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なぜ「仕事ができる人」は古典を読むのか…「平凡な私大」を「一流大学」に変えた"古典"の知られざる威力

プレジデントオンライン / 2024年10月27日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/RomoloTavani

古典を読むことには、どのような意味があるのか。作家のナムグン・ヨンフンさんは「古典には根源的な問いが書かれている。その問いによって、思考が深まり、脳を変化させるほどの威力を発揮する」という――。

※本稿は、ナムグン・ヨンフン『みんなが読みたがる文章』(日経BP)の一部を再編集したものです。

■「古典を読ませる教育」で名門となったシカゴ大学

なぜ古典を読まなければならないのでしょうか?

脳の発達と機能、ふたつに分けて説明します。

1.脳の発達のため

アメリカのシカゴ大学は、1980年に石油財閥のジョン・D・ロックフェラーが設立した、1929年までは何の変哲もない学校でした。しかし、第5代総長にハッチンズが就任し、世界の偉大な古典100冊をすらすらと諳んじるまで学生を卒業させないという「シカゴプラン」を始めました。

すると驚く変化が見られました。これ以降から現在までに、80名を超えるノーベル賞受賞者を輩出したのです。

全校でビリだったウィンストン・チャーチル、小学校入学から3カ月で退学させられたトーマス・エジソン、学業不振児クラスに通っていたアイザック・ニュートンも、古典を読むことで新しく生まれ変わりました。

このように、古典は脳を変化させ、人生まで変えるのです。

ノーベル賞受賞者を多数輩出するシカゴ大学
写真=iStock.com/tbarrat
アメリカのイリノイ州にあるシカゴ大学 - 写真=iStock.com/tbarrat

■古典は現代人にインスピレーションを与える

2.脳の機能のため

1984年1月22日、ワシントン・レッドスキンズ〈現・ワシントン・コマンダース〉とロサンゼルス・レイダース〈現・ラスベガス・レイダース〉とのスーパーボウル競技中に、アップルがCMを流しました。新製品マッキントッシュの広告です。

たった一度のCMにもかかわらず、マッキントッシュの販売量は放送後の100日間で7万台に上りました。このCMは最近まで広告ランキングトップ100で38位を記録し、今でも人気があります。理由は、1984年を迎え、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』からインスピレーションを得てCMを作成したからです。『一九八四年』は、今でもハーバード大学で最も売れている古典で、「読んだフリ本」ランキングの1位です。

古典は拡張性を有し、現代人にインスピレーションと想像の種を与えてくれます。

脳の発達と機能、このふたつの特徴には、一貫する共通点があります。

まさしく、思考と拡張です。考えを拡張する過程で脳が活発に動きます。

脳が変化すると鈍才が英才になります。古典をもとに別の新しい物語が誕生するのです。

思考という源泉的な種を与えてくれるからです。

シカゴ大学の学生たちがノーベル賞を受賞する理由も、古典を通じた思考の拡張にあります。

脳を持つ輝く電球を掴もうとする手
写真=iStock.com/Dilok Klaisataporn
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Dilok Klaisataporn

■「根源的な問い」が古典の力

古典にはなぜこのような力があるのでしょうか?

コ・ミスク作家による古典の定義のひとつ目を見るとわかります。

「古典は、人生や世界への探求である」

わかりやすく言うと、古典は人間や世界について本質的に考えるようにさせるのです。

偉大な古典を選ぶとすれば『聖書』、『仏教聖典』、『論語』です。

これら3つの古典には、人間がいかにして生きるべきかについての壮絶な悩みが書かれています。答えを得るために、イエスは荒野をさまよい、シッダールタは菩提樹の下で修行し、孔子はつましい食事でひとり自問自答を続けました。

シュタイナー教育は、古典教育を通じて、子どもたちみずからが、次のような問いをするようにします。

「自分は何者なのか?」
「他者と自己の関係とは何なのか?」
「生きる意味とは何なのか?」

こうした内面の問いかけをしながら成長した子どもたちが、成熟しないはずがありません。

このように壮絶で本質的な苦悩が書かれているからこそ、文章を書く人は古典を読むべきなのです。

■本質的な問いなくして文章は書けない

本質的な思考を伴わずに文章を書くと、その文章は薄っぺらなものになります。本質的な問いをせず、考えもしなければ、誰かと同じような文章を書き続けるでしょう。

ありふれた主張、他人と同じ表現で書かれたものを誰が読むでしょうか?

さらに、深淵(しんえん)に沈む自身の心も、拾い上げて書くことができません。自分の心もわからないのに、どうして他者を理解できるのでしょうか? 結果として、相手についての理解の幅が狭まるのです。

これらすべてが合わさったら、書くネタもなくなります。本質的な問いなくして、思考の多様性も、豊かな文章を書くこともできないのです。

以上のように、『聖書』、『仏教聖典』、『論語』が千年の時を超えてもなお感動を与える理由は、人類の愛と正しい生について徹底的で根源的な苦悩が書かれているためです。

古典を読み、根源的な問いをすることは、考える力となり、深みのある多様な文章を生み出します。

開かれた聖書の上に置かれた十字架
写真=iStock.com/skodonnell
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/skodonnell

■古典を読む最大の障壁は「難解なこと」

古典をどのように読めばいいでしょうか?

読まなければならないとわかっていても、なかなか読む気になれません。『トム・ソーヤーの冒険』(柴田元幸訳、新潮社、2012年)を書いたアメリカの作家マーク・トウェインはこう言います。

「古典は、みんな一度は読んだほうがいいけれど、誰も読みたがらない本だ」

おもしろいですよね。文章を生業とする作家にとっても古典はむずかしいのです。これはアメリカの作家に限ったことではありません。

私のエピソードを紹介します。

イ・ジソン作家の『リーディングでリードしよう』(未邦訳)を読んで、古典を読む意欲が湧きました。

私は特に考えもせず、古典の中の古典であるダンテの『神曲』やゲーテの『ファウスト』を選びました。とても難しかったです。文章自体が理解できませんでした。本を破ってしまいたくなりました。

しかし書評は、「気づきをくれた、よろこびを感じた」という賞賛の嵐でした。

文章が理解できず線まで引きながら読んでいた私は、気後れしてしまいました。難読症かと悩みもしました。

ところが、朴婉緒(パクワンソ)作家の『あんなにあった酸葉をだれがみんな食べたのか』(真野保久他訳、影書房、2023年)を読んでから、自分は間違っていなかったのだと気づきました。朴婉緒作家はこう書いています。

『ファウスト』や『神曲』は盲目的な使命感がなければ、難解で到底読めなかった。けれど無理やり読んだのがよかったとは思えない。どういう意味なのか理解もできず、とにかく読んだけれど、二度と読む気にはならなかった。この本をよかったと言う人がいると、それは本当に理解して言っているのだろうかと、私は劣等感半分、疑心半分で受けとめた。

――朴婉緒、『あんなにあった酸葉をだれがみんな食べたのか』より

古典は大作家でもむずかしいのです。古典を読むのがむずかしいと告白した作家には、ユ・シミン作家もいます。ドイツ語の原書と韓国語の翻訳版で、計2回もカントの『純粋理性批判』の序文を読んだのに理解できなかったと『表現の技術』で告白しています。

さらに興味深いのは、作文講座で聴衆数千人に「『純粋理性批判』を最後まで読んだ人はいますか?」と聞いたところ、手を挙げたのはたったひとりだったというエピソードです。数千人中で、たったのひとりです。

このふたつの事例から、なぜ古典がむずかしいのかがわかると同時に、どのように読むべきなのか、方法を見いだせるでしょう。

むずかしい理由を3つに分類し、簡単に読む方法を説明します。

1.古典の内容がむずかしい。またはむずかしい古典を選んでいる
2.古典的な文体で読みづらい
3.翻訳が誤っている

■理由①むずかしい古典を選んでいる

むずかしいに決まっています。マルクスの『資本論』は「剰余価値論と恐慌論」、カントの『純粋理性批判』は「人間には純粋理性がない」という話です。言わんとしているテーマそのものが難解です。

このようなむずかしい古典が「教養人のための推薦図書100選」、「学生がかならず読むべき古典50」などですすめられています。朴婉緒作家の言う通り、読んだ人がいるのだろうか、という気がします。

むずかしい古典は諦めましょう。読んでも何も残らないのになぜ読むのでしょうか?

読みたければ簡単な解説書から挑戦しましょう。あなたがダメなのではありません。

むずかしければ読まなくていいのです。

本を机の上に開いたまま疲れて机にもたれる女性
写真=iStock.com/valentinrussanov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/valentinrussanov

■オススメの古典8選

代わりにやさしめの古典、やさしい話の古典を読みましょう。

ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は全体主義の思想、『動物農場』は共産主義の批判、トルストイの『アンナ・カレーニナ』(望月哲男訳、光文社、2008年)は3組のカップルによる人生についての苦悩が描かれています。登場人物リョーヴィンの苦悩はトルストイの苦悩です。『トルストイ短編選』(未邦訳)、『星の王子さま』(サンテグジュペリ著、管哲次郎訳、KADOKAWA、2011年)などは、ストーリーが短いので負担になりません。

古典がむずかしいのではなく、私たちがむずかしい古典を選んでいるのです。

中学生のときに課題図書で読んだ近代の短編小説もいいでしょう。金東仁(キムドンイン)の「いも(甘藷)」(『金東仁作品集』に収録、波田野節子訳、平凡社、2011年)は、福女(ポンニョ)と夫が金に道徳心が屈服してゆく過程が書かれています。資本について深く考えさせられます。

むずかしい古典をただ持ち歩くくらいならば、中学生の必読書である黄順元(ファンスンウォン)の短編小説「夕立」〈韓国の中学校の教科書に掲載され、日韓共同テレビドラマ化もされた〉、李孝石(イ ヒョソク)の「そばの花咲く頃」(ONE KOREA 翻訳委員会編、『そばの花咲く頃日帝時代民族文学対訳選』収録、新幹社、1995年)から読んでみては?

■理由②古典的な文体で読みづらい

私が『刀と犬歯』という短編小説を書いていたときのことです。

青銅器時代が背景なのですが、古い言い回しや昔の言葉を使いこなせず、時代の雰囲気が出ていませんでした。昔の言葉を知ろうと、韓国語の宝庫である『土地』〈朴景利(パクキョンニ)による大河小説。韓国でテレビドラマにもなった。現在クオンから翻訳版最新刊『土地十六巻』が出ている〉を読みました。

朴景利作家には申し訳ないけれど第1部のみ読みました。文体がとてもやわらかく、話の流れがゆっくりで、私には合わなかったのです。

方向転換して、朝鮮時代の行商人の生き様を描いた金周榮(キムジュヨン)の『客主』〈『客主』はドラマ化もされた韓国で有名な歴史小説〉を読みました。文体に力があり、ストーリーの展開が早くておもしろく読めました。

■読みづらい文体に注意

現代の文体は、叙述や描写を省き、展開がスピーディーです。

しかし、昔の本は叙述や描写が多く、ストーリーの展開がゆっくりです。そこに加えて、文章が冗漫(じょうまん)です。書かれた当時はこのような文章や展開が正解だったのです。100年前の作家たちはライバルも少なく、読者も多くなく、文体にもそこまで注意を払っていませんでした。

現代の文体に慣れ親しんだ読者が昔の文体で書かれた文章を読もうとしたとき、はたしてスムーズに読めるでしょうか?

読めないあなたがダメなのではなく、古典が読み慣れない文章で書かれているのです。

無理に読んだところで、副作用として、自分でも気づかぬうちに冗漫な文章を書いてしまいます。古典は文体が違うということを理解しておかなければなりません。

読みづらいときは文体に注意してみてください。読めなかったとしても、「文体がむずかしいのだ」と考え、自分を責めずに早めに本を閉じましょう。あなたのせいではありません。

男性が持っている閉じた本から埃が舞っている
写真=iStock.com/StephM2506
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/StephM2506

ひとつ目の理由と同じです。

読めないものはやめましょう。読みやすい古典を探して読みましょう。

説明の通り、『一九八四年』や『老人と海』(小川高義訳、光文社、2014年)を読めば、ジョージ・オーウェルやアーネスト・ヘミングウェイがなぜ大作家とうたわれているのかがわかるでしょう。今の小説と比較しても、読みづらさをまったく感じないのです。

■理由③翻訳が誤っている

韓国人であれば避けては通れない本に『白凡逸志』があります。

今だから言えますが、中学のときに読んでもよくわかりませんでした。成人してから、入院中にふたたび読みました。植民地時代に使われていた言葉がたくさん出てきました。

インターネットで一つひとつ検索し、意味をメモしながら読んでみたら、理解できただけでなく、著者金九(キムグ)〈日本統治下で活動した独立運動家であり政治家〉の愛国心が私の心にまで届きました。

『白凡逸志』は本来、ハングルと漢字が混在した文章で書かれていました。これを李 光洙(イグファンス)〈日本の植民地時代に「無情」などを書いた小説家〉がハングルだけの文章にして読みやすくし、それを現在私たちは読んでいるのです。

ハングルにして読みやすくしたのが1947年。

当時使われていた言葉遣いと冗漫な文章を、1970年生まれの中学生が1990年代に読んだところで、きちんと読めるでしょうか? 意味を正確に理解できるでしょうか?

『ライ麦畑でつかまえて』を読んだときのことです。後輩の本棚にあったので、好奇心から読んでみました。しかし読めないのです。

このときも自分の読解力不足のせいにして諦めました。ところがどうしたことか、数カ月後にほかの出版社から出た『ライ麦畑でつかまえて』を読んでみると、するすると読めたのです。

2冊を並べて比較すると、翻訳は似ていましたが、呼吸、リズムが違いました。

今では少なくなってきましたが、以前の古典は大部分が重訳本でした。ギリシャ語、ラテン語、漢文で書かれた古典が英語や日本語に翻訳されたものを、さらに韓国語に翻訳していたのです。ほとんどが日本語からでした。このように多くの段階を経ると、意味が誤って伝わる場合もあり、読みづらくなるのです。

この問題は現在もなくなったわけではありません。アメリカの長編ファンタジー小説を読んでいたら、途中で文体が変わり、登場人物の名前も少しずつ変わっていきました。

これはおかしい。インターネットで検索すると、私と同じ不満を抱いている人が多くいました。

調べていくと、1冊の本を分けて複数の大学生たちに翻訳させていたことがわかりました。それを編集して出版したというのです。

これが出版業界の現実だとは。誤って翻訳された本は読みづらいし、意味も正確ではありません。ただただ時間とお金を捨てることになります。

■翻訳家を確認しよう

ではどうすればいいのでしょう?

答えは、翻訳家がきちんと翻訳した本を探すことです。

最近では、本の折り返し部分に、著者プロフィールとともに翻訳家のプロフィールもあります。翻訳者は該当作家の言語系統の専門家でなければなりません。

ギリシャ・ローマ時代の古典は今でも重訳が多いです。

購入前にかならず翻訳家のプロフィールを見て、ラテン語の専門家であるかどうかを確認してください。そうでないと、お金のムダですし、古典に対する認識も悪くなってしまいます。

ナムグン・ヨンフン『みんなが読みたがる文章』(日経BP)
ナムグン・ヨンフン『みんなが読みたがる文章』(日経BP)

説明した3つの理由から、どんなに本を好きな人であっても、古典というとむずかしいと思い敬遠してしまうのです。古典の説明や定義、選び方、読み方を教わってこなかったために生じた現象です。

古典は、理解できればおもしろいものです。

「洞察」という言葉があります。意味は「鋭利な観察力で事物を見抜くこと」です。

文章を書く人には洞察力が必要です。

古典を通じて響きを越え、洞察へと進まなければなりません。人を理解させ、説得するだけではなく、あなたが成長するためにです。

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ナムグン・ヨンフン 作家
大量の本を読み、独学で書くことを覚えた。文章を書きつづけていたら本を何冊か出版。書き方の講義や個人授業もしている。著書に『特許 知的財産権で一生稼ぐ』、『ハーバードキッズ上位1パーセントの秘密、リスニング、スピーキング、リーディング、ライティングに集中せよ』、電子書籍で『航空整備士 回転翼免許 口述試験対策』などさまざまな分野で本を出版。ベストセラーおよびステディセラーにした。また、小説や童話で韓国のさまざまな賞に入賞する。

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(作家 ナムグン・ヨンフン)

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