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「今考えてもむちゃくちゃだったと思う」30代医師が"原発から22キロの病院"の臨時院長に手を挙げた理由

プレジデントオンライン / 2024年10月19日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sorapop

外科医で作家の中山祐次郎さんは、2017年の2月~3月に福島第一原発から22kmに位置する高野病院で院長を務めた。院長に手を挙げた背景には、友人の死があった。中山さんは当時を振り返り「本当にやりたいことを、心の底からやるべきだと思うことをやりたい、とその時に思った」という。当時のエピソードと「息子への手紙」を紹介しよう――。

※本稿は、中山祐次郎『医者の父が息子に綴る 人生の扉をひらく鍵』(あさま社)の一部を再編集したものです。

■「その成績じゃ医学部は絶対無理だぞ」と忠告してくれた友の死

僕は、東京の病院で研修医として研鑽を積み、そのまま外科医として働いた。その病院は公立病院だったから常勤ポストに限りがあり、僕は非常勤勤務の待遇で働いていた。給料は年収500万円に届かず、毎年国際学会のため自費でヨーロッパに行き、高い東京の物価で好き放題飲み食いをしたから、貯金は34歳まで本当にゼロだった。

それでも、世界トップレベルの外科医たちに直に教わるという最高の環境だった。指導は厳しかったが、手術場を離れると上司たちとは家族のように親しくした。あまりに居心地が良かったから、僕は「このままではダメだ」と思っていた。

快適さは、成長しないことを意味する。ハーバード大学か東京大学の大学院を検討していた。

ある年の大晦日、一人暮らしをしていた築45年のボロマンションに僕はいた。

汚い畳に横たわりテレビを見ていると、NHKのニュースで、「福島第一原発に近い個人病院・高野病院の院長が火事で亡くなった」と流れた。年の瀬に大変なことがあるもんだ、と思った。

年が明けて1月4日、高校時代の友人から連絡が来た。

「Dが昨日死んだ」

Dは僕と同じ中学・高校で、サッカー部、バンド仲間、クラスメイトだった。高校3年生の時、「中山、その成績じゃ医学部は絶対無理だぞ」と忠告してくれたものだ。白血病にかかり半年の闘病で亡くなったらしい。

■「僕が高野病院に行く」2カ月の臨時院長に

5日後、愛知県でお通夜に参列した。若い奥さんが泣いていて、その胸で幼な子がわけもわからず笑っていた。Dの死に顔は、治療のせいかパンパンに膨らんでいた。

帰りの新幹線で、僕は同期の友人たちと泣きながらめちゃくちゃにビールを飲んだ。その翌日のこと。医者の友人から連絡が来た。

「高野病院が存続の危機だ」

聞くと、院長亡きあとボランティア医師たちが一日交代で入院患者100余名を診ているという。地域には帰還した住民が3000人、原発作業員が3000人住んでおり、潰すわけにはいかないのだと。しかし、病院は法律で常勤医師が一名いなければ存続できない。

僕は頭が沸騰した。

僕が高野病院に行く。Dの顔がちらついた。

「俺はもう死んだけど、なあ中山、お前はどう生きるんだ」

そう言われた気がした。

その夜高野病院に連絡をし、3日後には福島に行った。亡くなった院長の娘の理事長に「ぜひ来てくれ」と言われた。当時同棲していた恋人に行こうと思うと告げると、心配だと泣かれ心が揺れた。

翌日仕事から帰ると、

「行ってきて。私はあなたを誇りに思う」

と泣きはらした目で言ってくれた。引っ越しも間に合わず、2週間後にトランク一つで福島入りした。

2カ月の臨時院長は、想像を超えて苦しい生活だった。幸い次の院長が見つかり、僕は福島県内の別の病院へと異動した。その時の恋人は今の妻である。

<君への手紙>

■「他流試合をせよ」という教え

立派になるかならないか、高い技術を持つか持たないかは自分しだい、とよく言われる。だがそんなことはない。いかに厳しい環境に身を置くか。いかにアウェーな場所で奮闘するか。これが成長の鍵になる。

京都大学時代の師である福原俊一先生は「他流試合をせよ」といつも言っていた。なるほど、いつも自分の居心地の良いところにいると、成長はないよ、という意味だろう。自分で操縦することはない大型豪華客船を降り、僕は小さい舟に乗りかえたのだ。求められる技術が異なる以上に、それは厳しい覚悟を求められる場所だった。

人生は一度しかない。

仏教に輪廻転生という考え方があり、人や生き物は何度でも生まれ変わるという。しかし僕は信じないことにしている。理由は、前世を覚えている人はおらず、前世で得た経験を活かす人を見たことがないからだ。

であれば、たとえ前世があったとしてもないのと同じだ。来世もまた同じことだ。来世に期待せず、今回の人生が一回限りで、ここで何かをやるしかない。それが人間だと思っている。

しかも、残念なことに、その人生の持ち時間は知らされていない。15年なのか40年なのか100年なのか、誰も知らないのだ。人生は、終わる時間がわからないという強烈な設定なのである。そんな試験もゲームもスポーツも見たことがない。けれど、そんなことは普段考えることはない。もちろん、それでいい。

開けた道路と砂時計
写真=iStock.com/Ackun
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ackun

■人生の持ち時間はわからない

僕は、友人Dの死によって、自分の人生の締め切りを思い知らされた。Dは僕より前に終わってしまったのだ。僕だっていつ終わるかわからないのである。だとしたら、いつ終わるかわからない今、何をするのか。

そういう精神状態の中、僕は福島の高野病院院長に手を挙げた。正直なところ、院長をやるための知識も技術もなく、おまけに若造だった。今考えてもむちゃくちゃだったと思う。

もし冷静に検討していたら、行ってもつらくてすぐ逃げ出すかもしれない、現地の人たちの迷惑になるかもしれない、恋人や親が寂しがるかもしれない、などと言って福島には行かなかっただろう。

でも、この人生はいつ終わるかわからないのだ。

■厳しい自問自答をして、本当の自分の気持ちを見つけてほしい

中山祐次郎『医者の父が息子に綴る 人生の扉をひらく鍵』(あさま社)
中山祐次郎『医者の父が息子に綴る 人生の扉をひらく鍵』(あさま社)

だから、本当にやりたいことを、心の底からやるべきだと思うことをやりたい、とその時に思った。Dに恥ずかしくない生き方をしたい。死んだDにもし無念や思い残しがあるのなら、それを晴らすような生き様を見せたい。一度は自分のキャリアと生活を優先したばっかりに被災地に行かなかった自分の卑怯さを、今こそ挽回したい。

人情の溢れる人間でいたい。普段は全然できないけれど、損得勘定をなくして、ただただ悲しむ人の隣に座っていたい。その気持ちで、僕は福島に単身乗り込んだ。

君はどう生きるか。

一度だけの、しかもいつ終わりが来るかわからないこの人生というものを、どう生きるのか。厳しい自問自答をして、本当の自分の気持ちを見つけてほしい。そして、多少の躊躇を振り払い、周囲の反対を押しきって、自分の人生を選び取ってほしいと心から願っている。

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中山 祐次郎(なかやま・ゆうじろう)
外科医・作家
1980年神奈川県生まれ。鹿児島大学医学部医学科卒業後、がん・感染症センター都立駒込病院外科初期・後期研修を修了、同院大腸外科医師として勤務。福島県高野病院院長、福島県の総合南東北病院外科医長を経て、神奈川県茅ヶ崎市の湘南東部総合病院外科に勤務。2023年、福島県立医科大学で医学博士。2021年、京都大学大学院医学研究科で公衆衛生学修士。小説『泣くな研修医』(幻冬舎)はシリーズ57万部を超えるベストセラーに。著書に『医者の本音』(SBクリエイティブ)、『俺たちは神じゃない 麻布中央病院外科』(新潮文庫)、『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと』(幻冬舎)、『医者の父が息子に綴る 人生の扉をひらく鍵』(あさま社)など。手術教科書『ラパS』『ダヴィンチ導入完全マニュアル』(共にメジカルビュー社)、若手医師向け教科書や看護学生向け教科書『ズボラな学生の看護実習本 ずぼかん』(照林社)など。二児の父。

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(外科医・作家 中山 祐次郎)

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