陰湿すぎて大河ドラマでは描けない…紫式部が年増の女房に匿名で贈りつけたすずり箱のコワすぎる中身
プレジデントオンライン / 2024年11月17日 8時15分
※本稿は、服藤早苗『平安王朝の五節舞姫・童女』(塙選書)の一部を再編集したものです。
■本来は秋に米の収穫を祝う神事が、少女たちのミスコンに
五節舞姫(ごせちのまいひめ)は、華麗な衣装を身に纏(まと)い、大勢の付添いを従え、宮中に入る。
紫式部、清少納言など、平安中期の女房たちや貴族層にとって、11月中丑~中辰に行われる五節行事は、1年で一番華やかで待ち遠しい年中行事になっていた。物語文学の『うつほ物語』『源氏物語』、歴史物語の『栄花(えいが)物語』にも、宮中に集う男女が詠んだ和歌にも、そして男性の日記である記録や文書類にも多く登場する。
天皇がその年に収穫された米の新穀などを神に供えて感謝の奉告を行う新嘗祭(にいなめさい)の翌日の辰日の豊明節会で五節舞を舞うことが、9世紀にはじまったと思われる五節舞姫の本来の任務であった。ところが、殿上人(てんじょうびと)や蔵人(くろうど)の酒宴がはじまり、院政期には、肩脱ぎや乱舞などの、どんちゃん騒ぎが定着する。
平安時代には、農耕儀礼にもとづく一年で最も大切なはずの神事である新嘗祭への天皇が次第に減少していく。それに比して、殿上人たちが、飲み・歌い・舞う淵酔(えんすい)(酒宴)がより賑(にぎ)やかに、しかも多くの場所で行われるようになり、天皇もその方を楽しむ。
■10歳前後の舞姫たちが顔を見られ、美醜をジャッジされた
まさに神事から娯楽への変容である。この殿上人たちの酔っ払ったしどけない姿での歌や舞を、神事と直結させる説が出されているが、淵酔の成立過程や具体的な行動を史料にもとづき分析し位置づけてはいない。本当に、このどんちゃん騒ぎが神事なのであろうか。
娯楽のひとつとして、童女御覧がはじまる。「平安時代の美人コンテスト」と命名した研究者がいたが、顔をさらすことが恥とされた平安時代に、10歳前後の現代なら小学生の少女が、扇を取られて顔を見られ、「醜(みにく)い」と列席する天皇や上層貴族、あるいは中宮・皇后や女房たちに、頤(おとがい)(あご)をはずして笑われるのである。「美人コンテスト」と断言する男性の視線や態度こそ問われなければならない。見る男性と特権女性、見られる童女、そこには非対称で差別的なジェンダー構造が、身分というねじれを含みつつ、透けて見える。
一条天皇と左大臣藤原道長の時代には、「左京の君事件」と呼ばれる有名な出来事があった。「五節は二十日に参る」ではじまる『紫式部日記』の五節舞姫で起きた事件である。
■藤原彰子がひとりめの親王を産んだ年に起こった「いじめ」
五節は二十日にまいる。侍従の宰相に、舞姫の装束などつかはす。右の宰相の中将の、五節にかづら申されたる、つかはす。つかはすついでに、はこ一よろひに薫物入れて、心葉、梅の枝をして、いどみきこえたり。にはかにいとなむつねの年よりも、いどみましたる聞こえあれば……。
現代語訳「五節舞姫は、20日に参入する。参議(さんぎ)藤原実成(さねなり)に、一条天皇中宮藤原彰子(しょうし)様が舞姫の装束などをおつかわしになった。参議右中将藤原兼隆(かねたか)からは、五節舞姫の日陰の蔓(かずら)を所望されたのでおつかわしになった。持参させるついでに、箱一対にお香を入れ、飾りの造花は梅の花の枝をつけて、姸(けん)を競うようにしてお贈りになった。さしせまって急に用意される例年よりも、今年は一段と競い合って立派だと評判で……。」
『紫式部日記』、寛弘5年(1008)11月20日丁丑の記事である。この年の9月11日、彰子は一条天皇皇子敦成親王(あつひらしんのう)(のちの後一条天皇)を出産し、11月17日、親王とともに一条院里内裏(さとだいり)に入っていた。一条天皇、左大臣藤原道長や正妻源倫子、中宮の役所の人々、女房たち、その他、朝廷中が喜びで沸(わ)き返っていた。だから、五節舞姫献上者も腕によりをかけて準備をする。舞姫の衣装や装飾品などは、中宮から下賜(かし)され、ついでにお香も副(そ)えられている。
■紫式部は、男性に顔面チェックされる舞姫に同情するが…
現代語訳「当日は、中宮様の御座所の向かい側にある立蔀(たてじとみ)に、隙間もなくずっと続けて灯(とも)した火の光が、昼よりもきまりが悪いほど明るく照らしているその所を、舞姫がしずしずと入場してくる様子など、『まあひどい。無情な仕打ちだこと』と思うが、他人事ではない。これほど、殿上人が面と向かって顔をつきあわせたり、脂燭(しそく)を照らしていないだけのことなんだわ。舞姫は几帳(きちょう)を引き回して、隠してゆくといっても、なかのだいたいの様子は同じようにあらわに見えることだろうとわが身について思い出すにつけても、胸がふさがる気がする。」(『紫式部日記』11月20日条の続き)
脂燭で明るく灯された筵道(えんどう)(むしろを敷いた道)を、多くの殿上人や女房たちが見守るなか、舞姫が周囲を几帳で囲まれつつ歩いて入場する様子を見て、先日中宮様に同行して同じ筵道を歩いた自分に思いをいたし、男性に顔を見られる女房つとめを自省する。紫式部ならではの、著名な描写である。
■4人の貴族が献上した舞姫とお付きの者たちを一条天皇も見る
舞姫は内裏の北の朔平(さくへい)門・玄輝(げんき)門を通って、常寧殿(じょうねいでん)に設営された五節所(ごせちしょ)に入る。里内裏でも、北門を内裏の各門に擬(なぞらえ)え、五節所まで筵道が敷かれる。舞姫は几帳に囲まれたなかを歩くが、当然透(す)けて見える。
舞姫一行の参入を、一条天皇も中宮殿舎にやってきて御覧になる。道長も、女房たちも胸をときめかしながら見守る。この年の舞姫献上者は、参議右中将藤原兼隆、参議侍従藤原実成、尾張守藤原中清(なかきよ)、丹波守高階業遠(たかしななりとう)の4人だった。各舞姫1人に、傅(かしづき)女房が6~12人、童女(どうじょ)2人、下仕(しもつかえ)2~4人、他に樋洗(ひすまし)などが付き従う。
兼隆の傅たちは申し分ない。樋洗の2人も田舎びて整っている。実成の傅たちは、現代的で趣があり10人いる。業遠の傅たちは、錦の唐衣(からぎぬ)に衣装を幾重も着て身動きも取れない。中清の傅たちは、背丈も同じにそろってまことに優雅で奥ゆかしい、と続く。
なお、丑(うし)日の夜、舞姫全貝がそろうと、常寧殿に設置された帳台で帳台試(ちょうだいし)とよばれる、いわば舞合わせをするが、『紫式部日記』には記載がない。
■皇子を得て絶頂期の道長、紫式部も女房仲間と共に見物する
翌日の寅日(11月21日)は、天皇の前で予行演習をする御前試(ごぜんし)で、中宮彰子は清涼殿(せいりょうでん)に行き、天皇と一緒に見る。紫式部たち女房も道長にせかされて、清涼殿に行き見る。中清が献上した舞姫は、気分が悪いと退出していく。若い殿上人たちは、もっぱら五節所の簾(みす)などの調度品や傅たちの髪や物腰などの噂話(うわさばなし)にあけくれる。
かからぬ年だに、御覧の日の童女の心地どもは、おろかならざる物を、ましていかならむなど、心もとなくゆかしきに、歩みならびつつ出で来たるは、あいなく胸つぶれて、いとほしくこそあれ。さるは、とりわきて深う心よすべきあたりもなしかし。
卯(う)の日(11月22日)の童女御覧を記した紫式部の感慨である。
現代語訳「例年でさえ、御覧の日の童女の気持ちは並大抵(なみたいてい)でないのに、今年はどんな気でいるのだろう、と気がかりだったのに、童女たちが並んで歩いてきた様子は、胸が締めつけられ、可哀想(かわいそう)である。といっても、とりわけ深く心を寄せなければならない筋合いでもないのよ。」
■紫式部は童女たちを批判するが、すぐに我が身を振り返る
紫式部は最後は身分がより下の童女たちを突き放す。その後、みなが自信を持って選んだ童女なので優劣がつけられないこと、扇も満足に持たせず昼日中(ひるひなか)に大勢の殿方がいる所で競い合うことも気後れがするに違いないこと、など同情を寄せている。
さらに、丹波守業遠の童女は青い白橡(しろつるばみ)の汗衫(かざみ)、参議兼隆のは赤色、参議実成のは濃きあこめ、尾張守中清のは葡萄染(ぶどうぞめ)と衣装や色合を詳細に記し、「業遠の童女の容貌は整っていない」「下仕(下女)のなかに容貌の良いのがいて、六位蔵人が扇を取ろうとすると自分から進んで扇を投げて顔をさらしたのは、あまりに女らしくない」、などと童女や下仕の容貌を評価したうえで、自分の女房つとめを内省し自己批判さえはじめる。
実成が献上した舞姫付き添いの傅のなかに、もと天皇付き女房で、今は女御(にょうご)(天皇の妻)藤原義子(ぎし)付きの左京(さきょう)の君(きみ)という名の女房がひどく物慣れた様子で仕えていた。紫式部他の女房たちや顔見知りの殿上人、中宮彰子まで一緒になって、皮肉を込めた歌や扇を贈る。今も変わらぬ女性同士の嫌がらせである。
■中宮彰子や紫式部までいじめをした?「左京の君事件」
五節舞姫参上、御前試(ごぜんのこころみ)、童女御覧などを見て、紫式部は人前にさらされる舞姫や童女に同情しつつ内省する。
ところが、実成が献上した舞姫の付き添いの中に実成の妹で弘徽殿女御義子の女房だった「左京の君」を見つけると、紫式部をはじめ女房や殿方、さらに彰子までもが一緒になって、「女盛りを過ぎた」左京の老いを揶揄(やゆ)するために不老不死の仙人の住む蓬萊(ほうらい)の絵の扇や日陰の蔓、不格好に細工した飾り櫛、伊勢大輔に書かせた「あなたの日陰の蔓は目立ちます」と嘲弄(ちょうろう)する和歌、体裁悪く結び入れた手紙などを硯筥(すずり箱)のふたに入れ、匿名で贈り届ける悪戯(いたずら)をしたという。
■彰子に追いやられた女御の女房を「老けて見える」とあざ笑った
彰子入内後はほとんど参内できない女御義子の女房で、五節舞姫の付き添いとして久方ぶりに参内した女性に対するなんともひどい悪戯である。
女房生活で意地悪な陰口や嫉妬に嫌気を覚えつつも、他者へは同じ行為をする紫式部たち女房社会の陰湿な側面があらわである。ところが、これを見た義子の父・公季は、彰子からの贈物と勘違いし、筥のふたに銀製の冊子箱を置き、箱の中には舶来品の沈香製の櫛や白銀製の笄(こうがい)などを入れた豪華な返礼や、『蜻蛉日記』作者の兄弟で有名な歌人の藤原長能(ながとう)作の返歌を入れ、賀茂臨時祭使だった(彰子の実弟で道長の五男の)教通に贈ってしまう。
このエピソードについてはすでに多くの研究があり、多様な解釈がなされている。中宮彰子は「扇なども沢山(たくさん)差し上げなさい」と言葉をかけているので、一緒に悪戯をしたのかと驚いたが、紫式部は「これはほんの私事です」と答えており、彰子は事情を知らなかったようである。
皇后定子が遺した敦康(あつやす)親王や一条天皇亡き後の定子兄弟を庇護(ひご)する彰子の姿からして、本当に悪戯を知らなかったのではないかと推察したい。
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歴史学者
1947年生まれ。埼玉学園大学名誉教授。専門は平安時代史、女性史。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。文学博士。著書に『家成立史の研究』(校倉書房)、『古代・中世の芸能と買売春』(明石書店)、『平安朝の母と子』『平安朝の女と男』(ともに中公新書)、『藤原彰子』(吉川弘文館)など。
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(歴史学者 服藤 早苗)
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