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なぜ石破茂首相の発言は「ブレブレ」なのか…19世紀の古典が説く「決断力が高いリーダー」のたった一つの特徴

プレジデントオンライン / 2024年10月13日 7時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Olga Donchuk

信頼されるリーダーとは、どんな人のことをいうのか。19世紀の哲学者ジョン・スチュアート・ミルが遺した『自由論』にはその特徴が書かれている。現代風に解釈した『すらすら読める新訳 自由論』(サンマーク出版)より、一部を紹介する――。

■「時代」も個人と同じぐらい間違いを犯す

世間(日常的に接している人たち、たとえば同じ党派、宗教、協会、社会階級、国全体あるいは同時代に生きるひとすべてととらえる人もいるかもしれない)への無条件の信頼は、ひとたび形成されるとたちまち揺るぎないものになる。

時代、国、宗派、教会、社会階級、党派が異なれば、自分と正反対の意見をもつ人もいると頭ではわかっているのに、自分にとっての世間を信じこんでしまう。別の世間に対しては、自分たちのほうが正しいと主張しながらも、その責任はすべて自分の世間に負わせる。

だが、その人がいまの世間を信頼するようになったのは偶然にすぎない。ロンドンに生まれてイギリス国教会の信者になった人は、「もし北京に生まれていたら仏教か儒教を信じていただろう」と真剣に考えたりはしないのだ。

さらに、「時代」も個人と同じぐらい間違いを犯すものだ。歴史を振り返ると、どんな時代にも間違った意見、もっと言えば「ばかげた」意見がいくつもあったことがわかる。つまり、いま正しいとされている意見の多くが、将来的に否定されてもおかしくないということだ。

ここまでの話に対し、次のように反論する人もいるかもしれない。

政府は世間のあらゆることについて決定を下し、その責任を引き受ける。「間違った意見の拡散を禁じる」という決定も、そのうちのひとつにすぎない。そして政府は、なんらかの決定を下すときに、「自分たちがぜったいに正しい」などとは考えていない。

■「間違っているかもしれないから何もしない」は臆病だ

そもそも、人が判断力を与えられたのは、それを使うためだ。「間違った判断をするかもしれないから」という理由で判断力を使うことを禁じてもいいのだろうか。ある事柄を「有害」だと判断して禁止することは、「自分はぜったいに間違いを犯さない」と主張することではない。自分が間違っている可能性もあると理解したうえで、みずからの良心にもとづき、確信をもって義務を果たしているだけだ。

「私は間違っているかもしれない。だから何もしないほうがいい」と考えるのは、自分たちの利害を無視し、義務を放棄するのと同じだ。どんなケースでも適用できる反対論は、個々の具体的なケースの前ではなんの役にも立たない。

政府と個人は、自分にとって最も正しい意見を細心の注意を払って組み立てなければならない。また、組み立てた意見が正しいと確信できないときは、けっして他者に強制してはならない。だが逆に言えば、自分の意見が正しいと確信できているとしたら(意見を表明する人は確信しているに違いないが)それにもとづいて行動しないことは美徳ではない。ただ臆病なだけだ。

■100%確実だと言いきれることはこの世にはないが…

たしかに、人類はかつて、いまでは真実として認められている意見を迫害したかもしれない。しかし、その歴史を反省するあまり、現代の人々(あるいは将来の人々)にとって明らかに危険な思想を野放しにしては本末転倒だ。

同じ過ちを繰り返さないことが大切なのは認めよう。しかし政府と国民は、権力を行使すべき分野でも過ちを犯してきた。不当な課税や不当な戦争が何度もあったのは事実だが、だからといって、税金を課すのをやめるべきだとか、どんな挑発を受けても戦争をすべきではないという話にはならないはずだ。国民と政府は、いまこの瞬間、自分にできる最も正しいことをしなければならないのだ。

100パーセント確実だと言いきれることはこの世にはない。だが、人間が生活していくうえで「この程度の確実性があればじゅうぶん」と言える基準は存在する。私たちは、自分の意見が行動の指針として正しいかどうかを考えることができる。いや、考えなければならない。

悪意のある人々が、間違いだと思える思想、有害だと思える思想を広め、社会を堕落させるのを防ごうとするとき、私たちはその「基準」を満たしている。

■「反対する自由」を認めなければならない

このような反論に対し、私はこう答えたい。その考え方が「基準」というものを満たすことはありえない、と。

ある意見を「正しい」と言うとき、その理由はふたつ考えられる。ひとつは、その意見が一度たりとも論破されていない場合。もうひとつは、論破の機会をなくすために、その意見が正しいことが「前提」になっている場合だ、このふたつには、きわめて大きな違いがある。

自分たちの意見が行動の指針として正しいかどうかを判断するには、考え方の異なる人たちの「反対する自由」を認めなければならない。反対意見が出てこない状況では、自分の意見が正しいと思っていても、合理的な確信はぜったいに得られないからだ。

歴史を振り返ってみよう。人類はこれまで、どんな意見をもってきただろうか。また人類はいま、どんな生活を送っているだろうか。危険すぎる思想が主流になったことはないし、いまの人々の生活が堕落しているようには見えないはずだ。

だがそれは、人間がすぐれた知性を備えているからではない。というのも、むずかしい問題が生じたとき、それについて判断を下す能力をもつ人は、せいぜい100人に1人しかいないからだ。そして、その1人も「ほかの99人と比べれば能力がある」程度のものでしかない。

■「間違いを自分で正せる」ことは人間の美徳である

実際、どの時代においても、偉人とされた人々の多くが過ちを犯している。いまでは間違いだとわかっている意見を支持したり、現代人にとっては明らかに不当な行動をとったりと、具体例を挙げるときりがない。ではなぜ、人類全体として見ると、合理的な人のほうが多いのだろう?

人類がこれまで無事に存続してきたという事実をふまえると、合理的な意見、合理的な行動が多数派を占めてきたことは疑いようがない。それはひとえに、人間の精神の性質のおかげだ。人には、自分の間違いを自分で正せるという特性がある。知的かつ道徳的な存在である人間にとって、その特性こそがあらゆる美徳の源泉なのだ。

間違いを正すには「経験」と「議論」が必要になる。経験を積むだけでなく、議論を通じて「経験をどう解釈すればいいか」を知らなければ意味がない。経験した事実と、議論で得た知見によって、間違った考えと行動は少しずつ改められていくからだ。

覚えておいてほしいのは、「事実と知見の両方を明確に示さなければ人の心は動かせない」ということだ。事実とは、それだけを見て意味がわかるものではない。なんらかの解説があって初めて理解できるものだ。

人間の判断力は、「自分の間違いを正せる」という点においてのみ価値がある。つまり、人間の判断をあてにしていいのは、間違いを正すための手段がつねに手元にある場合だけということだ。

ビジネス会議で話している人々
写真=iStock.com/John Wildgoose
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/John Wildgoose

■自分の意見や行動への批判につねに耳を傾ける

では、本当に信頼できる判断を下す人は、ふつうの人と何が違うのだろう?

そういう人は、自分の意見や行動に向けられる批判に対して心を開いている。反対意見や批判に真摯に耳を傾け、正しいと思える部分があれば可能なかぎり吸収する。間違っている部分があれば、どこが間違っているのかを考え、必要があれば他者に説明する。

また、彼らは何かを「理解」するとはどういうことかを知っている。あるテーマについてじゅうぶんに理解する方法は、それに関連するさまざまな意見に触れ、さまざまな観点から研究する以外にないとわかっている。賢者と言われる人はみな、この方法によってすぐれた知恵を獲得してきた。人間の知性の性質を考えても、ほかの方法で賢くなることはまず不可能だ。

だから、他者の意見に耳を傾け、自分の意見の間違いを正し、足りない要素を補うことを習慣にしよう。「他人の意見を聞いたら、迷いやためらいが生まれて、自分の意見を行動に移せなくなるのではないか」と思う人もいるかもしれないが、実際は逆だ。この習慣こそが、自分の意見に自信をもつための基盤を形づくる。

■だから反対意見を聞いてもブレることがない

この習慣を身につけた人は、自分に向けられる反対意見をひととおり知っていて、どの意見に対しても自分なりの主張で対抗できる。反論や障害を自分から積極的に求めたおかげで、そのテーマに関するあらゆる見解に通じている。

以上の理由から、「世間一般の人々(あるいは集団)の判断よりも自分の判断のほうが信頼できる」と考える権利があるというわけだ。

人類のなかで最も賢明な人々、すなわち最も信頼できる判断を下す人々は、いま挙げた習慣を大切にしている。そのことをふまえると、少数の賢者と多数の愚者からなる「大衆」も同じ習慣を身につけるのが望ましい。

教会のなかでもとくに不寛容とされるローマ・カトリック教会でさえ、列聖[信者がその死後に聖人の地位を与えられること]の審議の際は「悪魔の代弁者」を招き入れ、その意見に耳を傾ける。悪魔が浴びせると思われる非難の言葉がすべて並べられ、徹底的に検討されるまでは、どれほどすばらしい聖者だろうと死後の名誉は認めてもらえないようだ。

選挙運動
写真=iStock.com/microgen
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/microgen

■「確実」さを求めるのなら、この習慣以外に方法はない

もし、「ニュートンの自然哲学を疑ってはならない」という決まりがあったらどうなるだろう。彼の理論は、いまのように心から信頼できるものではなくなるに違いない。

誰もが正しいと確信している考えでさえ、100パーセント正しいと言いきれるような根拠があるわけではない。だから私たちは、「この考えが間違っていると証明してみなさい」と世界に向かって呼びかけるしかないのだ。

呼びかけに応じる人が現れなくても、あるいは名乗り出た人が証明に失敗しても、「よし、この考えは確実に正しい」とは言えないだろう。それでも、現在の人類なりにベストを尽くし、真理を手にするための機会を最大限に活用していることは確かだ。

もしかしたら、私たちが気づいていないだけで、新たな真理がどこかにあるのかもしれない。しかし、反対意見を大切にするよう心がければ、人類がさらなる高みに進歩したときにその存在に気づけるはずだ。それに、真理に到達するまでのあいだも、自分たちが着実に真理に近づいていることを実感できるのだ。

間違いを犯しやすい人間にとって、これ以上に「確実」と言えるものはない。同時に、「確実」という言葉を使いたいなら、こうする以外に方法はない。

■極論を「トンデモ論」と簡単に片づけてはいけない

不可解なことに、言論の自由を認めるべきだという主張に同意する一方で、この自由を「極端なケースにも適用する」のはやめたほうがいいと考える人は多い。極端なケースに適用できないようなものなら、そもそもどんな場合にも適用できないのに、そのことをわかっていないのだ。

ジョン・スチュアート・ミル『すらすら読める新訳 自由論』(サンマーク出版)
ジョン・スチュアート・ミル『すらすら読める新訳 自由論』(サンマーク出版)

そういう人は、疑う余地のある点に関しては言論の自由を認めるが、確実だとわかっている点、つまり特定の原理や教義には疑問を抱いてはならないと考える。ここでいう「確実」とは、「その人たちが確実だと信じていること」にすぎないのだが、彼らは別に、自分は間違いを犯さないと思っているわけではない。これもじつに奇妙なことだ。

世の中には、ある意見を否定したいと思っているのに、それが許されない人もいるだろう。そういう人の存在を無視して、その意見を「確実」だと言いきってしまうのは問題だ。なぜならそれは、自分と自身の賛同者だけが「確実性」を判断する立場にあり、反対派の意見など聞かなくてもいいと考えるのと同じだからだ。

(哲学者 ジョン・スチュアート・ミル)

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