中国の教科書には絶対に載せられない…習近平がひた隠しにする「偉大な中国史」の"不都合すぎる真実"
プレジデントオンライン / 2024年10月25日 16時15分
※本稿は、安田峰俊『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■西遊記の舞台にもなった唐の時代
日本人にとっても、唐は馴染み深い王朝だ。平城京や平安京の都市設計と律令制度、正倉院の宝物と鑑真(がんじん)の唐招提寺、遣唐使の派遣と阿倍仲麻呂の定住、最澄・空海の仏教留学と李白や杜甫(とほ)の漢詩――。唐が日本に与えた影響は大きい。
『西遊記』の舞台となった時代でもあり、中国史のなかでも、唐代は三国時代と並んでヴィジュアル的にイメージしやすい。王朝が存在した期間も長い。
前代の隋が二代皇帝の煬帝(ようだい)の晩年から内乱で混乱するなか、挙兵した外戚(がいせき)(皇室の姻族)の李淵(りえん)(太祖)が六一八年に建国。やがて息子の太宗李世民が王朝の基礎を作り上げ、唐の勢力は次代の高宗にかけて拡大を続けた。その後、高宗の死後に皇后の則天武后(そくてんぶこう)がみずから帝位について周(武周)を建国し、いったん唐は滅びるも、則天武后の崩御後に再度復活。高宗の孫の玄宗の時代に国力を盛り返した。
ただ、玄宗はやがて統治に飽きて楊貴妃を寵愛する。755年にその隙をついた軍人の安禄山の反乱を招き、唐はここで大きな曲がり角を迎えた。ただ、徐々に勢力を弱めながらも王朝そのものはまだまだ続き、滅亡は907年のことである。
唐は王朝中期までは軍事的に強勢で、ユーラシア大陸規模の巨大版図を実現しつつ、シルクロードの文化を花開かせた。さらに唐代は漢詩(唐詩)の名作を数多く生んだ中国文学史上の黄金時代でもあった。ゆえに現代の中国人も、自国の最も輝かしい歴史を代表する王朝として唐を挙げる人が多い。
なかでも、中国史上最高の名君とまで称される李世民の人気はすこぶる高い。
■「名君・李世民」のイメージは盛られている
彼の治世である「貞観(じょうがん)の治」は、善政が敷かれた時期として有名だ。言行録とされる『貞観政要』も、いまもなお日本を含む各国で帝王学の書として盛んに読まれている。
ただし、こうした李世民の姿は、後世に作られた虚像も多い。彼の「名君」設定は、多分に自己演出の賜物だったともみられている。李世民が軍事的な天才だったことは確かである。唐の建国当初、竇建徳(とうけんとく)や王世充(おうせいじゅう)らの強力な群雄を討滅し、父の李淵に天下を取らせたのはひとえに彼の功績だ。
とはいえ、李世民は本来、李淵の後継者ではなかった。彼が帝位を引き継いだのは、626年に兄と弟を殺害するクーデターを起こし(玄武門の変)、優柔不断な父を半ば押し込めて譲位させた結果である。
皇太子の兄を弑(しい)して皇帝の父を排除する行為は、儒教の長幼の序に反する。そのため李世民はかえって、政権を握ってからの自分をことさら「名君」として印象づけたとみられている。
過剰なプロパガンダを通じた「名君」の演出は、その後の中国でも清の乾隆帝や蔣介石、毛沢東などが踏襲し、近年は習近平が盛んにおこなっている。ただし、李世民のために弁護すれば、玄武門の変はその勃発時点では、そこまで問題のある行動とはいえなかった。
■皇帝の廃位やクーデターは日常茶飯事
当時の中国は、2世紀の後漢末期の群雄割拠の時代以来、三国時代・五胡十六国時代・南北朝時代と分裂状態が400年以上も続き、皇帝の廃立やクーデターは日常茶飯事だったのだ。とりわけ、華北ではモンゴル高原や西域からの異民族の侵入が活発で、王朝が短期間で交代し続けた。一時代前の隋にしても、中国の天下統一には成功したものの、性質としては従来と同じ弱点を持つ短命王朝だった。
唐代の初期である7世紀初頭は、分裂時代の荒々しい気風がまだ濃厚に残っていた時期だ。李世民のクーデターも、同時代の人が見れば「彼のポジションならばやって当然」という認識だったはずである。むしろ、彼の政権奪取後に中国が久しぶりに秩序を取り戻し、モラルをまともに論じられる落ち着いた社会が生まれたことで、父と兄に弓を引いて帝位につく行為が「悪」になったと考えていい。
中国人にとっての「理想の王朝」である唐には、もう一つ別の顔がある。実は彼らは、必ずしも漢民族の王朝とはいえない存在だったのだ。
後年、18世紀末に清の趙翼(ちょうよく)という学者が著した歴史評論書『二十二史箚記(さっき)』のなかに「周隋唐皆出自武川」という有名な王朝評がある。これは、唐とその前の北周・隋王朝の皇族たちは、いずれも武川鎮(ぶせんちん)と呼ばれる辺境の一地方にルーツを持っているという指摘だ。
■隋唐帝国のルーツは“異民族”だった
武川鎮は現在でいう内モンゴル自治区フフホト市の郊外で、かつて南北朝時代に北朝の北魏の辺境防衛を担う駐留軍が置かれた土地である。
北魏は、北方民族の鮮卑(せんぴ)の拓跋(たくばつ)氏の国家で、華北を統一した強国だった。ただ、493年に第6代の孝文帝が中国内地の洛陽に遷都をおこない、遊牧民的な王朝を中華王朝に変える漢化政策を推進したことで、北族的な習慣を残す保守派から反発された。やがて孝文帝の崩御後、辺境にいた軍人たちが六鎮(りくちん)の乱と呼ばれる反乱を起こし、北魏は混乱の末に東西に分裂した。この六鎮の一つが武川鎮である。
北魏の崩壊後、分裂の片割れである西魏(せいぎ)の支配階級として台頭したのが、武川鎮にルーツを持つ氏族だった。次代の北周の皇族である宇文(うぶん)氏や、さらに普六茹(ふりくじょ)氏、大野(だいや)氏といった、明らかに漢民族とは異なる姓を持つ人たちである。この普六茹氏と大野氏がそれぞれ、やがて隋と唐の皇族になる楊氏と李氏の前身だ。
彼らは鮮卑などの「北族」そのものか、仮に漢民族だったとしても長年の通婚や生活習慣の変化のなかで北族化した人々だったとみられている。これが隋唐帝国のルーツなのだ。
■儒教的な倫理観とは異なる家族観もみられる
後年、唐の李世民が遊牧世界から「天可汗」として推戴されたのも、唐の皇族が北族的な要素を持っていたことが関係していたのだろう。
当時の西域の諸民族は隋や唐を「タブガチ」(=拓跋)と呼んでおり、鮮卑系の王朝として認識していたようだ。なお、唐の中期までの皇帝は李世民の兄殺しをはじめ、高宗が父の後宮の女性(則天武后)を自分の皇后にしたり、玄宗が息子の妃だった楊貴妃を近づけたりと、漢民族の儒教的な家族倫理とは乖離(かいり)した行動が多い。これらについても、唐室の北族系のルーツと関係があるのかもしれない。
唐は中国史を代表する王朝だが、あまり漢民族的ではない王朝だった。より正確には、後漢末期から華北に侵入し続けた北族が、長い時間のなかで漢民族と文化的にも血統的にも混ざり合い、その果てに生まれた新王朝が隋や唐だった。隋唐帝国をこのような存在として描く学説は「拓跋国家論」と呼ばれ、日本や欧米の学界では広く受け入れられている。
■中国共産党が無視する“不都合な真実”
もっとも、いくら学術的に妥当な見解だとしても、現代の中国人にとってこうした話は決して耳に心地よくない。
中華人民共和国は本来、「各民族の大団結」を唱える多民族国家としてスタートした。だが、時代が下るにつれて漢民族中心主義的な傾向が強まり、習近平政権の成立以降、その方向性は「中華民族の偉大なる復興」のスローガンのもとでいっそう濃厚になった。
現代中国でいう「中華民族」は、実質的には漢民族とほぼイコールだ。少数民族は漢民族と文化的に同化することで、その仲間として認められる。近年の新疆ウイグル自治区における過酷な少数民族弾圧と文化侵略や、モンゴル族や朝鮮族に対して進められている中国語教育の強化も、少数民族を中華民族化(=漢化)する過程で起きている現象である。
一連の政策の根底に存在するのは、漢民族が他の民族を同化することはあっても、逆にそれらから影響を受けることはほとんどないという潜在意識だ。これは公的な言説としては出てこないものの、現実のありかたを見る限りは存在するといわざるを得ない。
しかし、中国史を代表する偉大な王朝である唐は、北族の世界から産声を上げ、中央アジアに対する優越的な地位も北族系のルーツゆえに生まれた。中国史上で「最高の名君」である李世民も、まさに拓跋国家の君主としての性質を体現したような人物だった――。そんな見解は、現代中国の政治的なコンテクストからすれば、あまり都合がよくない。
■歴史認識と少数民族問題が直結している
そのためか2021年8月には、中央民族大学歴史文化学院教授の鐘焓(ヂョンハン)という人物が、学術雑誌『史学月刊』で、唐の拓跋国家論に徹底して反対する論文を発表している。
従来、日本を中心におこなわれてきた唐の研究が「内陸アジア史」の視点に偏重しすぎていると批判し、漢民族を中心とした民族統合を強調する内容だ。この文章は学術論文にもかかわらず、中国国内の一般向けのウェブニュースサイトでも盛んに転載されているため、人民に閲読を推奨するべき「政治的に正しい」言説とみなされているようだ。
過去の鐘焓の原稿をさらに調べてみると、中国の主権を強調して「国家分裂」に反発してみせるようなイデオロギー色の強い論考も目立つ。日本の研究者の間では当たり前のように語られる拓跋国家論は、中国では中華民族の伝統を揺るがしかねない危険な言説なのだ。
かつての唐が存在した時期は、おおむね日本における大化の改新から奈良時代、さらに平安時代の初期に相当する。日本の場合、これらの時代の話題は、せいぜい奈良や京都に来る観光客に向けたアピール材料に使われる程度の、遠い昔の歴史にすぎない。だが、中国においては、少数民族問題という最もセンシティブな政治的意味を持ち得るため、極めて生々しい。
中国における唐代は、そんな時代なのである。
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紀実作家(ルポライター)、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員
1982年生まれ、滋賀県出身。広島大学大学院文学研究科博士前期課程修了。著書『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』が第5回城山三郎賞と第50回大宅壮一ノンフィクション賞をそれぞれ受賞。他の著作に『現代中国の秘密結社』(中公新書ラクレ)、『八九六四 完全版』、『恐竜大陸 中国』(ともに角川新書)、『みんなのユニバーサル文章術』(星海社新書)、『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)など。
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(紀実作家(ルポライター)、立命館大学人文科学研究所客員協力研究員 安田 峰俊)
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