本来なら天皇になれるはずだったのに…生まれてから死ぬまで藤原道長に振り回された敦康親王の悲しき生涯
プレジデントオンライン / 2024年10月13日 15時15分
■定子の子ではなく、自らの孫を東宮にと言った道長
藤原道長(柄本佑)は長男の頼通(渡邊圭祐)を呼びつけ、「これより、俺とおまえがなさねばならぬことはなんだ?」と問いかけた。道長の回答はこうだった。「われらがなすことは、敦成様を次の東宮に成し奉ること。そして、一刻も早くご即位いただくことだ」。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第38回「まぶしき闇」(10月6日放送)の一場面である。
道長はこう続けた。「本来、お支えする者がしっかりしておれば、帝はどのような方でも構わぬ。されど、帝のお心をいたずらに揺さぶるような輩が出てくると、朝廷は混乱を来たす。いかなるときも、我々を信頼してくださる帝であってほしい。それは敦成様だ」。
最後に道長は、「家の繁栄のため、ではないぞ。なすべきは、揺るぎなき力をもって民のために良き政を行うことだ。お前もこれからは、そのことを胸に刻んで動け」と、頼通にきっぱりと伝えた。
第37回「波紋」でも、道長はまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)に、敦成親王が次の東宮だとうっかり本音を伝えてしまっていた。まだ一条天皇(塩野瑛久)も中宮彰子(見上愛)も、次の東宮は第一皇子である敦康親王(渡邉櫂)だと信じて疑わないなか、道長のねらいは、頼通への指示で視聴者にはっきり伝わった。
そうとなると、育ての親である彰子と戯れる敦康が、不憫に見えてきた視聴者も多いのではないだろうか。
■「まったく無用の存在」になった敦康親王
実際、寛弘5年(1008)9月11日に、道長の長女である彰子が敦成親王を出産して以降は、亡き皇后定子(高畑充希)が産んだ第一皇子の敦康は、道長にとって「まったく無用の存在、むしろ邪魔な存在となった」(倉本一宏『藤原道長と紫式部』講談社現代新書)。
道長の長兄、道隆(井浦新)の長女である定子が敦康を産んだのは長保元年(999)11月7日。ちょうど彰子が数え12歳で入内し、女御とする宣旨(天皇の命)がくだったその日のことだった。
ところが、定子は1年後の長保2年(1000)12月15日、第二皇女を出産した際、後産が下りずに命を落としてしまった。そのころ、定子の兄である伊周(三浦翔平)ら敦康の外戚は、事件を起こして流罪になった後、以前の地位には戻っておらず、敦康には事実上、後見がいなかった。
むろん、道長は彰子に皇子を産ませたいが、いかんせん若すぎて、まだ可能性がない。そこで道長がみずから敦康を後見することとし、ある時期から彰子に育てさせた。
敦康が彰子のもとにいれば、一条天皇は敦康に会いに彰子の後宮を訪れ、彰子が皇子を産む可能性が増す。加えて、彰子が敦康の養母、自分が養祖父になっておけば、結果的に彰子が皇子を産まず敦康が即位することになっても、権力を敦康の外戚に渡さず、自分たちが維持できる。そんなねらいもあったと考えられている。
■そんなきれいごとではない
だが、もう敦成が産まれている。道長にとって、権力基盤を強固にし、自身の家を繁栄させるためには、敦成を東宮にするしかない。
脚本を書いた大石静氏は、6月に朝日新聞紙上で、道長について時代考証を担当する倉本一宏氏から、「人事は意外とリベラルだった」と聞いたので、「人間的に優れた存在として描いた」と語っていた。「年を重ねて多少は強引になりますし、敵に回せば怖い存在かもしれませんが、闇落ちはしません」と断言していた。
このためドラマの道長は、敦成を推す理由について頼通に、あくまでも「帝のお心をいたずらに揺さぶるような輩が出てくると、朝廷は混乱を来たす」からであって、「家の繁栄のため、ではないぞ」と念を押していた。だが、むろん、そんなきれいごとではない。伊周のように公卿たちに信頼されていない外戚が後見すると朝廷が混乱を来たす、というのは、あながちウソとも言い切れないが。
いずれにせよ、敦成が産まれてからは、道長は敦康のことをほとんど顧みなくなった。寛弘6年(1009)11月25日、彰子が第三皇子の敦良親王を出産してからは、なおさらであった。翌寛弘7年(1010)7月17日、敦康は道長が加冠(成人の装束をまとわせること)を担当して元服したが、すでに道長の心は敦康にはなかった。
■NHK大河では描かれない道長の病
ところで、この時代には両統迭立という慣習が続けられていた。村上天皇(62代)の皇子であった2人の天皇、冷泉天皇(63代)の系統と円融天皇(64代)の系統が、交互に即位することになっていて、冷泉の子である花山(65代)の次は、円融の子の一条(66代)が即位した。
これにしたがえば、一条天皇の皇子は敦康であろうと敦成であろうと、即位が冷泉系の天皇の次になる。具体的には、このとき花山天皇の弟の居貞親王(のちの三条天皇)が東宮だったので、敦康か敦成かという選択は、居貞が即位する際にだれを東宮にするか、という問題だった。
そのことも道長が敦成を東宮にするのを急いだ理由と考えられる。すでに40代半ばの道長は、「光る君へ」では描写されないが、じつは病気がちで、ある年齢からは飲水病(現代の糖尿病)の持病もあった。仮に敦康親王が東宮になれば、その次は冷泉系の順番だから、敦成に出番があっても次の次、すなわち一条天皇の4代先になる。
自分が幼い天皇の外祖父になり、摂政として君臨するためには、とてもではないが、そこまで待てない。敦康を排除できたとしても、次に即位するのは東宮の居貞親王で、敦成の即位はその次になる。ドラマで道長が頼通に語ったように「一刻も早くご即位いただく」ためには、一条天皇にも、その次の天皇にも、早く退位してもらうしかない。
■第一皇子が東宮にならないのは例外中の例外
実際、道長は寛弘8年(1011)5月26日、一条天皇の体調不良を機に譲位を発議。6月2日に即位を要請された居貞親王は、6月13日に即位し、道長の思惑どおりに敦成が東宮になった。
だが、一条天皇は敦康親王の即位を望んでいた。事実、平安時代になってから、皇后および中宮が産んだ第一皇子で東宮にならなかった例は一つもなかった(その後も、4歳で早世した白河天皇の皇子の1例があるのみ)。しかも、『栄華物語』によれば敦康は、漢籍に通じるなどすぐれた教養人だった両親から知性を受け継ぎ、才気煥発だったという。
だから、一条天皇は譲位を決意してからも、敦康を東宮にできないかと訴えたが、「光る君へ」で渡辺大知が演じる藤原行成は、「道長の意を損ねたら、敦康親王も不幸になる」と言って、外戚の力を優先すべきことを説いた。
一条天皇以上に納得しなかったのは、中宮彰子だった。敦康親王の親代わりになってすでに8年が経過しており、敦成と敦良の両親王の母でありながら、敦康を東宮にすべきだと主張した。『栄花物語』によれば、父の道長に、敦康を東宮にしてほしいと何度も申し入れたという。それが却下されたことが、その後の親子の確執にもつながっている。
彰子は、敦成が東宮にならなくていいと思ったわけではない。一条天皇の在位は25年におよんだが、当時の天皇の在位は数年であることが多く、敦康が先に天皇になっても、敦成もまた即位する可能性は十分にあった。だが、道長にそれを待つ余裕はなかった。
■文化人として活躍する時間もなかった
結局、敦康親王には、一条天皇のせめてもの願いもあって、皇位を継承させないかわりに手厚い経済的援助を施すことが決められた。その後は政争から離れて、作文会や歌合、法華八講などをもよおし、風雅の道に生きた。一条天皇と定子の知性を受け継いでいたから、命さえ長らえれば、文化人としてなんらかの業績を残すことができたかもしれない。
長和2年(1013)末には、村上天皇の第七皇子、具平親王の次女と結婚。一女をもうけたが、それから5年後の寛仁2年(1018)12月17日、なんらかの病気をにわかに発症。出家したのちに没した。享年はわずかに数え20歳。その2年余り前には、異母弟の敦成親王が即位していた(後一条天皇)。
伊周に、道長に、藤原氏の政争に振り回され続けた短い一生だった。
ちなみに、一人娘の嫄子女王は、藤原頼通の養女となったうえで、彰子が産んだ一条天皇の第三皇子、敦良親王が即位後(後朱雀天皇)、その中宮となった。せめて、皇子を出産して皇統につながっていれば、と思ってしまうが、皇子は生まれないまま、第二皇女の出産後に24歳で産褥(さんじょく)死してしまった。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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