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天皇の意思を踏みにじり娘・彰子を道具として扱う…藤原道長が権力を得た代わりに失ったかけがえのないもの

プレジデントオンライン / 2024年10月20日 16時15分

WOWOWの連続ドラマ「ゲームの名は誘拐」の完成披露試写会に登壇した見上愛さん(=2024年5月28日、東京都江東区のユナイテッドシネマ豊洲) - 写真=時事通信フォト

藤原道長の娘・彰子はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「夫である一条天皇の譲位という大事を知らされなかったことで、父と距離を置くようになる。それがきっかけとなり大いに成長し、天皇家を支える国母となっていく」という――。

■「私たちは父上(道長)の道具にございます」

藤原道長(柄本佑)を中心に、仲間の公卿たちが酒を飲んでいる場で、藤原公任(町田啓太)は「順当にいったら次の東宮は敦康様、その次は敦明様だが。道長の御孫君が東宮となられるのは、ずいぶんと先の話だな」と言葉を投げた。

それを受けて、藤原行成(渡辺大知)も「そうでございますな」と応えたが、道長は本音を語った。「できれば俺の目の黒いうちに、敦成様が帝とおなりあそばすお姿を、見たいものだ」。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第39回「とだえぬ絆」(10月13日放送)の一場面である。

東宮の居貞親王(木村達成)のもとに入内することになった道長の次女の妍子(倉沢杏菜)が、姉の中宮彰子(見上愛)を訪ねて語った話が、道長の実態をよく表していた。「父上は帝の皇子も東宮様の皇子も自分の孫にして、権勢を盤石になさろうとなさるお方。母上も父上と同じお考えでございましょう。私たちは父上の道具にございます」。

その後、元服を前にした敦康親王(片岡千之助)に、彰子は語りかけた。「これからも敦康様をわが子と思い、ご成長をお祈りしております。立派な帝におなりあそばすために、精進なさいませ」。

これらの場面から、道長と長女の彰子のあいだでは、次の東宮(皇太子)にはだれがなるべきか、考えに大きな開きがあるのが伝えられたように思う。

そして、次回予告で流されたのは、彰子が道長に向かって「どこまで私を軽んじておいでなのですか!」と、泣きながら声を荒げる姿だった。

■一条天皇と中宮彰子の切実な願い

ドラマでは一条天皇(塩野瑛久)が、寵愛した亡き定子(高畑充希)が産んだ第一皇子の敦康親王を、次の東宮にしたいと強く願い、その元服について気にかける様子が、繰り返し描かれてきた。

【図表】藤原家家系図

実際、寛弘7年(1010)7月17日に、敦康親王が道長の加冠で元服する前後、敦康親王家の別当(長官)でもあった行成は一条天皇から、敦康を東宮にしたいという相談を、何度ももちかけられている。

彰子もその点に関し、一条天皇と同様の願いだったようだ。元服の儀式を終えて成人服に着替えた敦康親王の訪問を受けた際、彰子は野太刀1柄と横笛1管を贈っているが、これも敦康への特別の配慮と思われる。

敦康に対してだけではない。たとえば、定子の弟(伊周の弟)である隆家の娘が着袴の儀(はじめて袴をはかせる儀式。今日の七五三に該当する)を行えば、彰子はそのための装束を贈っている。一条天皇の気持ちを考えて、定子の親族への配慮も欠かさなかった。

■彰子が敦康親王にこだわった理由

敦康親王の誕生日は長保元年(999)11月7日だが、1年余りのちの長保2年(1000)12月16日、母の定子が亡くなった。そこで、翌長保3年(1001)8月には、彰子が敦康を養母として育てることになった。

同じ殿舎で暮らすようになるのは、長保5年(1003)8月からだが、それでも元服するまで丸7年間、一つ屋根の下で「親子」として暮らしてきたことになる。情が移るのも当然だろう。また、彼女が一条天皇と思いをひとつにするとは、敦康が東宮になるのを願うことだった。

加えて、倉田実氏は、敦康親王の養母となった彰子は、敦康親王を東宮にして後見することこそが、自分のとるべき道だと教育されてきた、と指摘する(『王朝摂関期の養女たち』翰林書房)。そうであるなら、彰子が敦康の立太子を望むのは、道長が蒔いたタネだと指摘できるだろう。

ただ、彰子は、自分が産んだ敦成親王よりも敦康親王を大切に考えていた、というわけではない。まずは慣例どおりに、第一皇子の敦康親王が皇位を継承し、その後、実子である敦成親王を即位させればいいと考えていたのである。

■とにかく時間の余裕がない道長

しかし、道長は敦康親王を排除し、敦成親王を東宮にすることに前のめりだった。持病の飲水病(糖尿病)の影響もあり、体調を崩しがちだった道長には、待つ余裕がなかったものと思われる。

藤原道長
藤原道長(写真=読売新聞社「日本国宝展」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

とくにこの時代は村上天皇の子であった冷泉天皇(63代)の系統と円融天皇(64代)の系統が、交互に即位することになっていた(両統迭立)。冷泉の子である花山天皇(65代)の次に、円融の子の一条天皇(66代)が即位したのはこのためだった。

次は花山天皇の弟の居貞親王(のちの三条天皇)と決まっていたから、敦康を選んでも敦成を選んでも、即位は次の次になる。仮に敦康を東宮にすれば、その次は冷泉系でなければならないので、敦成は4代先ということになる。

1人の在位期間を5年としても15年後である。当時は40歳を超えると老人だったから、すでに40代半ばに達し、病気がちでもあった道長は、先に敦康が東宮になったら、自分の「目の黒いうちに」敦成が即位できるとは思えなかっただろう。

だが、それにしても、道長がとった行動はえげつなかった。

■一条天皇を譲位させるためになんでもする

一条天皇は敦成親王が産まれた翌年である寛弘6年(1009)ごろから、体調不良が記録されている。伊周らが処分された敦成親王、彰子、道長への呪詛事件による心労の影響もあったと考えられる。そして、敦成を1日も早く東宮にしたい道長は、病気がちの一条天皇が譲位するように、無言の圧力をかけていった。

事が進んだのは寛弘8年(1011)5月だった。以下は行成の日記『権記』の記述による。5月22日、一条天皇は彰子のもとに渡ったのちに発病したが、25日には回復したという報告を行成は受けた。ところがその日、道長は儒学者の大江匡衡を呼び、一条天皇の病状と譲位について占わせたのだ。早く譲位してほしいとはやる気持ちに背中を押されたのだろう。結果、譲位どころか崩御という卦が出た。道長はこともあろうに、一条天皇の寝所の隣室に控えていた護持僧に占文を見せ、一緒にすすり泣いた。一条はその様子を漏れ聞いてショックを受け、病気が悪化してしまった――。行成はそう書いている。道長がわざと一条天皇に聞こえるように話した、と考える研究者も多い。

その後、譲位を決意した一条天皇は行成を呼び、せめて敦康親王を東宮にできないかと相談した。だが、道長の意を受けている行成の返答は、天皇を支える外戚の力が重要なので、道長が外祖父となる敦成がよい、というものだった。

十二単衣をまとう女性の足元
写真=iStock.com/Yusuke_Yoshi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke_Yoshi

■彰子は父・道長を怨んだ

一条天皇は5月27日、譲位を決意。道長に東宮の居貞親王との会見の仲介を頼んだが、その後の道長の行動が、彰子との確執を導いた。行成によれば、彰子は「道長を怨んだ」という。道長は一条天皇の意を伝えるために東宮のもとへ急ぎ、その際、彰子の居室の前を、素通りしたというのである。

行成は噂に聞いた話として、次のように書いている。

「『此の案内を東宮に達せんが為、御前より参らるるの道、上の御盧の前を経。縦ひ此の議を承はると雖も、何事を云ふべきにも非ず。事は是れ大事なり。もし隔心無くんば示さるるべきなり。しこうして、隠秘せんが為に、示し告げらるるの趣無きなり』と云々(『この連絡を東宮に知らせるため、父が天皇のもとから参上された経路は、私の部屋の前を通っていました。たとえこの話をうかがったところで、私はなにもいえません。これは重大事です。もし、父に私への気兼ねがなければ、話してくれてもよかった。でも、私には隠そうとして、なにも教えようとしてくれなかったようです』とおっしゃったとか)

道長は彰子の「夫」の譲位という一大事を、「妻」に知らせずに、彼女の前を素通りしたのである。道長にすれば、一条天皇の譲位で敦成親王がいよいよ東宮になれる、と浮足立って、彰子のことなど頭から消えてしまったのかもしれない。

いずれにせよ、彰子は大事なことを父は自分に隠した、と受け取った。敦康親王を先に皇位につけることを望んでいたから、父に排除された――。彰子はそう受けとったようだ。

山本淳子氏は「彰子は自分の怒りとこの憶測を、おそらくは女房たちに噂として〈拡散〉させた。だから行成の耳に入ったのである。天皇の意志を踏みにじり娘を蔑ろにしてでも摂政を望む道長の欲望を糾弾した。そして『父とは一線を画する自分』を宣言した」と書く(『道長物語』朝日選書)

■愛娘はもう振り返ってはくれない

一条天皇は譲位ののち、6月22日に崩御した。一条への深い思いをいだいていた彰子は、翌長和元年(1012)5月、法華八講を行った。これは1部が8巻の法華経を朝夕1巻ずつ4日間講じるものだが、彰子は5日かけてていねいに行った。

そのときのことを、「光る君へ」で秋山竜次が演じている藤原実資が日記『小右記』に書いている。権力に追従しないことで知られる実資に、彰子から「お追従をしない実資が八講に毎日きてくれて、大変うれしく思う」と言伝てられたというのだ。

同じ5月、一条天皇の一周忌法会が圓教寺で行われた際、実資が女房(おそらく紫式部)を介して法華八講のときのことへの謝意を伝えると、「一周忌が終わり、部屋のしつらいが喪中から日常に変わったのがさみしい」といった言葉が返されたという。

このエピソードについて、服部早苗氏は「一条院亡き後、彰子は公卿たちの行動を冷静に見つめ、権力者に追従する人物か、あるいは信頼に足る人物か、しっかりと見極めている」(『人物叢書 藤原彰子』吉川弘文館)と書く。

一方、その翌月、重病になった道長は(のちに回復するが)、実資に「とりわけ彰子が気がかりだ」と話している。彰子が自分から離れてしまったようで、心配していたのだろうか。しかし、彰子は父を反面教師に、たしかに成長していたと思われる。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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