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「たくさんの本を読む」よりずっと効果的…賢い子が育つ家庭が"読書のあと"にやっている"親子のやりとり"

プレジデントオンライン / 2024年11月4日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/XiXinXing

頭のいい子を育てるにはどうしたらいいのか。早稲田大学系属早稲田実業学校初等部教諭の岸圭介さんは「まずは読解力を身につけることが大切だ。本をたくさん読ませるよりも、読書のあとの親の声かけが重要になる」という――。(第3回)

※本稿は、岸圭介『学力は「ごめんなさい」にあらわれる』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。

■「本好き=読解力が高い」とは言えない理由

「うちの子は読解力がなくて困っているのよ」と愚痴をこぼす親がいます。

実際に悩んでいる中・高生の方もいるかもしれません。こんな声には耳をふさぎたくなりますよね。続けて、決まり文句のようにこんなことばが続きます。

「……だって、ぜんぜん本を読まないから」

国語のテストで点数がとれないという壁にあたると、どうしても読書経験の問題に置きかえられることが多いものです。本を読む習慣がないことが原因で、読解力が低いという結果が生まれると判断するのは自然なことでしょう。

たしかに読書経験は大事です。家庭の蔵書数と子どもの読解力には相関関係があるとも言われています。

書物を通じて新たな知見を得たり、ことばを増やしたりすることもありますよね。実際に物知りで大人顔負けの知識をもっている子もいます。本好きの中には「得意科目は国語」と高らかに宣言をする人もいるでしょう。

でも、本好きが国語のテストでいつも高得点をとれるわけではありません。

■「もっと本を読んだほうがいい」は助言になっていない

中・高生になると、テストで扱う文章も難しくなりますよね。低い点数をとってしまったときに、先生から「もっと本を読んだ方がいい」なんて声をかけてもらっても、まったく具体的なアドバイスにはなっていないと感じることでしょう。

原因は読書量の問題だけではないはずですよね。こうした単純化は、いかに人が「読む」という行為の実態をわかっていないかを示しています。

日本に生まれていれば、多くの人が日本語を不自由なく操ることができるでしょう。

しかし、国語のテスト問題は日本語で書いてあるにもかかわらず、全員が正解にはたどりつけるわけではありません。つまり、読めないのです。

これからテストに向けたテクニックの話をしようというわけではありません。

むしろ、テクニックという安易な話に耳を傾けるのではなく、「読むこと」の実態について考えたいのです。そのために、字が読めるようになったばかりの子どもに注目してみましょう。

子どもは声に出して読むことを好みます。「お父さん、ちゃんと聞いていてね」なんて言いながら、はりきって読んだ経験があるのではないでしょうか。誰かに認めてもらうことが、一つのモチベーションにもなるものです。

■「すらすら音読できる子」がハマる落とし穴

さて、次に例に挙げるのは、音読の宿題に取り組む子どもとお父さんのやりとりです。短い会話ですので、まずは目を通してみてください。

「宿題の音読はできた?」

お父さんが気になった様子でたずねます。

「うん、さっき一人のときにきちんと読んだよ」
「……もう読んだの? 聞きたかったなあ」

どうしても確認をしたくて、お父さんはもう一度読むことをうながします。

「しょうがないなあ、いいよ! ちゃんと聞いていてよ……『おじいさんが……』」

お父さんは、子どもが一生懸命に読む様子を目にしました。途中でつっかかる様子も見られず、漢字の読み方があやしいところもありません。内心ほっとしたようです。

「すごい、上手じゃないか! すらすら読めたから、びっくりしたよ!」
「だから、読めるって言ったでしょ! 得意だもん。もう一回読んであげようか?」

お父さんはうなずきながら、子どもにほほえみかけました。

――いかがでしたか。子どもはお父さんに認めてもらえて、うれしかったことでしょう。日常にこんなやりとりはありますよね。でも、この事例にもことばの意味と価値の問題が隠れています。

一見、何気ないやりとりのように感じられますが、このとき子どもは、「読む」ということばをどのように学習しているでしょうか。注目したいのは「読む」の内容です。

■上手に本を読めても、本の内容は読めていない

音読したかどうかを問われて、子どもは「きちんと読んだよ」と発言をしています。子どもにとってみれば、自分の音読に問題を感じることはなかったのです。

その後、お父さんは実際に確認したかったので、もう一度読むことをうながしていますね。子どもの音読を耳にして、最後にはお父さん自身も「上手じゃないか」と評価しています。

これまでのやりとりをふり返ってみても、お父さんと子どもの「読む」ということばの意味合いにずれはありません。しかし、今回はそれが問題なのです。

お父さんは、子どもが「すらすら読めたから」おどろいたようです。よどみなく読むことができたことを褒めているのです。

少なくともこの音読の宿題を通じて、お父さんが子どもに与えている「読む」ということばの意味と価値は、「書かれている文章を声に出して表すことができる」という内容です。子どもはそのように学習しています。

もちろん、間違ってはいません。でも、このまま成長していくと、子どもは「読めない子」になっていく可能性があるのです。

■間違えずに読めることも大切だけど…

「読めているのに、なぜ読めない子になるの?」と思われるかもしれません。ここで「読む」ということばの意味をもう少しほり下げてみましょう。

音読をする際、ことばの読み方やイントネーションを正確に発音することは大切です。

流暢(りゅうちょう)に文字や文章を読めているのは、これらができている証拠でもあります。音声で表現するためには、間違えずに読もうとする意識も欠かせないものです。

本を読む男児
写真=iStock.com/somethingway
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/somethingway

一方、「読む」という行為は、音声だけの問題にとどまりません。

例えば、物語であれば登場人物の気持ちの変化に気がついたり、説明文や評論文であれば文章の構成や展開を掴んだりすることも大事になりますよね。これは声に出してあらわすこととはまた別問題です。

ややこしいのは、どちらも「読む」という同じ言い方をすることです。

もちろん、これらは明確に区別できるものではありません。音声にできるということは、内容理解をふまえていることも当然考えられるでしょう。

物語であれば、中心人物が誰かに傷つけられたり、裏切られたりすることがあります。気持ちが落ち込む場面の台詞(せりふ)であれば、明るい声では読まないですよね。

物語の流れが分かっていれば、時間や空間の移動をともなう場面の区切り目では、少し間をとることもあるかもしれません。内容や形式の理解が読むことに必ず反映されるはずです。

けれども、ただ音声を聞いただけでは、本人がどのように理解を深めているかは正確にわからないものです。

■「すらすら声に出して読む」が目的になっている

世の中には「音読のプロ」もいます。すばらしい音読は、人の心に訴えかけるものがあります。当然、本当に上手な読み手であれば、内容や形式を正しく理解できていることが前提となるはずです。

深みのある物語の音読には、登場人物一人ひとりの背景を考慮する繊細さも求められるでしょう。

でも、どんなに上手な音読を耳にしたとしても、子どもはその表現意図までは考えが及ばないこともあるでしょう。だから、子どもにしてみればそれらしく声に出して表すことが「読むこと」だと自然に学習している可能性もあるのです。

ときに見られるのは、すらすらと音読しているのに登場人物の心情が掴めていなかったり、文章構成の意図がわからなかったりする子の存在です。

これは「読む」ということばの理解が一つの原因にもなっています。

すらすら読めるということは、裏を返せばそこにひっかかりがないということです。なぜなら、声に出して読むこと自体が目的になっているからです。

しかし、ことばの意味を慎重に吟味しようとすれば、「この台詞は、もう少し声の大きさを抑えて言った方がいいかな」、「場面の雰囲気を出すためにも、ここはゆっくり読もう」などと読み方を考えるはずです。

だから、むしろつっかかった方が読めているということもあるはずです。

慎重に子どもの「読む」という行為を解釈すれば、音読が上手な子は「文字を読めてはいる。でも、内容はわかっていないかもしれない子」とも言い換えられるのです。

■音読した「内容」を子どもに質問してほしい

大人が「すらすら読めること」を強調しすぎてしまうと、子どもは音声としてなめらかに読むことばかりに意識が向いてしまいます。先に挙げたお父さんと子どもの音読のやりとりの例をもう一度見返してみてください。

単純に表面的な音読だけを褒めれば、子どもは「ことばや文章を通じて感じとることや考えること」からだんだんと遠ざかっていく危険性があります。

でも、親が子どもに身につけさせたいと願っているのは、こうした物事を考える土台となる読む力でしょう。

一方で、ことばや文章から感じたり、考えたりしながら読むためには「何を読みとるか」という観点を知らないとむずかしいものです。物語であれば「主人公(中心人物)」、「登場人物」、「語り手」、「場面」など、理解の手がかりとなる最低限のことばを知っておくことは必要です。

「主人公に何らかの変化が起きる」という物語の基本的な枠組みに関する理解も求められます。いい物語だと感じたり、評価をしたりするためには、物語に対する一定の基準がなければいけません。

こうした知識はさまざまな読書を通じて、経験的に身につくこともあります。しかし、自力で気がつける子はそれほど多くはありません。

だから、子どもに自覚をさせたければ、内容に関わる質問をすればいいのです。

「登場人物の気持ちを考えると、この台詞はどう読めばいいかな?」、「物語のはじめと終わりで、主人公はどう変わった?」などといった感じです。質問を通じて、自然と子どもに読みの観点を与えていくのです。

こうした問いかけをしてみると、子どもが本当に読めているかどうかがわかるはずです。その場合、「読む」の意味は「文章に書かれている内容を正しく理解しながら、声に出して表現できる」になります。

小さな女の子と母で読書
写真=iStock.com/kool99
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kool99

■大人の声かけで「読む」の意味が広がる

先ほど音読の例で挙げた「読む」との微妙な違いは分かりますか。

「内容を正しく理解しながら」という点が加えられています。物語であれば、登場人物のわずかな気持ちの変化に気がついているのとそうでないのとでは、理解度はまったく違ってくるはずです。

岸圭介『学力は「ごめんなさい」にあらわれる』(筑摩書房)
岸圭介『学力は「ごめんなさい」にあらわれる』(筑摩書房)

例えば、何気ない台詞である「おはよう」でも、文脈によって意味は大きく異なります。

朝、お母さんに叱られた子が教室に入ってくる「おはよう」と、途中で忘れ物に気がついた子の「おはよう」は、ことばとしては同じです。両方ともに気持ちも落ち込んでいます。しかし、音読の仕方は微妙に違うものになります。

前者の「おはよう」であれば、お母さんとの関係も音読には反映されるはずでしょう。本人が叱られた内容に納得しているかどうかも表現にとっては重要です。

後者の「おはよう」であれば、忘れ物の中身も音読に影響されるべきでしょう。一日を左右するような忘れ物であれば、ただ落ち込む程度の表現ではすまされないはずです。

このように「音読の表現」と「内容や形式の理解」が一致することが理想的な読みといえるでしょう。

もちろん、本文の理解ができていても、声に出して表現することを苦手とする子もいます。その場合は、内容がわかっていることが確認できれば、その事実を褒めてあげればよいのです。

子どもは大人からの内容に関わる問いかけを通じて、「読む」ということばの意味を広げていきます。ただ声に出して読めばいいものではないと学んでいくのです。

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岸 圭介(きし・けいすけ)
早稲田大学系属早稲田実業学校 初等部 教諭
1979年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業。早稲田大学大学院教育学研究科教科教育学専攻博士後期課程修了。専門は国語科教育学、博士(教育学)。藤子・F・不二雄による『ドラえもん』(小学館)を小学校の教科教育の観点から編集した『学年別ドラえもん名作選(全6巻)』シリーズの監修及び解説の執筆、『ドラえもん 大ぼうけんドリル』シリーズの監修を務める。

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(早稲田大学系属早稲田実業学校 初等部 教諭 岸 圭介)

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