上階の共同トイレから汚物が落ちてくる音が…日曜劇場では描きにくい軍艦島の超過密空間のリアルな暮らし
プレジデントオンライン / 2024年11月2日 10時15分
※本稿は、風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)の一部を再編集したものです。
■日本初の鉄筋コンクリート高層住宅は軍艦島の30号棟
明治期から大正期にかけての日本の民間住居は一般的に木造住宅が多く、軍艦島でも木造の炭鉱長屋住宅が立ち並んでいた。1916(大正5)年からは、過密な人口対策と住宅戸数を増やすため、日本初の高層鉄筋コンクリート(RC)造アパートに建て替えを行った。国内最古のコンクリート(RC)造アパートとなった軍艦島の30号棟は、当初は4階建てだったが増築されて地上7階建ての大きなアパートになった。この小さな島に高層のアパートが建設されたことから、どれだけ人口が多かったかが想像できる。
なお、この30号棟の設計者が、イギリス商人であるトーマス・グラバーが住んだ「グラバー邸」の主人と交流があったことから、通称「グラバーハウス」と呼ばれていた。
三菱鉱業(現・三菱マテリアル)の炭鉱として栄えた島の住居は、基本的に社宅または寮であった。そのため、鉱員である三菱の職員や鉱員と家族、そして下請けで働いていた者は家賃が無料だったため、その心配をする必要がなかった。とはいえ、住居のレベルには仕事上の立場により明確な格差があった。
■鉱員なら家賃はタダだが、住居は地位による格差あり
1949(昭和24)年にはすでに建設されていた幹部が住む鉱長社宅(5号棟)は、島内で最も恵まれた稜線上にあり、眺望も抜群で島では唯一の本造2階建て、内風呂がある高級住宅だった。職員社宅(2、3、8、14、25、56、57号棟)も見晴らしの良い高台に建てられていた。部屋の広さは2Kないし3Kのものが多く、1959(昭和34)年以降に建設された幹部職員住宅には内風呂があった。
その反面、鉱員社宅(16〜20、30、65号棟)は共同浴場と共同トイレであった。通称「日給社宅」と呼ばれた16〜20号棟は北西側の低地に建てられ、防潮壁の役割を担っていたため窓は小さく風通しも良くなかった。
海に囲まれた軍艦島の30号棟下層階では、常に湿気や悪臭に悩まされていたという。また、海が荒れると最も激しい風雨や波が打ち付ける場所に建てられていたため、階段を伝って雨水が階下へ降り注いだ。台風の後には1階が水没して家財道具などが浮いていたということもあった。
■台風時は決死の覚悟で用を足すが、便器から海水が吹き出す
島では生活用水の確保が困難な時期が長かった。その上、ほとんどの居室にトイレが設置されていたが、16〜20号棟(日給社宅)、30号棟、65号棟の旧棟部分には閉山までトイレが設置されておらず、共同便所を利用していた。
共同便所は日給社宅と65号棟旧棟に2カ所、それ以外は各階に1カ所ずつあり、それぞれの共同便所に大便器5〜6個が設置されていた。その真ん中を、配水管が最上階から地下の溜耕まで貫通し、各便所から斜めの枝管を出していた。水道がないため下水処理もなく、トイレの排水管は海と直結していたという。
落としトイレ(汲み取り式便所)という性質もあり、特に台風などが来た時は、配管を逆流した海水が便器口から吹き出すこともあった。また、溜耕の中では排泄物が海水で塩漬けのようになり、十分に腐敗や分解ができないまま海に放流されたため、海水の汚染が進み、戦前には伝染病が発生したこともあった。
その後、汚水浄化槽が造られ、いったん浄化してから海に放流することになったが、島で採用されていた半水洗式のトイレはバケツを使って海水と一緒に汚物を流していたため、排水管に鉄が使用できなかった。その代わりに土管やコンクリートを使うなど工夫をしていたという。
■トイレが共同なので、子供たちの人気は「トイレの近くの部屋」
トイレは現代でこそ、ゆっくり座って落ち着ける場所だと感じている人も多いかもしれないが、この島のトイレは和式の共同で、ゆっくりできることもなく用を足したらすぐに出なければならなかった。閉山前の頃にはトイレは2軒で1つを使用し、清掃当番宅の玄関には名札が掲げられていた。掃除は積極的に行われて清潔を保つようにされていたというが、それでも臭いはしていたそうだ。
また、トイレの場所によっては、昼でも裸電球を点けなければならないほど暗かった。子どもにとっては、この長くて暗い廊下を夜の時間に歩くのは恐怖であった。そのため、どこかで玄関が開く音が聞こえると、他の部屋からもトイレに行きたい子どもたちが出てきて連れ立つという状況がたびたびあったという。島内での引っ越しのたびに、子どもたちはなるべくトイレ近くの部屋を希望していたそう。
■住居の格差はあったが「一島一家」と言われるほどアットホーム
身分によって住居に格差があったのは、戦前の「社員は一切会社側の管理の下にあって、部屋の決定も鉱夫たちには自由に選択できず、労務係が平常の仕事の成績に従ってよい部屋をあたえる」という三菱独自の規則があったからであった。家族の人数によって妥当な部屋を配分されるわけではなく、6畳1間に9人で暮らしていた家族もいたという。
1947(昭和22)年に「社宅入舎割当点数制度(住み替えの点数制度)」が実施され、勤務成績や勤続年数、家族構成に応じて希望の部屋が選べるようになった。鉱員の中でも長く勤めている者はグレードの高い部屋に移ることができたという。そのため鉱員はより太陽の当たる部屋を求めて引っ越し、同じ部屋に住み続けることはなかった。基本的には、職員と鉱員の住宅は明確に区別されていたが、職員社宅が足りない頃には、職員が鉱員社宅に住むこともあった。
なお、狭い島内であり同じ職場である者も多く、さらに共同浴場などを利用していたからか住民同士の絆は深かった。それは「一島一家」と言われるほどアットホームだったという。外出や就寝する時でも、よほどのことがない限り鍵をかけなかったという住民もいたが、それでも泥棒に入られたという話はほとんどなかったそうだ。
■国内有数の家電の充実ぶりで水道光熱費はわずか10円
島で暮らす住民の水道光熱費は1959(昭和34)年で、すべてあわせて10円だった。家賃は無料で、昭和30年代後半の6畳1間、共同トイレ風呂なしのアパートの家賃が、国内平均で3000円程度だったことと比べると、その待遇の良さがよくわかる。島内のアパートは部屋ごとに備え付けのかまどがあり、台所での煮炊きは薪を使っていたが、やがてプロパンガスや電気が使われるようになった。プロパンガスは2個まで無料配布され、2個以上は有料であったが、2個以上必要なことはほとんどなかったという。
また、島内ではいち早く電化が進み、充実した電化生活を送っていた。当時庶民の憧れの的で「三種の神器」といわれていた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の全国普及率はそれぞれ7.8%、20.2%、2.8%だったのに対し、島内での保有率はほぼ100%というから生活の豊かさがうかがえる。しかし、海底水道の完成と、各戸に洗濯機が普及していったことで、各階にあった共同の洗濯機は物置と化してしまった。
また、1972(昭和47)年当時、新卒の月給は5〜6万円だったのに対し、軍艦島では月約20万円受け取っており、極めて恵まれた生活をしていたと想像ができる。
■居住区域でも人口過密ならではの音の問題があった
居住区域においては、ほとんどがRC造の建物で、高い防音性を備えていた。端島の建築物は音よりも防潮、防風が最も重要な課題であり、そのための構造として分厚い壁の廊下などが設けられていた。これが結果的に防音につながったとも考えられる。
とはいえ、「隣人のテレビやラジオの音がやかましかった」といった元島民の言葉も残っており、防音は必ずしも完璧だったというわけではなかったようだ。また、共同トイレなどでは、汚物が通る管が上層階から下に延びており、上から「落ちてくる音」が聞こえたという話もある。
そもそも端島のような超過密空間で、生活音の問題を完全に解決するのは難しかったと考えられる。しかし、元島民によると戦後の最盛期の端島が大都市より住みやすかったのは、住民たちの共同体意識も作用していたのではないかと推測している。
端島では、プライベートな空間と公共の空間という敷地の境界線が希薄で、共用の空間が多い。そういった空間で醸成された住民たちの共同体意識が良い方向に働き、音の問題があまり顕在化せず、暮らしていけたのだと考えられる。
■内風呂付きの住居はわずか、海水も使われた共同浴場の実態
新たに内風呂付き職員宅が建設されるまで、島内で内風呂があったのは1950(昭和25)年に造られた鉱長社宅のみだった。その他の住居には風呂がなく、住民たちのほとんどは閉山時まで共同浴場を利用し、職員や鉱員は炭鉱施設内に設置された浴場を使用していた。給湯は、鉱場内のボイラーを使い、蒸気管と水の管を別々に導入し、浴槽内で混合して風呂を沸かしていたという。
仕事を終え、体中を真っ黒にして地上に戻った鉱員は坑内風呂といわれる鉱員専用の風呂に向かった。大きめに造られた風呂は第一槽と第二槽に分かれ、「作業着洗い」と書かれた立て看板のある第一槽に作業着のまま入ってじゃぶじゃぶと炭を洗い落とし、第二槽に移動して身体を洗う。第一槽の坑内風呂は炭が混ざり、いつもお湯が真っ黒だったという。
■さまざまな世代が集う共同浴場は島民たちの社交の場
海底水道ができるまでは、給水船で水を運んでいたため、渴水時や時化(しけ)の際には海水が利用されたが、基本的には真水を沸かして使用していた。台風などで海が荒れると真水の利用は中止されたが、各家庭で真水のかかり湯を自宅から持参し、共同浴場に向かったという。水が貴重な資源であったからこそ、島民全員が節水に取り組んでいたのだ。1957(昭和32)年に海底水道が開通すると、島では人浴時間のいつでも真水を沸かした風呂に入れるようになった。
個別の風呂があったのは、鉱長社宅の5号棟、職員のクラブハウス(集会・宴会場)の7号棟、旅館の清風荘など、ごく一部に限られていた。1959(昭和34)年に建設された3号棟には、各戸に室内風呂があつた。これは、鉱長社宅以外では島内唯一のアパートだった。共同浴場は、8号棟の山間にある窓がついた明るい上風呂と、61号棟の地下にあり大人が20人近く入れる広さの下風呂、それから31号棟の地下風呂の他に、60号棟にも共同浴場があった。
■共同浴場の入浴料は無料、いつも多くの人で賑わっていた
鉱員とその家族は共同浴場を無料で利用でき、入浴時間は午後3時〜午後8時までと定められていたため、いつも多くの人であふれかえっていた。軍艦島中の人間が、島内で数えるほどしかない風呂に指定された時間内で入るというのだから、風呂の混雑がどれだけのものか想像できる。
ちなみに、住宅棟の浴場は女子風呂の脱衣所のほうが広かった。これは、島内に住んでいる労働者のほとんどが鉱員のため、共同浴場を利用する男性は鉱員以外の高齢者か子どもたちのみだったからだ。
しかし、どれだけ風呂が芋洗い状態であっても島の社交場として重宝されていた。社交場として活用していたのは大人だけでなく子どもたちも同じ。学校帰りに「○時に下風呂に行くよ」などといった約束を交わしていたというエピソードも残っている。
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編集プロダクション
編集プロダクション。国内外問わず、旅、歴史、アウトドア、サブカルチャーなど、幅広いジャンル&テーマで取材・執筆・編集制作を行っている。バスや鉄道、航空機など、交通関連のライター・編集者とのつながりも深い。編集した本に『秘境路線バスをゆく 1~8』『“軍事遺産”をゆく』『地下をゆく』(イカロス出版)、『攻防から読み解く「土」と「石垣」の城郭』(実業之日本社)、『路線バスの謎』『ダークツーリズム入門』『国道の謎』『図解 「地形」と「戦術」で見る日本の城』『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト・プレス)、『ニッポン秘境路線バスの旅』(交通新聞社)、『2022年の連合赤軍 50年後に語られた「それぞれの真実」』(深笛義也著、清談社Publico)、『日本クマ事件簿』(三才ブックス)などがある。
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(編集プロダクション 風来堂)
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