日本人の「賃金」は本当は上昇している…この10年間で「もっとも時給水準が上がった都道府県」の名前
プレジデントオンライン / 2024年10月30日 7時15分
※本稿は、坂本貴志『ほんとうの日本経済 データが示す「これから起こること」』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。
■年収は430万円→369万円に減少
日本人の賃金が安すぎるという認識が近年広がっている。しかし、賃金を国際比較する際にはその時々の為替の影響などを避けることができず、日本人の賃金が本当に安すぎるのかを検証することは実は難しい。
また、少子高齢化に伴う社会保険料負担の増加や、国際商品市況の価格上昇による国民所得の漏出など、日本人の賃金が抑制されてきた原因は企業側だけに求められるわけでもない。
しかし、労働市場の需給がこれまでの賃金の動向に確かに影響を与えてきたことも事実だ。そして、その構造は近年明らかに変化している。
図表1は、厚生労働省の「毎月勤労統計調査」から実質の年収水準の推移を示したグラフであるが、これをみると確かに、2020年基準の実質の年収水準は1996年に430.5万円でピークをつけた後、2023年には369.5万円へと長期的に低下している。
これは国際比較をしても同様である。年収水準を国際比較してみると、イタリアを除けば日本以外にこんなにも長期にわたって年収水準が上昇していない国は見当たらない。
■年収ではなく時給で考えるべき理由
しかし、まずそもそも賃金は年収水準で比較をすべきだろうか。たとえば、1990年代当時、働く人は壮年(そうねん)期の男性がほとんどだったとみられる。しかし、近年では女性や定年後のシニアなど短い時間で働く人は著しく増えている。あるいは、現代においては新入社員であっても過去のように長時間残業をしてまで働く人は少ない。
これは賃金をどう定義するかという問題であるが、経済の基調を見たいのであれば、基本的には単位労働当たりの賃金、つまり時給で考えるべきだ。
たとえば労働者側の視点に立ったとき、年収が2倍になったとしても、それに伴い年間の労働時間が2倍になっていれば時給では同額である。これを喜ぶ人は少ない。
逆に企業側とすれば、従業員の年収水準を2倍に引き上げなくてはならなかったとしても、2倍働いてくれるのであれば経営的にはそれで問題はない。一方で、従業員の時給が2倍になれば企業の経営は危機的な状況に追いこまれるだろう。
■重要な指標は「時間当たりの報酬水準」
仮に従業員の時給が高くなれば、労働力の過度な利用は人件費コストの上昇につながるため、経営者はこれを節約しようと考える。
このように経営者が利潤最大化の意思決定にあたって考慮するのは、従業員の年収水準というよりも、単位労働当たりのコストである時給水準である。
これは労働者も同様だ。労働者にとって時給水準の変動は余暇と労働の相対価格を変化させることで、その人の労働供給量の決定にも影響を及ぼす。経済主体の意思決定を記述するうえで重要な指標は、あくまで時間当たりの報酬水準なのである。
近年、賃金統計の母集団を構成する労働者の属性は大きく変わってきている。平均労働時間が急速に減少するなか、年収や月収水準の平均値を追うのみでは経済の実態は掴(つか)めない。
このため、本書で賃金について言及する際には、基本的には時給水準を指すことにまず留意をしておきたい。実際に、FRB(連邦準備制度理事会)の政策決定に大きな影響を及ぼし、世界のマーケット関係者に最も注目されている統計である米国雇用統計は、平均時給を賃金指標のヘッドラインとして用いている。
■日本人の賃金は上がった? 下がった?
日本で賃金に関する代表的な統計として用いられるのは、厚生労働省「毎月勤労統計調査」である。同統計調査は、毎月多数の同一事業所の賃金の状況を調査しており、賃金の動向を時系列で分析する際には最も信頼できる統計である。
しかし、同調査がヘッドラインとして公表している現金給与総額はあくまで月給である。人々の働き方が急速に変化しているなかで、各種メディアで報道される現金給与総額だけを見ていると日本人の賃金の趨勢(すうせい)を見誤ってしまうということをまず最初に指摘しておきたい。
現実の経済主体の行動を規定するのは時給水準であり、さらに言えば特に重要なのは実質値である。実質的な時給水準が高まるなか、自身が必要な時間数を働きながら豊かな生活を送ることができるようになって初めて、日本人の生活水準は向上したといえる。
それでは、肝心の時給水準は近年どのように推移しているのであろうか。
図表2では、厚生労働省「毎月勤労統計調査」、総務省「消費者物価指数」から労働者の時給水準と年収水準を実質化したものを掲載している。
なお、実質化にあたっては、物価指数に何を採用するかがその形状を大きく左右するが、ここはわかりやすさのため消費者物価指数を用いている。
■実質自給は2221円から2347円まで回復
時給水準をみても、過去日本人の賃金は長期にわたって低迷してきたことが確認できる。実質時給は1997年に2288円まで大きく上昇したあと、2015年の2225円まではほぼ横ばい圏内で推移してきた。
バブル崩壊後は、雇用・設備・債務の3つの過剰が指摘されるなど、日本経済はバブル期に拡大しすぎた生産能力の調整に迫られた。労働市場に目を向ければ、労働力のプールが豊富に存在するなかで、有効需要は不足して、日本の労働市場の需給は緩んだ状態が続き、賃金上昇圧力も長く高まらない状態が続いてきた。
そうした意味では、この時期にやはり労働の価格が安い状態に抑制されてきたという側面はあったのだと考えられる。そして、労働市場の需給の緩みと時給水準の低迷は物価の基調にも大きな影響を与え、日本経済はデフレーションの時代を長く経験することになる。
こうしたなか、グラフからは賃金の基調が近年変化しつつあることもうかがえる。上昇基調に転じ始めたのは2010年代半ばだ。実質時給は2014年に2221円で底をついたあとじりじりと上昇していき、2020年には2347円まで緩やかに伸びていて、年収とは逆の傾斜を描いていた。
足元では、円安進行による輸入物価上昇などからまた実質賃金は低下基調に転じているが、現下の円安は日本銀行の大規模金融緩和や海外要因による影響が大きく、外生的で短期的な側面も強いと考えられる。
■年収が上がらないのは労働時間が原因
名目の時給水準をみると、労働市場の局面変化がより鮮やかに浮かび上がる。先のグラフには名目の時給水準も掲載しているが、名目時給は2012年の2138円を底に単調に上昇を続けている。2023年には2418円と、この10年間で12.2%の増加となった。
このグラフからも賃金について、1990年代半ばから2010年代前半までの期間と、2010年代半ばから現在に至るまでの期間とでは明らかに局面が変わっていることがわかる。賃金は長い低迷期から脱出し、上昇基調に転じているのである。
近年、時給が上昇しているのは、年収が微増にとどまる一方、労働時間が大幅に減ってきたからだ。同じく10年前と直近の数値を比較すると、年間総実労働時間は1753時間から1653時間へと大きく減っている。つまり時給が上がっているのに、収入が上がっていないという認識が生まれるのは、労働時間が大幅に減っているからだといえる。
時給上昇という果実を労働時間の縮減に使うか、年収の増加に使うかという意思決定はあくまで働く人それぞれの選択である。より短い時間でそれなりの報酬を得たいという人が増えたから、現在のような労働時間の減少を伴う賃金上昇が起きているのである。
■賃金上昇の恩恵を受けたのは飲食・宿泊業
賃金上昇の動きはどういったところから広がっているのか。
まず、業種別の賃金上昇率の比較をしてみよう。図表3は各業種の時給(名目)水準について2013年から2023年の変化を算出したものである。
この10年で時給が最も増加した業界は飲食・宿泊業である。2013年の1201円から2023年には1489円と、10年間で24.0%増と上昇している。建設業(2163円→2623円、21.3%増)や卸・小売業(1948円→2271円、16.6%増)、運輸・郵便業(1984円→2263円、14.1%増)も堅調に増加している。
一方で、賃金上昇率が相対的に鈍い業種も存在している。教育・学習支援(3012円→3032円、0.7%増)、金融・保険(3185円→3391円、6.5%増)、医療・福祉(2172円→2335円、7.5%増)などである。この中でも特に医療・福祉は就業者数が多く、全体の賃金の趨勢に与える影響が大きいが、賃金の上昇率は相対的に鈍い水準にとどまっている。
■この10年、地方の賃金が伸びている
続いて、都道府県単位で時給(名目)水準の推移をみたものが図表4になる。
横軸が2013年時点の時給水準、縦軸が2013年から2023年にかけての時給水準の変化率を取っている。これをみると、この10年間で最も時給が上がった都道府県は北海道だった。2013年の1804円から2023年には2151円まで上昇している。10年間の上昇率は19.2%。
そのほか、岩手県(1720円→1981円、15.1%増)、大分県(1739円→2028円、16.6%増)、鹿児島県(1655円→1900円、14.8%増)、山形県(1773円→2036円、14.9%増)などもともとの時給水準が低かった都道府県が賃金の伸びが強い傾向にあることがわかる。
一方で、大都市圏では賃金上昇率は実はそれほど高くない。愛知県(2274円→2558円、12.5%増)は全国平均より上昇率が高いが、東京都(2808円→3091円、10.1%増)や大阪府(2318円→2576円、11.2%増)や神奈川県(2339円→2591円、10.8%増)などにおいてはそこまで伸びていない。
■人手不足が深刻なところほど変化が明らか
最後に、企業規模別に賃金上昇率を算出したグラフを紹介しよう(図表5)。
企業別に時給(名目)の変化を確認すれば、実は賃金上昇は中小規模の事業所から広がっていることがわかる。一般の労働者について、500人以上の事業所では10年間で時給は5.4%しか上昇していないが、5~29人の事業所では12.2%増加している。また、雇用形態に着目すれば、パート労働者の時給は事業所の規模によらず大幅上昇している。
以上、賃金の動向をあらゆる角度から検証してきたが、これらの現象はなぜ生じているのだろうか。
もちろん最低賃金による外生的な影響もあるとみられるが、失業率が安定的に低位で推移していることも踏まえれば、本質的にはこういった業界や地方、中小規模の企業ほど人手不足が深刻だから賃金が上がっているのだと考えることができる。
■「人が安すぎた時代」が終わりつつある
地方や中小企業の経営者などからは、人口減少と少子高齢化に若者の都心流出が拍車をかけ、近年はとにかく人が採れないと話を聞くことが増えた。しかし、人が採れないという言葉の裏には異なる意味が隠されている。
多くの経営者が言う人手不足とは、従来通りの賃金水準では人が採れなくなったという側面が強い。過去、報酬を引き上げないでも容易に人手を確保できた状況が長く続いてきたなか、賃金を上げなければ人が採れない現在の労働市場の構造は経営者に不都合な現実として立ちはだかっている。
市場メカニズムを前提とすれば、特定の地域や業種で人手不足が深刻化すれば、人員を確保するために、企業は否が応でも賃金を引き上げざるを得なくなる。実際に、地方の中小企業のほとんどは人員確保が事業継続の死活問題となっており、より良い労働条件を提示するための経営改革に迫られているのである。
賃金とは、本来はこうした労働市場のメカニズムの中で決定される変数である。人手不足で労働市場からの賃金上昇圧力が高まって初めて賃金が上昇するのだということを、これらのデータは明確に示している。深刻化する人手不足の陰で「人が安すぎた時代」は、少しずつではあるが着実に終焉(しゅうえん)に向かっている。
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リクルートワークス研究所研究員/アナリスト
1985年生まれ。一橋大学国際公共政策大学院公共経済専攻修了。厚生労働省にて社会保障制度の企画立案業務などに従事した後、内閣府で官庁エコノミストとして「経済財政白書」の執筆などを担当。その後三菱総合研究所エコノミストを経て、現職。著書に『統計で考える働き方の未来 高齢者が働き続ける国へ』(ちくま新書)、『ほんとうの定年後 「小さな仕事」が日本社会を救う』(講談社現代新書)、『「働き手不足1100万人」の衝撃』(プレジデント社)など。
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(リクルートワークス研究所研究員/アナリスト 坂本 貴志)
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