。それでも合格に限りなく近い成績だったことがわかりました。

2次試験全体で、唯一、マイナスの成績だったのはピアノの初見演奏。試験当日、初めて見る楽譜を試験官の前で弾くという試験。初見で弾くことも大変ですが、この曲自体、仮に練習を積んでいたとしても弾くのが難しいような曲が出ることもあります。

ですから、わりと多くの人がつまずく試験なので、かなりボロボロの演奏でも通る人はいる。ただし、“まったく弾けない”と落とされてしまいます。

1度目の試験は、教授5人が見ているという状況もあって緊張して手が震えてしまうほどでした。全然弾けず、止まっているのか弾いているのかわからないくらいの惨状でした。

「あのぉ……初見のね、練習ってこれまでにしたことありますか?」

教授の1人からそう言われてしまうほどの出来でしたから、これはかなり足を引っ張ってしまったはずです。

ピアノを弾く男性の手の接写
写真=iStock.com/Iryna Sukhenko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Iryna Sukhenko

■「現役合格」という夢は実現しなかった

ただ、やはり一番大きかったのはセンター試験で間違いありません。

国語は十分ボーダーを超えていたのですが、英語がボーダーの半分にも足りていませんでした。200点満点中50点くらいだったでしょうか。これではさすがに問答無用で不合格です。

結果的に、勉強をしてこなかった英語に、最後の最後に刺されてしまい、自信家の私もさすがにショックでした。最終まで残れていたわけですから、「やっぱり現役で受かるんじゃないかな?」と。期待するなというほうが無理です。

藝大がある上野から1時間半かけて自宅に帰ると、食事もそこそこに、そのまま布団にくるまりました。

「……補欠合格とかで繰り上げにならないかな」

そんな淡い希望を抱きましたが、藝大は、ほぼすべての受験生にとって第1志望。

合格した人が入学を辞退するケースは、海外の超一流音大に受かったなど、ごくごく稀なケースを除いて基本的にはゼロです。現実は甘くありませんでした。

■2度目の入試は確かな手応えがあったのに…

ただいつまでも落ち込んでもいられません。そもそも、藝大に行こうと決めた当初は「何回かノックすれば届くだろう」と考えていたわけですから、浪人は想定内です。

まず、1度目の試験を自分なりに総括して振り返ってみました。

「……全体的にどれもギリギリで、がむしゃらだったな」
「ただ、そのなんだかわからないがむしゃらさがあったから、なんとか本当に最後の最後でボーダーラインに辿り着いた、という感じだろうな」

つまり、まだまだ余裕を持って試験に臨めるほどの力は備わっていない、ということです。

一方で大きな収穫もありました。そんな中でも最終試験まで残れた、合格者に近い位置にいた、という結果に手応えを感じました。

「2年間、勉強してきたことは間違っていなかったし、正しい方向にちゃんと向かっているんだ……!」

実際、浪人期に入ると音楽の勉強を現役時よりさらにしっかりと積み上げることができました。勉強をしていても、余裕を持って問題に取り組めるようになってきたのです。実際の2度目となった入試でも、それは表れていて、前年、緊張から失敗してしまった初見演奏も上手くこなせて、「これは受かったな」という手応えがあったのです。

ところが、2度目の受験、またしても不合格でした。

■足を引っ張ったのは、またしても英語

原因は信じられないことに、またしても英語――1度目に続き2度目のセンター試験も50点しか取れないという、同じ過ちを繰り返してしまったのです。

「英語」という単語のパズルピース
写真=iStock.com/bagi1998
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bagi1998

試験勉強は、試験前、気休め程度に一瞬だけシャドーイングをやったのみでした。

不合格だとわかった後、気力を振り絞って、開示請求をして試験結果の確認をしてみると、恐ろしい事実が判明したのです。

ピアノもソルフェージュも作曲も、私の得点アベレージは全受験者中、2位、3位といったところでした。正直、余裕で合格できるレベルだったわけです。本当に英語があまりにもできなさ過ぎて、落ちてしまいました。

やはり、英単語や構文、文法を覚えたり問題を解いたりということが、どうしても自分のやりたい勉強ではなかったのです。しかし、受からなければただの言い訳。後の祭りです。

■国内最長レベルの試験にもう一度挑めるか

さすがにこの時は、自分の行動を後悔しました。自分でも手応えがあって「受かった」と確信していただけに、上野の藝大キャンパスの合格発表掲示板に受験番号が無かった時のショックは、1度目とは比べ物になりませんでした。相当なツラさでした。

普段の勉強も、もちろん大変なのですが、作曲科の2次試験がとにかく、ほかに類を見ないキツさなのです。それを最低でももう一度、乗り越えないといけないというのは、考えただけでも苦痛でした。

4日間という長丁場もそうですし、試験ひとつひとつも長くて険しい。2次試験の1日目“和声”は6時間、2日目の“対位法”は5時間、そして一番苦しい3日目の“自由作曲”はなんと8時間。日本の大学入試の中では最長の試験時間かもしれません。

逆に声楽科は、一番大事な歌唱の実技試験が数分間で終わります。これはこれでその数分、たったワンフレーズですべてが決まってしまう逆の怖さはありますが、とにかく作曲科は体力と気力、そして強ストレス下の消耗戦になります。3度目に挑む気持ちにはなかなかなれません。

■心が折れ、不登校時代の生活に逆戻り

あまりの私の落胆ぶりに、レッスンしてくれた先生や両親も、どう声をかけていいかわからないくらいだったようです。私自身、現役時代から3年間付き合ってくれた先生方に顔向けができないという気持ちでした。

私は本当に傷ついて、心がバッキバキに折れてしまいました。まったく何も、やる気が起きなくなってしまったのです。

「疲れてしまったので、しばらくレッスンを休止させてください」

作曲の先生にそう宣言して、本当に、完全に、勉強もレッスンもやめてしまいました。

3月から半年間、ボケーッと部屋でゴロゴロしながら、ネットサーフィンをしたりゲームをしてみたり。電車に乗って近くの海を眺めに行ったり、ただただ意味もなく往復4時間かけて地元から2つ先の駅まで歩いてみたり……。まるで不登校だった頃に戻ったような生活でした。

■別の進路を検討するも、やっぱり音楽が好きだった

「高校の時は成績も良かったから、改めて成績証明書を貰ってAO入試とかでほかの大学を考えてみてもいいかな……」
「もう藝大は諦めようか……」

高校に入る前は、「東大に行って、弁護士か医師にでもなろうか」なんて考えていた時期もあったので、一度ここで引き返して、音楽ではない道へ進むのもいいんじゃないか――。本気でそう考えて、一度は、留学経験もある知り合いの先生に進路相談に行ったりもしたのです。それでも、どうにもしっくりこない。

そんな“2度目の不登校生活”を送っているうちに、ふとした時に自然と、自分が音楽を聴いていることに気がついたのです。

「……もう1回、チャレンジしてみようかな」
「今度こそ本当にやり切って、もしもダメでも、これを最後の挑戦にしよう」

自分にとって一番悔いのない選択をしようと決めた時、季節はもう夏を過ぎようとしていました。

藝大受験を再び決意した一方で、“三度目の正直”のために英語を勉強することにしました。2年連続で同じ失敗を重ねてしまったので、とうとう観念したのです。週に1回、大手進学塾に通ってセンター試験のための英語の勉強をしました。ただ、それでも4カ月間ほど。どうしても自分的に納得できないこの勉強に耐えられる限界ギリギリが、4カ月だったのです。

音楽
写真=iStock.com/Just_Super
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Just_Super

■3度目の2次試験は「簡単過ぎる」くらい完璧

翌年1月の3度目のセンター試験。試験後の自己採点では、ボーダーラインと言われている5割を少し超えるくらいの点数。

「良かった、これで受かったな」

2次試験は、まったく問題ありませんでした。問題ないどころか、「簡単過ぎる」と感じるくらい完璧な手応えでした。問題用紙が配られて「始め」の合図で用紙をめくると、見た瞬間に「あ、このパターンね」と出題の意図がわかってしまうのです。

藝大に限らず、入試のような試験では、傾向と対策の勉強を極限まで突き詰めていくと、自然とそんなふうにフォーマットが見えてくるものだと思います。最終試験の面接も、3回目ともなれば慣れたものです。

「去年も受けました? 最終まで来ましたか?」
「はい。去年もここまで来ました!」

教授陣と、そんなやり取りができるくらいでしたから、試験4日間を終えると、「さすがに今度は受かったよね」と思いましたが、合格発表を見に行く当日になると、やはり嫌な記憶がよみがえってきます。

「万が一、これで落ちちゃったら……」

恐る恐る掲示板で、自分の受験番号を探しました。

■「受かっちゃったみたいなんですけど…」

「……あっ。あった」

3年もかけて、ようやく自分の番号を見つけることができて、少し信じられないような、夢でも見ているような気持ちで何度も何度も確認しました。

合格すると、事務局の窓口で入学手続きのための書類や資料一式が入った“藝大名物”ピンクの紙袋がもらえるのですが、それを受け取る時に、「本当に受かってますか?」と確認してしまったくらい。すぐには信じられません。

少し自分自身の気持ちを落ち着けるためにも「誰かに報告しよう」。とりあえず作曲の先生に電話をしました。

「あの……なんか、ちょっと受かっちゃったみたいなんですけど……」
「受かったの⁉ 落ちたの⁉ どっち‼」
「あ、すみません、受かりました」

■ようやく社会に居場所ができたような気持ち

両親にも電話をかけました。「受かったよ」と報告すると、

「良かったね……おめでとう!」

母は電話口で泣いているようでした。家族にとっても、毎年毎年、その重圧は大きかったはずです。お世話になった先生方にも、ひと通り報告の電話を終えると、急にほっとしました。嬉しさももちろんあったのですが、それよりも安心したほうが大きかった。

「もうこのツラい勉強と試験をやらなくていいんだな……」

内田拓海『不登校クエスト』(飛鳥新社)
内田拓海『不登校クエスト』(飛鳥新社)

それくらい心身ともに厳しい2年間でした。浪人というのは孤独で、自分との戦いです。それにその間はずっと立場――居場所がないような感覚でした。属するものもなく、自分が何者でもないような不安感、周囲からも「お前、何やってんの?」という目で見られている気まずい感覚がずっとありました。

9年間、不登校でひとりぼっちだったことがウソのようですが。先が見えない中で、ささいなことで家族とぶつかったり、ツラくてひとり涙をこぼしたこともありました。抑圧された怒りのような感情もあったと思います。

合格したことによって、ようやく社会に居場所ができたような気がしました。

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内田 拓海(うちだ たくみ)
作曲家・アーティスト
1997年生まれ。神奈川県藤沢市出身。東京藝術大学大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻在学中。6歳の時、「自分は学校へは行かない!」と宣言し、小・中学校の9年間をホームスクーラーとして過ごす。通信制県立高校に進学後、一念発起。音楽経験がほぼゼロの状態からピアノと作曲の勉強を始め、2浪の末、東京藝術大学音楽学部作曲科へ進学。自身が不登校で過ごした経験から、鑑賞者にとっての“居場所”となれるアートの探求、創作活動を行っている。受賞歴に、令和5年度奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第3位、東京藝大アートフェス2023 東京藝術大学長賞(グランプリ)などほか多数。

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(作曲家・アーティスト 内田 拓海)

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