日本陸軍が魔改造した「さくら弾機」をご存じだろうか…90歳の “大型特攻機” 元隊員が洩らした本音
プレジデントオンライン / 2024年10月16日 17時15分
■ラッパで起きて、ラッパで寝る生活
私が、和歌山県・日高町に花道柳太郎を訪ねたのは平成27(2015)年6月のことだ。花道は当時90歳で、妻のトシ江(当時84歳)と共に応対してくれた。
花道は、7人兄弟の長男。内原尋常高等小学校を卒業すると、昭和15(1940)年3月25日、岐阜県・各務原の陸軍航空廠技能者養成所(陸軍機の修理や部品の補給に当たる組織)に入所、軍隊生活が始まった。ここで、昼間は学科を、午後は訓練と実習を行い、昭和18年3月2日に卒業。「この3年間はラッパで起きて、ラッパで寝る生活だった」という。
昭和18年4月1日、各務原の陸軍航空隊の補給科に勤務、整備を担当した。陸軍はこの頃、新たに陸軍特別幹部候補生(通称・特幹)制度を制定しており、花道は受験に合格。翌19年4月、一期生として滋賀県の第八航空教育隊に入隊した。
「普通、兵隊で入ると星1つから始まるが、特幹は星2つから始まる。それに半年経つと1階級ずつ上がっていく。軍曹までいくと、士官を受ける資格を貰えた」
昭和19年暮れ、栃木県・宇都宮陸軍飛行学校で、航法を学んだ後、昭和20年2月、航法士として、茨城県の西筑波飛行場(現・つくば市)で陸軍飛行第62戦隊に配属される。62戦隊は、連合軍施設や艦艇を破壊するため、大量の弾薬を投下できる重爆撃機の戦隊で、中国戦線や東南アジアで作戦を展開していたが、西筑波飛行場に集結し特攻訓練を行っていた。
「戦隊はびっくりするほど家族的だった。若い兵隊も、特別扱いしないんですよ。普通の家族のように扱ってくれるんです。いじめは全然なかった」
■死と隣り合わせの訓練
花道は短期養成の猛訓練を受けた。
「離着陸だけでなく、海上をすれすれに飛んだり、様々な訓練を受けた。三角形に回ったり、四角形に回ったりして飛行場に戻ってくる訓練をした。ただ、海の上に行くと、よう戻って来んのですよ。(操縦の)誤差がものすごく多かった。誤差を少なくする訓練をした」
「海面すれすれに飛んで敵艦に近づき、爆弾を投下して船体に命中させる跳飛弾攻撃の訓練を集中的にやった。大分湾で3,000メートル上空から急降下し、敵艦に見立てた練習空母の手前でコンクリートの模擬弾を落とし、敵艦にぶつからないように上昇するのです。あるとき、2機が目の前で空中衝突して、墜落するのを見ました。それから、わしが下痢をしていたとき、わしの代わりに訓練をした見習士官が、高度を下げ過ぎて、前のプロペラで波の波頭を切り、反射的に操縦桿を引き上げたら後部が波に当たって、機体が二つに割れてしまい、亡くなった事故もあった。訓練をしていた大分湾は当時、風が強く波が高かったらしいんですが、わしが乗っていたら、わしが死んでいた」
すべてが特攻の訓練だった。
■沖縄への出撃命令
昭和20年4月12日、特攻隊として沖縄への出撃命令が出され、福岡県・大刀洗町の陸軍大刀洗飛行場に移動した。
「西筑波飛行場で出陣式があって、戦隊長が『これから大刀洗に出ていく』と訓示したんです。わしらは三番機だったんですが、戦隊長が乗っとった一番機が離陸したあと、急に機首を上げたかと思うと、ストンと落ちたんです。後ろで見とったんよ。落ちると同時に火がついて燃え上がった。その火を見ながら離陸し、大刀洗に向かった。大刀洗飛行場に着いた時、驚いたのは、滑走路が穴だらけなんですよ。艦載機の攻撃の跡だと後で分かりました。しかも、所々で時限爆弾が爆発しているんです」
と、手ぶりを交えながら、当時の様子を話した。
大刀洗飛行場では、甘木の旅館が兵舎代わりに宿泊所になった。
「旅館について間なしに、旅館の16歳の女の子がマスコット人形をくれたんです」
こう言うと、胸に手を当て、
「いつもここにぶら下げとったんですが、ときたま、駐機しとった飛行機の操縦席の所に吊るしました。いつも死と隣り合わせだったから、人形の顔を見ていると、何だか力が出るような気がしました。この可愛い女の子を護るために戦うんだと……」
と、当時を懐かしむようにほほ笑んだ。
■「えらいもん、もらったなあ、死にたくないなあ」
大刀洗飛行場でさくら弾機(編集部注:陸軍の重爆撃機を改造した4人乗りの大型特攻機)を初めて見た。その時の気持ちを次のように語った。
「とにかく格好を見てびっくりした。これでよう飛べるなあって思った。重量を軽くするために、機関砲や機関銃は全然ないし、前の部分とか、力のいらないところは、ほとんどがベニヤ板。それに3トンの爆弾を積んでいる。このころ、前方3000メートルとか、後方300メートルとか、一里四方が吹っ飛ぶとか、うわさがあった。それに目方が重たいんで、燃料も半分しかないちゅうことを聞いた。
最初、ふくれているところが何か分からなかった。中に入ったら、茶色の大きな鍋みたいなのが座っている。ボルトでとめているけど、エンジンを掛けるとガタガタ動くんですよ。何か、上からかぶさってくるような感じで、ものすごく怖かったですよ。それが爆弾だと聞いたときは、口には絶対に出さなかったけど、これで一緒に行かないかんのかと思うと、内心は、えらいもん、もらったなあ、死にたくないなあーーと、怖かった。でも、人前ではおくびにも出さなんだ。そもそも、2.9トンの大型爆弾を組み込まれているから、こんなに重くて、(機体が)浮き上がれるんかという不安もあった」
5月に入ると、さくら弾機の搭乗員に指名される。一緒に搭乗するメンバー3人も決まっていた。ところが、4人とも、さくら弾機そのものに乗っての実際の訓練は一度も経験がなかった。
「一度は乗ってみたいと思ったけど、機長も、機関係も通信係も、誰も乗ったことがなかった。離着陸の訓練で、事故でも起こすと吹っ飛んでしまうから。ぶっつけ本番だった」
■搭乗予定機が炎上、戦友が銃殺刑に…
出撃は5月25日に決まった。
「命令が出たら、従うしかないちゅうのは分かっていたから、反発することはできなんだ。命令が出た時は、あきらめというか、覚悟というか、もう行かなきゃ仕方がないという気持ちだった。でも、表には出さなんだけど、内心は死にたないという気持ちで一杯だった」
ところが、出撃2日前、人生を変える事件が起きる。5月23日、搭乗予定だったさくら弾機が炎上、消失してしまったのだ。
「出撃2日前の5月23日午前五時頃、『さくら弾機一機が燃えている』という連絡が入ったんです。憲兵隊は何者かが故意に火をつけたと決めつけ、夕方、通信係の山本辰雄伍長を連行しました。山本伍長は韓国出身の少年飛行乙14期。軍法会議で死刑を宣告され、終戦の1週間前、福岡の油山で銃殺されました。でも、さくら弾機が消失した夜は、わしらと一緒にいたから、山本伍長が火をつけていないのははっきりしていた。わしらメンバーを調べれば、彼がやっていないのははっきりしたのに、我々から何も聞かないで逮捕した。ぬれぎぬを着せられた上に銃殺されたのだから、可愛そうで仕方がない」
■出撃前日に遺書を書いた
花道は、昨日のことのように悔しそうに語った。
「ただ、搭乗予定のさくら弾機が燃えてしまったことで、正直言うと、一瞬、助かったと思った。表に出さないで、心の中にとどめていたが、次の瞬間、ト号機(編集部注:さくら弾機と同様、重爆撃機を改造した特攻機)で出撃するように命令が出た。もうあかんと思った」
出撃の日は刻々と近づいていた。
特攻出撃が決まった後も、自分が特攻隊であることを知らせまいと、両親に手紙を書いたことはなかったが、出撃前日、遺書を書いた。髪の毛と爪と給料を封筒に入れ、それを箱にしまい、「もし、わしが帰って来なかったら、送っておいてくれ」と、戦友に預けた。
「死ぬのは怖くなかったし、当たり前の事で、仕方がないちゅう頭やった。気持ちに変化はなかった。ただ、そうはいっても出撃する前の日は動揺した」
■ある機関士が打ちあけたこと
花道は話を続けた。
「一緒に出撃する機関士の桜井伍長が突然、『ほかの人には言えないけど、好きな女の子がいて、お腹の中に子供が出来た。死にたくない』と話してきたんだ。彼の涙を見て、わしも、初めて死にたないと実感した。『おお、そうか。死にたないのはお前だけじゃない。わしも死にたないけども、これは表には出せんからな』と即座に口止めしたのを覚えている」
花道はその時の気持ちをこうも振り返った。
「内心、死にたくないというのは国賊や、軍人やない――という気持ちを持っとったけど、彼の話を聞いて、わしだけじゃない、連れができた、と安心した。みんな、国のためと言い残しているけど、内心は、死にたくないちゅうのがほんまだったんじゃないかなあと思う。わし自体が間違っているかもしれないけど、行きたくなかった、死にたくなかったというのが本音。今だから言える事だが……」
出撃前夜はほとんど眠れなかった。それでも、花道は出撃する。
■悪天候に阻まれた出撃
「朝食は豪華だった。軍隊に行って、あんな御馳走は初めてだった。鯛の焼き物は大き過ぎて皿からはみ出るほど大きかった。そんな焼き物までついているから、やっぱり、本当にこれからいくんやなぁと感じた。御馳走をしてくれたけど、あまりのどを通らなかった。トラックで飛行場へ行くと、すでにエンジンがかかっていた。戦隊長が一人一人、『頑張って下さい』と言って握手して回っていたけど、『無事を祈る』ちゅうと、『帰って来い』ちゅう意味になるから、『頑張って下さい』と言ったんやね。末期の水にと一升瓶に水を満たして持って行った」
昭和20(1945)年5月25日、花道と前夜、涙を流した桜井伍長が搭乗したト号機は、2機のさくら弾機と沖縄を目指し、大刀洗飛行場を出撃した。
さくら弾機の1機は、溝田彦二少尉(当時21歳)が操縦し、山中正八見習士官(航法士、同22歳)と田中彌一伍長(機関士、同22歳)、高尾峯望伍長(通信士、同18歳)が搭乗した。もう一機は、第62戦隊の福島豊少尉(同22歳)が操縦していた。
花道の乗ったト号機は溝田少尉の操縦するさくら弾機につかず離れず、敵のレーダーから逃れるため、海上150メートルから200メートルの海面すれすれのところで敵機動部隊を探して、飛行を続けた。高度を300メートルまで上げると雲で下が見えなくなるため、高度200メートルを保たなくてはいけなかった。
■3機中2機は戻らなかった
さくら弾機は重い爆弾を積んでいるため速度が遅く、花道が搭乗するト号機はすぐに追いついてしまう。だが、同じ速度で航行するとト号機が失速してしまうため、辺りをひと回りしながら距離を保っていた。すると、突然、前を行く溝田機が目の前から遠ざかっていった。
沖縄地方は梅雨で、この日も天候が悪く、時々大粒の雨が風防をパンパン叩いた。東シナ海には低気圧があったのだが、情報は届いていなかった。垂れ込める雲の中、ついに溝田機を見失い、花道機は単独飛行になった。
「航空母艦か戦艦に突っ込め」が命令だった。
「偵察機が敵艦隊を探して来るが、指示された場所に行くと、もういない。どこへ行ったか分からない。それでも探せと命令される。無茶苦茶な話だった」
敵機動部隊を探すうちに燃料を使い果たし、大刀洗飛行場に戻れなくなり、鹿児島県の鹿屋飛行場に不時着した。
「最初、知覧飛行場に向かおうとしたが、知覧は滑走路が短いんでおりらへんから、鹿屋に向かった。鹿屋に緊急着陸すると、もう一度燃料を入れ直して出撃することになり、大刀洗まで戻った」
この日花道と共に出撃したさくら弾機の福島機と溝田機は戻らなかった。
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産経新聞社東京本社編集委員
1953年、和歌山県生まれ。現在、産経新聞社東京本社編集委員。慶應義塾大学法学部卒業後、産経新聞社入社。司法記者クラブキャップ、警視庁記者クラブキャップ、バンコク支局長、東京本社社会部次長、社会部編集委員、那覇支局長などを務める。90年、ハーバード大学国際問題研究所の訪問研究員。93年、ゼネコン汚職事件のスクープで日本新聞協会賞を受賞。特攻隊戦没者慰霊顕彰会評議員、神風特攻敷島隊五軍神愛媛県特攻戦没者奉賛会顧問。本部御殿手真武会宮本道場を主宰。主な著書に、『報道されない沖縄』『少年兵はなぜ故郷に火を放ったのか』(以上、KADOKAWA)、『「特攻」と遺族の戦後』『海の特攻「回天」』(以上、角川ソフィア文庫)、『爆買いされる日本の領土』(角川新書)、『歪んだ正義』『「電池が切れるまで」の仲間たち』(以上、角川文庫)、『電池が切れるまで』(角川つばさ文庫)、『国難の商人』(産経新聞出版)、共著に『領土消失』(角川新書)などがある。
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(産経新聞社東京本社編集委員 宮本 雅史)
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