1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 政治

小学校の生徒会長選挙はみじめな最下位…無口でシャイな男の子が「論客」で知られる総理大臣になったワケ

プレジデントオンライン / 2024年10月24日 16時15分

インタビューに答える立憲民主党の野田代表(=2024年10月13日) - 写真=共同通信社

立憲民主党代表の野田佳彦氏は2011~12年、第95代内閣総理大臣を務めた。小・中・高校生向け教室「happier kids program」を主宰する長谷部京子さんは2018年、教室に通う子どもたちと野田氏をインタビューした。その内容をまとめた『僕たちはまだ、総理大臣のことを何も知らない。』(Gakken)より、一部を紹介する――。

■出る気がなかった生徒会長選挙の厳しい結末

子どものころは千葉県の船橋市に住んでいました。今はずいぶん都市部になっていますが、私が子どものころは、田んぼや畑があって、小さいころは野生的に元気に育ったんです。

私が変わったのは小学校6年生の時です。クラスのみんなから推されて、生徒会長選挙に出たんです。

全校生徒の前で、演説をしなくてはいけなくなりました。演説なんてしたことがなかったし、たくさんの人の前で話したことすらありませんでした。

出たくもないのに、クラスのみんなから推薦されて、とまどいながら出ました。そして、私は負けました。4クラスから1人ずつ候補が出たのですが、当選した子の演説が抜群にうまかったんです。冒頭の言葉に衝撃を受けました。

「私が当選した暁(あかつき)には」って言うんですよ。「アカツキ」という聞いたこともない言葉にショックを受けて、おじけづいたんです。その子は見事な演説で1位当選しました。お父さんやお母さんが、演説の手助けをしたのかもしれません。

2位は、今で言えばアイドル風のイケメンだったんです。女の子の圧倒的な支持を受けていました。結局僕は最下位でした。

■小6の大失敗を機に、人前に出たくなくなる

ちょうど変声期、子どもの声から大人の声になる時で、喉がむずむずして気持ちが悪い時期でした。無理に声を出そうとすると、すっとんきょうな声になるんです。緊張しているし、その状況の中で第一声がそんな声だったんです。大爆笑になりました。その結果、みじめに落選し、大ショックでした。

その後、中学、高校、大学と人前で何かやろうなんてことはまったく思わなくなりました。シャイな少年でしたね。小学6年生のこの失敗を、ずっと引きずっていたんです。

選挙の前と後で劇的に変わってしまった小学校時代でした。

子どものころは、本を読むと、その本に出てくるいろいろな仕事に興味がわいていました。シャーロックホームズを読むと探偵に、ルパンを読むと怪盗に興味をもちました。

そのころは、読んだ本の影響を受けて、将来やりたい仕事はしょっちゅう変わっていましたね。

■人生を変えた「松下政経塾」の新聞広告

松下幸之助という人を知っていますか? 今の「パナソニック」という会社の前身を作った日本の有名な経営者です。

私が大学を卒業する時、その松下幸之助が、世直しをする人材を育成するために、松下政経塾という私塾を作ったんです。その第一期生を募集する新聞広告を見てふと応募したのが、人生を変えるきっかけになりました。

松下政経塾
松下政経塾(画像=星組背番号10/PD-self/Wikimedia Commons)

一期生の募集だから、当然実績はありません。パンフレットを取り寄せたら、全部イラストで、そのイラストを見たら何となく夢を感じて、ふと応募していたんです。無口でシャイな私が、合格したことで、人生が変わりました。

大学が政治学科だったので、本当は政治記者になって、ジャーナリズムの世界で生きていこうと思っていたんですが、政治家を目指してみようと思ったきっかけが、この松下政経塾という人材育成機関だったんです。

政治家を目指している人の中には、大学時代から弁論部に入る人もいます。政治家になるために、演説やスピーチを学生時代から練習するんです。私は小学生時代の大失敗があったから、まったくそんなことをしようと思いませんでした。人前で話したり、演説したりということには無縁でした。

人前で話したりはせずに政治をよくしていきたいという気持ちがあったので、新聞記者になろうと思っていました。だから、松下政経塾がなければ、政治家にはならなかったと思います。

■「お金に汚ない政治を変えたい」という思い

私が子どものころ、田中角栄さんという政治家がいました。今改めて評価もされていますが、総理大臣だった当時はスキャンダルが多く、金脈問題やロッキード事件など、多くの事件に関係していました。

その報道を見て、「政治って、なんて汚いんだろう」と思ったんです。私の住んでいる千葉県も、どちらかというと金権風土として有名なところでした。

世の中のためになにかしようとする人たちが、なんでこんな汚れたことをやっているんだろう。それを変えていきたいというのが、政治家を志した発端でした。

■消費税10%への増税を決断した理由

総理大臣としての取り組みの1つ目は、社会保障でした。

国民が一番不安に思っていることは、社会保障の分野なんです。医療、年金、介護という老後の生活に関わるところ、それから子育ても社会保障です。子育ての不安と老後の不安。国民はこれを一番心配しています。不安があるから財布のひもをかたく締めて、消費をしないので経済が元気にならないのです。

不安をなくすためには、社会保障の基盤をしっかり作り上げることが大事です。

でも、社会保障は国の予算で一番お金がかかる。だからきちんとその財源を確保することが必要だと考えました。

そこで、消費税でその財源を確保していこうと、社会保障と税の一体改革をやろうと思いました。負担が増えることはみんな嫌がりますが、誰かが負担しないといろいろなサービスができないわけですから、これは逃げないでやっていこうというのが、総理大臣としての一番大事なテーマでした。

「次の選挙の結果」よりも「次の世代のこと」を考えると、この問題は今やらなければならない、という思いで取り組みました。

■尖閣諸島、震災復興という難題に挑んだ

2つ目は領土をめぐる問題です。日本にとって大切な問題です。尖閣諸島という島があります。日本では、2012年までは、その島を個人が所有していたんです。しかし、個人では、もし他国が来た時に対応できないケースがあるので、国がきちんとその土地を確保しようと考え、国有化しました。

3つ目は、私が総理大臣になったのは東日本大震災の半年後だったこともあり、東日本大震災の復旧復興に力を入れました。

震災の被害を受けた陸前高田市
写真=iStock.com/RyuSeungil
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RyuSeungil

この3つが総理大臣として取り組んだ大きなテーマでした。

総理大臣は、基本的には公務員のスタッフに支えられて、国家のマネジメントをするのが最大のテーマです。そこが一番力を尽くすところです。

同時に、民主主義、政党政治ですから、政党が総理大臣をきちんと支えてくれないといけない。国のマネジメントをする前提として、政党のマネジメントをしなくてはいけない。それが、党のリーダーとしての仕事です。どちらが難しかったかと言えば、政党のマネジメントのほうが難しいという印象です。

■総理大臣の一日はまさに「分刻み」

総理時代のスケジュールは決まったものはなく、毎日まちまちです。新聞に「首相動静」という欄があるので、それを読めばわかりますが、分刻みの毎日です。歴代総理大臣はみんな同じだと思います。

毎朝だいたい、7時くらいから会合が始まります。いろんな打ち合わせ、いろんな会議をするんです。国会開会中は、どんな答弁をするかなど、各省の役人と打ち合わせをします。そして8時くらいから、全大臣との閣議が始まります。

そのほか、政府の最高の意思決定をする場面があったり、国会開会中だと9時くらいから各委員会があったりします。また、海外からのお客様との予定が一日おきくらいに入ります。その人たちと夕食会をしながら外交活動をします。その合間に別の案件が上がってくることもあります。

まさに、「毎日違う内容が分刻み」なのです。重要なことも、じっくり考えたり、相談したりする時間などなく、素早く決断しなくてはいけないことが多いんです。

夜も政党関係の会議があったり、物事を進めていくためのキーパーソンと会ったり、終日仕事です。総理大臣は体力がないともちません。

■震災から1カ月、東北で見た「原風景」

私は政治家として、まず千葉県議会議員を2期務めました。県議会議員から衆議院議員になった時、「10倍くらい忙しくなった」という実感をもちました。ですが、衆議院議員から総理大臣になった時には、「さらにその10倍忙しくなった」実感をもちました。

2011年3月11日、東日本大震災が起きた時、私は財務大臣を務めていました。そして、その年の8月に総理大臣になったんです。

4月に被災地に行った時、そこはがれきの山でした。でも、その中に桜が咲いていたんです。それを見て、来年この桜が咲く時には、落ち着いてお花見ができるような場所にしなければいけない、そのためには復興を急がなくてはいけないと、思いを強くしました。がれきに咲く桜は、今も原風景として心に刻まれています。

■国会議員の定数削減はまだ果たせていない

私が総理大臣としてできたことは、社会保障と税の一体改革という、長年先送りされてきたテーマに実現への道筋をつけたことです。

与党だけでなく、当時野党だった自民党、公明党にも合意をしてもらって法律を作れたというのは、大きな成果だったと思います。

やり残したことは、議員の定数削減です。私が総理大臣の時、消費税を10%に引き上げることを決めたのですが、それはみんなが嫌がることです。

国民に負担をお願いする以上は、自分たち国会議員が身を切る覚悟を示さなければいけないと、議員の定数を削減するということを、自民党の安倍さんと当時の党首討論で約束しました。この約束が果たされなかったことが残念で、心残りです。

党首討論での野田佳彦氏と安倍晋三氏
2012年11月14日、党首討論での野田佳彦氏と安倍晋三氏(画像=内閣官房内閣広報室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

■二大政党制を作り直すために必要なこと

自民党の長期政権を倒した民主党が、なぜ長期政権を築けなかったか。それは政権運営に習熟していなかったことが大きいと思います。でも、誰もが最初から習熟しているわけではありません。経験をふまえて、次はもっとうまくやらなければいけない。

長谷部京子『僕たちはまだ、総理大臣のことを何も知らない。』(Gakken)
長谷部京子『僕たちはまだ、総理大臣のことを何も知らない。』(Gakken)

今、自民党が強いです。私がやり残したことで、今も議員として取り組んでいることは、二大政党制を作り直すことです。一強になるのは、他が弱いからです。他弱を解消するには、野党全体を大きく包み込こんでいかなければいけません。

野党同士で足を引っ張り合うのではなく、自民党と競い合うような政治勢力、政権を目指す野党を作らなくてはいけないと思います。

そのためには、野党は一丸となって固まっていかなくてはいけない。細かく見れば政策の違いはありますが、それでもチームとして固まる時は固まる。野党はそういうこらえ性をもたなければ、政権をとれないと思います。

自民党も国民のためにがんばる。もう一つの塊もがんばり、互いに競い合ったほうがいいんです。ライバルがいたほうがお互いに向上するじゃないですか。そういう関係性を作っていきたいですね。

----------

長谷部 京子(はせべ・きょうこ)
happier kids program主宰
東京都出身。青山学院大学卒。happier kids program主宰。リクルート社等を経て、経営者を育成する「大坂塾」に勤務しつつ、2012年、小・中・高校生の教室happier kids programをスタートする。自身の子育ての経験、我が子の中高時代の友人たちが、「ただいま!」と訪れてくれたことが教室の原点。学校、家庭以外の「心の居場所」になりたいと願い、教室を運営している(教室のモットーは、「工作、クッキング、コンテスト応募、工場・会社見学など、子どもたちの得意なこと、一人一人が夢中になれることを見つけて、みんなで楽しむこと」)。中学生以上は、「会いたい人に会う企画」として、インタビューを実施。小学1年生で入室した子が、高校生になっても通い続けている。また、「子どもたちの夢と志を応援するドリームシッププログラム」を共同開発し、日本やドイツの各地で開催。これまでに、約1500人の親子が、リアル参加している。

----------

(happier kids program主宰 長谷部 京子)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください