石田三成と戦っていないのに関ヶ原合戦後に大出世…徳川家康が厚い信頼を置いた「戦国最大の悪人」
プレジデントオンライン / 2024年10月9日 17時45分
■「信長の野望」では義理の数値が「2」しかない
戦国最大の悪人――。敵の殺戮が日常であった戦国時代に「最大」の悪人で呼ばれるくらいだから、よほどひどい所業を重ねてきたのだ。そう思われてきた武将が最上義光だった。
出羽国(山形県と秋田県)の大名で、出羽山形藩の初代藩主となった義光について、昭和43年(1968)から57年(1982)にかけて刊行された『山形市史』には、たとえば「義光は武勇のみならず、調略にも長じ」「ここに義光は、残忍とも言える態度で、一族等の根絶やしにかかった」などと書かれている。
多くの地方で地元の武将は顕彰されるなか、当該地方で公的に編纂された通史に、このように悪しざまに記されるのも珍しい。その結果、昭和52年(1977)に山形城址に義光像を建てる計画が発表されたときは、猛烈な反対運動が起きたそうだ。
NHK大河ドラマの影響もあなどれない。昭和62年(1987年)に放送された「独眼竜政宗」では、原田芳雄が演じた義光は、渡辺謙が演じた主役、伊達政宗の伯父ではあるが敵役だった。なまじ原田の演技が真に迫っていたので、裏切りや離反ばかりの人物として視聴者に強く印象づけられた。
その影響の一例だろうか。一世を風靡したゲーム『信長の野望』には、君主に対する「義理」という数値があって、値が高いほど寝返りしにくく、低いほど寝返りやすいのだが、義光は下から2番目に低い「ギリニ(義理2)」とされてしまった。
では、史実の義光は、どの程度の「悪人」だったのだろうか。
■「父を敵にし、弟を殺した」は本当か
『角川新版日本史辞典』には「山形城を本拠とし、対立する一族・国人を滅ぼして戦国大名に成長」と記述されているが、要は、それが具体的にどういう成長ぶりだったのか、である。
最上家は代々、室町幕府から出羽国を統括する羽州探題を任されていたが、次第に衰退して、伊達家に従属するようになった。だが、天文11年(1542)から続いた伊達家の内乱(天文の乱)に乗じて独立を回復し、周囲の国人らと同盟を結んで勢力を伸ばした。そのころ最上家10代、義守の長男として生まれたのが最上義光だった。
元服前から巨漢で並はずれた力持ちで、16歳のとき蔵王温泉で、200キロ近い石を持ち上げたという伝説も残されている。
そのあたりまではいいのだが、家督を継いだ元亀2年(1571)の少し前から、父の義守との争いが生じている。原因は諸説あるが、実父と争ったという事実は、義光を「悪人」と評価する端緒になった。このときは病身にあった重臣の氏家定直の必死の説得で、和解にたどり着いている。
この父子の確執については、父の義守が次男の中野義時を後継にしようとしたためだという説がある。その延長で、最上家の分裂をねらう伊達政宗の父の輝宗が義時につくなどして混乱した末、義光は義時を攻めて自害させた、ともいわれる。
父を敵にしたばかりか弟を殺したのか――。そんな話だが、具体的な史料に欠け、現在では義時という弟が存在したかどうかもふくめ、信憑性がかなり疑われている。
■見舞いに来た息子の義父を斬殺
では、義光はいかに「調略に長じ」ていたのだろうか。すでに家督を継ぐ前に、妹の義姫が伊達輝宗のもとへ嫁ぎ、伊達家との関係は修復に向かっていた。しかし、国人連合(最上八楯)の中心にいた天童氏のほか、上山氏といった領主たちは義光に従ってはいなかったので、そのために戦いを繰り広げた。
たとえば、天正8年(1580)に上山城(山形県上山市)に上山満兼を攻めた際は、上山家の重臣だった里見義近や民部に、内応すれば上山家の所領をあたえると誘って、民部に満兼を殺させて上山城を手にしている。
同11年(1583)、尾浦城(山形県鶴岡市)に大宝寺義氏を攻めた際も、大宝寺家の家臣だった東禅寺義長を調略し、義氏を攻めさせ、自刃させている。
同12年(1584)、谷地城(山形県河北町)の白鳥長久に対したときは、さらに手が込んでいた。まず義光の嫡男である義康の正室として、長久の娘を迎えて縁戚関係を結び、長久を油断させた。そのうえで、自分自身が重病を患ったと噂を流し、長久を山形城に見舞いに来させた。その長久を義光は、おもむろに病床から起き上がって、みずから殺害したというのである。
■「独眼竜政宗」で描かれたシーンの真贋
たしかに、「悪人」という呼び名がしっくりくるような調略の数々だといえる。だが、考えてみると、いずれも敵味方ともに被害がもっとも小さい方法で攻略している、と言い換えることもできる。まともに攻めていたら多大な人的被害が出るところを、敵の大将が殺されるだけで済んでいるのである。
最上義光研究の第一人者である片桐繁雄氏は、次のように述べている。「戦国時代に生まれ生きた義光は、当然戦いはしなければならなかった。しかし、その戦いぶりには、明らかな特徴が見て取れる。一つは、人命の損害をできるだけ少なくしようという努力である。もう一つは、降伏した敵の将兵をすべて許し、家臣団に編入したことである」(最上義光歴史館「最上義光のこと♯4」)
また、義光の「残虐非道」のイメージが決定的になった白鳥長久の謀殺も、最近、新事実が唱えられている。長久から「自分が出羽の主だ」と身分を偽った書状を受けとった織田信長が激怒し、義光に「即刻滅ぼせ」と指示したのだという。
義光は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、24万石の領土を安堵されている。その少し前に、伊達輝宗に嫁いで政宗を産んだ妹の義姫を利用して、政宗の弟を殺害し、政宗自身の毒殺をも図ったという説がある。これもまた義光が「悪人」と呼ばれる所以の一つで、「独眼竜政宗」でも強調されたエピソードである。
だが、これもいまでは否定されている。伊達政宗研究で知られる佐藤憲一氏の見解は、「政宗毒殺未遂事件と弟小次郎殺害は、小田原参陣という伊達家存亡の重大局面を前に、伊達家の一本化(兄弟争いの根を断ち切る)を図り、小田原で政宗に万が一のことがあっても伊達家が存続できるように、政宗と母が共謀した偽装(狂言)ではないか」というものだ。弟の小次郎も「生きていた可能性が高い」という(「歴史館だより№30」より「続・伊達政宗毒殺未遂事件の真相」)
■秀吉を決定的に憎悪した「駒姫」事件
さて、先述のように、義光は秀吉の軍門に下った。その際、直前に父の義守が没したために遅参したが、懇意にしていた徳川家康の執り成しもあって、事なきを得ている。天正20年(1592)の朝鮮出兵に際しては、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に出陣するなど、秀吉に忠実に仕えることになった。
ところが、しばらくして義光は秀吉をひどく恨むようになる。端緒は天正19年(1591)、秀吉が天下統一の総仕上げとして行った奥州仕置(東北地方の平定)に反発して起きた、九戸政実の乱だった。秀吉の甥で総大将として奥州に入った豊臣秀次が、義光の娘の駒姫を気に入って、差し出すように執拗に迫ったのだ。
断っても秀次は引かない。独裁者たる秀吉の後継者の要求を、義光は断ることができず、一定の年齢に秀次に渡す約束をして、文禄4年(1595)に実行された。ところが、その矢先に秀次事件が起きたのである。関白秀次は軟禁された挙句、切腹。その正室や側室、侍女、乳母、それに幼い子供ら39人が斬首された。
駒姫はまだ京都に着いたばかりで、まだ秀次の側室でさえなかったようだが、家康の執り成しで助命嘆願しても受け入れられなかった(助命を受け入れたが、指示が間に合わなかったともいう)。15歳だったと伝わる。駒姫の生母はその2週間後に死去。後を追った可能性がある。義光自身、しばらく食事も喉を通らなかったという。
ところが、大変な被害者であるはずの義光は、秀次との関係を疑われ、しばらく謹慎処分を受ける。これで義光の秀吉への憎悪は決定的になったようだ。
■家康に評価された「北の関ヶ原」での功績
文禄5年(1596)閏7月、慶長伏見地震が発生すると、義光は秀吉ではなく家康の護衛に駆けつけ、その後も同様の行動を繰り返した。慶長5年(1600)、家康が上杉景勝を討つべく会津討伐に出陣すると、奥羽地方の大名たちを先導するように家康に味方している。
その後、石田三成らが挙兵して家康らが西上すると、義光らは奥羽に残って上杉勢を牽制する役目を負った。そして、上杉群を会津地方(福島県西部)まで押し戻し、この戦功で出羽国を中心とした57万石の大大名にのし上がった。
上杉を牽制した戦いでの功績は、関ヶ原の戦いでの奮闘よりもずっと価値があるという見方がある。そもそも「天下分け目の戦い」は上杉征伐からはじまり、家康軍は会津に向かっていた。ところが、三成らが挙兵したので西に急ぐ必要が生じたが、もし東から上杉が西上したら、家康たちはきわめて危険な状況にさらされる。
実際、上杉景勝は直江兼続を大将に3万の兵を率いさせた。一方、最上軍は1万程度だったが、このころには同じ東軍として友好関係にあった伊達の援軍も得て、上杉軍をまったく前進させなかったのである。
「悪人」評の根源になった「調略」の数々を記したが、種々の策を用いて、最小限の被害で敵を負かしてきたのは、最上義光が戦巧者だったからだ。また、たんに残忍なだけであったら、家臣たちも、従属させられた国人たちも、義光についてこなかっただろう。実際、義光には人徳があり、家臣の人望が厚かったと伝わる。
状況に応じて、被害を最小限にとどめる策を講じる。生きるか死ぬかの戦国の世だから、時に「悪人」と評される策も必要だっただろう。それもふくめての戦巧者で、家康への誠実さも隠さなかったから、家康に信頼されたのである。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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