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玉木雄一郎代表の「尊厳死の法制化」発言に恐怖で震えた…現場医師が訴える「終末期の患者は管だらけ」の大誤解

プレジデントオンライン / 2024年10月22日 7時15分

党首討論会で政策を提示し発言する国民民主党の玉木雄一郎代表=2024年10月12日、東京・内幸町の日本記者クラブ[代表撮影] - 写真=時事通信フォト

■「若い人の社会保険料を抑える」ため?

国民不在の「前代未聞の解散」が、誕生したばかりの石破内閣によって強行された結果、与野党ともに一気に選挙モードとなり、あっという間に投開票日も目前となった。公示を前にした10月12日には、日本記者クラブ主催の7党党首討論もおこなわれ、その模様はテレビ中継されるとともに、各党首の主張や記者との問答はSNSでも拡散された。

そこでは経済政策に安全保障問題、少子高齢化から社会保障問題など、多くの議論が交わされたが、そのなかで、私がもっとも恐怖に震えたのは国民民主党の玉木雄一郎代表の、以下の主張だ。

「社会保障の保険料を下げるためには、われわれは高齢者医療、とくに終末期医療の見直しにも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含め医療給付を抑え、若い人の社会保険料給付を抑えることが、消費を活性化して、つぎの好循環と賃金上昇を生み出すと思っています」

この主張に恐怖を覚えたのは私ばかりではなかったようだ。SNSには「姥捨山だ」「優生思想だ」として、玉木氏を批判する意見が溢れた。理由は後述するが、この主張はまさに「優生思想そのもの」である。私もSNSで批判を展開した。

■これは「言い間違えた」というレベルではない

ここまで多くの批判を受けるとは思っていなかったのだろう。玉木代表は慌てて「尊厳死の法制化は医療費削減のためにやるのではありません。本人の自己決定権の問題なので、重点政策の中でも、社会保険料削減の項目ではなく、あえて、人づくりの項目に位置づけています」とのコメントをSNSに投稿し、「尊厳死は自己決定権の問題」であることを繰り返し強調した。

さらに2024年9月20日の国民民主党の代表記者会見での映像も引用し、あくまでも尊厳死の法制化は医療費や社会保険料負担の軽減が目的ではないとの考えを強調、必死に「火消し」に走った。

だが「しまった!」と思ってどんなに火消ししようとも、いちど口から出てしまった言葉は飲み込めない。無かったことにはできないのである。とくに政治家、しかも公党の党首の言葉だ。発言時間が短かったからなどとの言い訳もまったく通用しない。逆に、短い時間だったからこそ、与えられた時間内でもっとも有権者にアピールしたいポイントを述べたものだったと見るべきだろう。

何回読んでも、社会保障の財源を語る文脈のなかで終末期医療の見直しと尊厳死の法制化に言及している。これは誰も否定はできまい。玉木代表をいくら擁護しようと試みても、言い間違えレベルのものではなく、確固たる信念に基づいたポリシーを述べたものであるとしか解釈し得ない。

■政策パンフレットに堂々と明記している

「若者をつぶすな」との勇ましい言葉を掲げての高齢者医療、終末期医療の見直し、これぞまさに、高齢者を若者の生活に負担と迷惑をかけている象徴として攻撃目標にすえ、若者そして現役世代の票を獲得することを目的とした発言だ。

同党の政策パンフレットにも「現役世代・次世代の負担の適正化に向けた社会保障制度の確立」との大項目のなかに「(13)法整備も含めた終末期医療の見直し」という小項目が立てられており、そこには「人生会議の制度化を含む尊厳死の法制化によって終末期医療のあり方を見直し、本人や家族が望まない医療を抑制します」との記載がある。

やはり党首討論での玉木代表の主張は言い間違えなどではなかったのだ。「尊厳死の法制化によって終末期医療のあり方を見直す」のは、やはり「現役世代・次世代の負担の適正化」のためだったのである。

こうした政策が、社会にとって役立つ者を「優」としそれらに負担をかける者を「劣」とする人の価値に優劣をつける思考に依拠するものであることは、誰の目にも明らかだろう。この思考に基づいた政策こそが、もっともわかりやすく「優生思想」を見える化したものなのである。

■現場医師からすれば大迷惑の“不勉強な政策”

さてここで言及されている「人生会議」というのは、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)のことである。拙著『大往生の作法』(角川新書)は、その一冊を通じてACPについて解説したものであるが、ACPの有用性を説明する一方で、それが内包する危険性についても詳述している。

ACPとは、日本医師会の資料によれば「将来の変化に備え、将来の医療およびケアについて、本人を主体に、そのご家族や近しい人、医療・ケアチームが、繰り返し話し合いを行い、本人による意思決定を支援するプロセスのこと」とされている。

この日本医師会の説明も十分とは言えないのだが、もっとも重要なのはACPの主役・主体は「本人」であるという点だ。

ところが同党の政策パンフレットでは「本人や家族が望まない医療を抑制」とある。うっかりすると読み流してしまうが、「本人が望まない医療を抑制」とは書かずに「家族」を滑り込ませている。ACPの本質を完全に捻じ曲げてしまっているのである。

同党に医療ブレインがいるのか私は知らないが、ACPの本質を知りつつ意図的に「家族」を組み込んだのだとすると非常に悪質であるし、知らずに入れたのであれば不勉強も甚だしい。その程度の知識でACPを語ることは、日々現場でACPを実践している医療者から言わせると、迷惑きわまりない。

■「終末期は管だらけ」という大誤解

重要なので繰り返すが、あくまでもACPの主体は本人。本人と家族を「同列」に扱ってはならないのである。かりにどんなに円満な家族であっても、家族は本人とは別個人。しかも言葉に出す出さないにかかわらず、意図するしないにかかわらず、本人の希望に少なからぬ影響を与え得るのが家族なのだ。「自己決定権の問題」との認識があるのであれば、家族であっても、そこに意思決定者として同列に入れてはならないのである。

その意味では、ACPを事前におこなっておき、第三者でも確認できるように記録しておくことは非常に重要である。私の仕事場である在宅医療ではまさに高齢者医療や終末期医療が主体であるため、「してほしいこと」「してほしくないこと」を繰り返し本人に問い、医療チーム全体でその意思に沿って治療とケアをおこなっていく努力をしている。

そしてその現場では、少なからぬ人が誤解している「終末期は管だらけ」という医療は、いっさいおこなわれてはいない。今やほとんどの患者さんが、「最期は自然な形で迎えたい」と希望するからである。

■終末期に入院させてくれる病院などない

本人の意思に反した延命治療を医師が無理やり押しつけるということはないばかりか、法制化などされなくとも、現状でも、当事者本人の尊厳と意思を最大限に尊重した「終末期医療」をおこなうべく、現場では日々努力と省察が繰り返されているのである。

SNSでは「医者はカネ儲けのために終末期の高齢者も死なせないように管だらけにするのだ」「尊厳死の法制化に反対する医師はカネ儲けできなくなるから反対するのだ」といった言説を流布している人も見かけるが、これも大きな事実誤認だ。そもそも老衰で終末期を迎えた高齢者に集中治療をおこなうために入院させてくれる病院などはない。

もし本人の意思と異なる老衰での胃瘻(いろう)や点滴がおこなわれることがあるとするなら、それは医師の勧めや押しつけではない。そのほとんどは家族の要望である。

病院の点滴
写真=iStock.com/bee32
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bee32

老衰末期でいよいよ経口摂取不能となった場合の点滴が、医学的に意味をなさないのは医療者のあいだでは常識であることから、こちらから点滴の提案を家族に持ちかけることは、まずない。

■何年も人工栄養で延命するのは終末期医療ではない

だが家族との話し合いのなかで「食事も水分も摂れないのに見殺しにはできない、点滴すらしてもらえないのか」という家族は少なからずいる。そのような家族にたいして、苦痛の除去や延命にはならないことを十分に説明した上でもなお希望される場合に一時的に点滴をおこなうケースも、たしかにある。だがそれは、本人のためというより、家族の心を満たす意味合いのものなのである。

ただそれとて、数週間も数カ月間もおこなうものではない。最長でもひと月程度だ。食事が摂れなくなった老衰末期では、かりに点滴しても胃瘻から栄養を入れても何カ月も何年も生き永らえさせることはできない。

つまり「高齢者の終末期に何カ月も何年も人工栄養で生き永らえさせる」という医療は、現実には起こり得ないのである。もしこうした医療行為で何カ月も何年も生きている人がいるなら、その人はそもそも「終末期」ではない。

つまり玉木代表のいう「終末期医療の見直し」とは、なにをどう見直すべきだと言っているのか、まったく意味が不明なのである。どこが問題なのかいっさい具体的に述べないところを見ると、終末期医療の実態をご存じないのかもしれない。

■「尊厳死の法制化」の条文を考えてみる

そもそも「終末期」の定義自体がきわめて困難であることを、私たちは自覚せねばならない。医師はもちろん、とくに医療の専門家でない政治家が「尊厳死の法制化」をもし語るのであれば、この点についてはきわめて謙虚かつ自覚的でなければならない。

ではここで「尊厳死の法制化」について考えてみよう。まず以下の条文を読んでみていただきたい。

第一条 不治の病にあり、本人自身または他人に対して重大な負担を負わせている者、もしくは死にいたることが確実な病にある者は、当人の明確な要請に基づき、かつ特別な権限を与えられた医師の同意を得た上で、医師による致死扶助を得ることができる。

いかがだろうか。「尊厳死の法制化」に賛成する人は、このような条文さえあれば、生きていくことに大きな苦痛を感じている人に「死ぬ権利」と希望を与えることができるのではないか、と思うかもしれない。

このような条文であれば、当人の自己決定権も担保されているし、特別な権限を持つ医師の同意まである。そして致死扶助をおこなった医師も殺人や自殺幇助の罪に問われることもない。危険な優生思想につながることなどあり得ない、と考えるかもしれない。

しかし本当にそう言い切れるだろうか。

■本人の意思さえあれば、命を終わらせてもいいのか

たとえば「死にいたることが確実な病」を、別の言葉で言えば「回復の可能性がなく」もしくは「死が間近」という表現にもなろうが、その判断はじっさいの臨床現場ではきわめて難しい。それゆえに議論となっているとも言えるのだ。法制化すれば、その難しい判断を条文に「当てはめ」ねばならなくなり、かえって現場や当事者は混乱に陥り困難に直面するだろう。

いや、むしろ混乱するならまだマシだ。難しい臨床判断を条文へ「当てはめ」ることを第一にと考えるあまり、これまで悩み熟慮することによって保たれていた生命への倫理的思考が、マニュアル化・ショートカット化されていくことのほうが危惧される。

そしてもっとも恐ろしいのは「自己決定」というパワーワードである。

介護を要することになった高齢者のなかには、家族に迷惑をかけまいと「早く死にたい」という人も少なくない。「自己決定権」を尊重すべきだという人は、これらの人の「死ぬ権利」をも認めるべきだと言うのだろうか。

在宅介護、在宅医療
写真=iStock.com/Kayoko Hayashi
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Kayoko Hayashi

■「家に帰れないなら死なせてほしい」と訴えた母

「死にたい」との発言も、本心ではなく、つい一時的に口から出てしまっただけのものかもしれない。家族に迷惑をかけている状況が本当にあるとして、それが改善されるなら、やっぱりまだ生きていたいと思うかもしれない。「自己決定」は、いちど決めても、その時その時で、いくらでも変わりうるもの、その認識が非常に重要なのである。

ACPにおける自己決定や、尊厳死法制化のもとでの「当人の明確な要請」が、「だって本人が言ったことなんだから、それがすべてじゃないか」と、マニュアル化された手続き上の一条件とされ、本人以外の人たちに、なんら熟慮も批判的吟味もされず粛々と運用されていく未来など、想像するだけで恐怖である。

私ごとだが、90歳になる母はこの夏に急性腎不全で入院した。もともと間質性肺炎もあり肺炎も併発していたことから、医師の私の目からみても、今回ばかりはもう長くないと覚悟した。

当の母のほうは、病院の環境に耐えかね、入院2日目に「今すぐに退院させてほしい。家に帰れないならもう死なせてほしい。退院させてくれないなら、ここで自死する」とまで、半狂乱で私に訴えたのであった。

私と主治医と母で話し合い、点滴治療は中止、即日自宅に退院した。そして帰宅後、「今後は入院はもちろんいかなる治療も私は拒否する」という意思を自発的に語る様子をビデオに姉がおさめた。自宅では、点滴も抗生剤投与もおこなわずに「自然な経過」で様子をみるにとどめた。

■生後数カ月の初ひ孫に会ったら…

帰宅してもしばらくの間は「もう早く死にたい。あなたたちの世話になりたくない」ばかり繰り返していた。だがその後、少しずつ食事を摂るようになり、非常に危機的な状態からは少しずつ脱していった。

そのタイミングで地方に住む長男が生まれて数カ月の初ひ孫を「ひいばあが生きているうちに会わせたい」と連れてきたのである。初ひ孫にリアルに会った母の目には、明らかに生気が蘇った。

その日から2カ月半の今、母は退院当時の瀕死の状態とは比較にならないほど活気が出て、少しずつ歩けるようにもなり、入浴もひとりでおこなえるようになってきたのだ。

「転倒して大腿骨を折ると大変だから気をつけなよ。でも同い年の美智子さんは手術したね」と先日実家を訪れた際に私が言うと、「もう入院も手術もいやだと言ったはず」と母。「でも寝たきりでなく歩けていた人なら最近は超高齢でも手術するよ。手術しなかったら、それこそ寝たきりになってしまうからね」との私の言葉に、「寝たきりになってしまうのはイヤね……そうか……」と母。

その反応を見た私が、母のACPをあらためておこなう必要性を感じたことは言うまでもない。

■安楽死法制化は「あの人」でさえ躊躇した

選挙になると、少しでも支持を広げたいがために、「タブーに切り込む」などとの勇ましい主張を声を枯らして叫ぶ政治家に目を奪われがちだが、重要な選挙だからこそ、勇ましい言葉、キャッチーなスローガンに惑わされることなく、貴重な一票は熟慮した上で慎重に使いたいものだ。

とくに世代間の対立を煽り、人の命の価値に優劣をつける思考をうながそうとする主張には、最大限に警戒する必要があろう。

そういえば、先に掲げた条文には第二条がある。

第二条 不治の精神病のために生涯にわたる拘留が必要とされ、かつ生き続ける能力をもたない病人の生命は、医学的措置によって、当人が知覚できない形で、かつ苦痛をともなうことなしに終わらせることができる。

じつはこれらの条文は、1940年10月にナチスドイツが提出した「安楽死法」(「治癒不可能な病人における死の幇助に関する法」)の最終案の一部である。

けっきょくこれはヒトラーが公布を拒否したため立法化されなかったとのことだが、それは内容が気に入らなかったからではなく、敵のネガティブな宣伝材料になることを懸念したためといわれている(※)。あのヒトラーでさえもこのような法律の立法化が「悪手」との認識だったとは、なかなか興味深い。

※安藤泰至『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』(岩波ブックレット)より

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木村 知(きむら・とも)
医師
1968年生まれ。医師。10年間、外科医として大学病院などに勤務した後、現在は在宅医療を中心に、多くの患者さんの診療、看取りを行っている。加えて臨床研修医指導にも従事し、後進の育成も手掛けている。医療者ならではの視点で、時事問題、政治問題についても積極的に発信。新聞・週刊誌にも多数のコメントを提供している。2024年3月8日、角川新書より最新刊『大往生の作法 在宅医だからわかった人生最終コーナーの歩き方』発刊。医学博士、臨床研修指導医、2級ファイナンシャル・プランニング技能士。

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(医師 木村 知)

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