マッカーサー草案を翻訳した日本国憲法は「誤訳」だらけ…改正議論の前に「校正」が必要である理由
プレジデントオンライン / 2024年10月27日 7時15分
※本稿は、髙橋秀実『ことばの番人』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。旧字体・異体字が正しく表示されない場合があります。
■「誤植」だらけの日本国憲法
誤植といえば、もうひとつ気になるのが法律だった。連日『官報』で訂正されているように、法律には誤植が異常に多い。なぜこんなに間違えるのかと疑問を抱いていたのだが、あらためて調べてみると、そもそも日本国憲法にも誤植があるらしい。
日本国憲法は日本国の「最高法規」。言ってみれば、社会の間違いを正す最高位の法律である。制定当初(1946年)に「われわれの日常生活の指針」(憲法普及會編『新しい憲法明るい生活』昭和22年)だと宣言され、金森徳次郎国務大臣(当時)などは「(この憲法は)國民の結晶した精神の表現」(山浦貫一著『新憲法の解說』內閣発行 昭和21年)であり、「國民が精醇化(せいじゅんか)された精神を以(もっ)て之(これ)に對面するとき、卒讀卒解であるべき筈(はず)である」(同前)と訓戒した。つまり日本国憲法は日本国民の精神そのもの。私たち自身が映し出された不磨の法典なのだが、そこに誤植があるというのだ。
「明らかなのは、第7条です」
さらりと教えてくれたのは元新潮社校閲部の小駒勝美さん。校正者の間では常識らしいのである。第7条は「天皇の国事行為」を定めており、その第4項にこうある。
文中に「国会議員の総選挙」とあるが、「総選挙」というと、衆議院議員選挙のみを示すことになってしまう。なぜなら参議院議員選挙は憲法(第46条)に規定されている通り、半数改選で全体の総選挙がないからだ。しかし実際には参議院選挙でも天皇による公示が行なわれているわけで、この「総選挙」の「総」の一字が誤植。この憲法が制定されるまで参議院はなかったので、うっかり見落としたらしい。
■憲法は「改正」ではなく「校正」が必要?
それはダメでしょう。
私は思わずつぶやいた。盛んに改正論議が繰り広げられているが、それ以前に校正しなきゃダメでしょう、と。
調べてみると、もうひとつ誤植と公言されている条文があった。
内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。
(第72条)
どこが誤植かというと句読点の欠落。元内閣法制局長官の大森政輔によると、「内閣を代表して」の後に「、」を「打ち忘れた」(『法の番人として生きる――大森政輔 元内閣法制局長官回顧録』岩波書店 2018年)そうなのである。正しくは「内閣総理大臣は、内閣を代表して、議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する」。つまり「内閣を代表して」は、議案の提出、国会への報告、行政各部の指揮監督、すべてにかかるはずなのに、「、」を打ち忘れたために、議案の提出のみが閣議決定を必要とし、それ以外は内閣を無視できるかのような条文になってしまったのだ。
そこで時の内閣は同時期に制定された内閣法に、わざわざ「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(第6条)という文言を入れたらしい。句読点の打ち忘れをこっそり他の法律で補正していたのである。
他にも誤植があるのではないか。
■誰もが校正したくなる「奇妙な文体」
私はあらためて日本国憲法を素読みしてみることにした。本などの印刷物の場合、印刷で誤植が生じる可能性もあるので、デジタル庁が提供するe-Gov法令検索のプリントアウトも用意した。そして条文に定規を当てて読み始めたのだが、いきなり前文から校正したい衝動に駆られた。
文章が異常に長い。長すぎて主語の「日本国民」が結局何をするのか、よくわからなくなる。行動し、確保し、決意し、宣言し、確定する、という具合に述語が転々として転びそうになるのである。制定当時、法制局第一部長だった佐藤達夫によると、日本国憲法は法令としては「革命的な企て」(佐藤達夫著『日本国憲法誕生記』中公文庫 1999年 以下同)である「ひらがな口語体」を採用したという。それまでのカタカナ文語体を捨て、誰もが読める民主的な条文を目指したそうだが、実際に一字一句読んでみると、読みやすいがゆえにかえってわかりにくい。誰もが読める、というより、誰もが校正したくなる奇妙な文体なのである。
■GHQは「日本語を直しに来たのか」?
そもそも日本国憲法が成立した「根本の原因」はポツダム宣言の受諾だったという。第二次世界大戦で負けた日本は、軍備全廃、軍国主義の一掃、基本的人権尊重の確立などを要求するポツダム宣言を受け入れた。そしてGHQの占領下に置かれ、ポツダム宣言に基づく新たな憲法の作成を迫られたのである。
その原案がいわゆる「マッカーサー草案」。GHQ最高司令官のマッカーサー元帥が英語で起草した条文で、「字句その他の調整はしてもよいが、基本原則と根本形態は厳格にこれに準拠」するように命じられたらしい。日本政府は早速これを日本語に翻訳し、字句を調整して、GHQに提出。GHQはそれを再び英語に翻訳し直してチェックする。憲法担当の松本烝治国務大臣(当時)がGHQに対して「日本に日本語を直しに来たのか」と激昂するほどの議論があったそうで、その末に「憲法改正草案」が完成。法的な手続きとしては、それまでの大日本帝国憲法を改正するという形式で同草案は第90回帝国議会(当時は貴族院と衆議院)にかけられた。憲法改正の審議ということになるのだが、あらためて議事録を読んでみると、それはまるで字句をめぐる校正作業のようなのである。
■「の」「と」をめぐる論戦が繰り広げられた
例えば、前文の「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し」という一節の「わたつて」について、こんな質疑応答(衆議院 帝国憲法改正案委員小委員会 昭和21年7月26日 帝国議会会議録検索システム 国立国会図書館 以下同)が展開した。
【高橋(泰)委員長代理】内容はさうなりますね
【犬養委員】「わたつて」を使へば「の」でせうね
【廿日出委員】「日本國全土に及ぶ」と云(い)へば一番氣持が好い
【大島(多)委員】僕は「わたつて」で宜からうと思ふ、「わたつて」と云ふのは「確保」を修飾して居ると云ふことになる
【犬養委員】(中略)「成果と惠澤とを國全土にわたつて」と云ふやうになる
【林(平)委員】「確保」と云ふのは二つに掛る意味ですか、「成果」と「惠澤」と……
【江藤委員】「確保」はさうでせう
【林(平)委員】それでは「惠澤とを」の「と」はなくて宜いでせうね
【佐藤(達)政府委員】今の「と」の御話は、「惠澤と」の「と」ですか
【林(平)委員】さうです
【佐藤(達)政府委員】(中略)此の草案の行き方は何と何と云ふ場合、後の「と」は使ひませぬで……
■「源氏物語のような憲法」という指摘
法律論議というより助詞の「の」「と」をめぐる論戦。「わたつて」には「の」を付けたほうが正確になるが、「の」が付くと、それは「自由」を限定的に形容してしまう。「わたつて」なら「確保」につながるが、実は「確保」はその前の「諸国民との協和による成果」をも受けており、ならば「恵沢を」は「と」を挿入して「恵沢とを」と直すべきだが、法制局のルールでは並立するふたつめの言葉には「と」を入れないので、「成果」のほうを受けにくくなる。間違いのないように英語の草案を遂語訳しているのだが、それがアダとなって確保する内容が欠落するようなのだ。
之を讀みますると、洵(まこと)に冗漫であり、切れるかと思へば續き、源氏物語の法律版を讀むが如き感がある
(衆議院 本会議 昭和21年6月26日)
源氏物語のような憲法。鈴木義男議員がそう指摘したように、草案は何度読み直しても意味がわからない冗文として批判された。だらだら続く文章が「牛の涎(よだれ)」(同前)のようだ。翻訳臭がする。さらには「厳粛な信託によるもの」「原理に基くもの」などと「もの」が多すぎる。「委ねる」ばかりで自主性がない。品位がない。滑らかさや明るさに欠ける。泣き言のようだ……。中でも厳しかったのは「誤訳」ではないかという指摘である。例えば、第14条の文章。
■国民は「貧乏で暮す權利を持つて居る」
問題は「差別されない」という一節。マッカーサー草案のほうには「No discrimination shall be authorized or tolerated in political……」とある。つまり、いかなる差別も許容・黙認されてはならない、と禁じている。国家や社会に対して差別の殲滅(せんめつ)を厳命しているのだが、この訳文は「差別されない」という状態を表わしている。差別を禁じるのではなく、すでに差別されない状態であるかのような文章なのだ。実際に差別が発覚した場合、原文では国家に対し、その差別を見過ごしてはいけないと命じることになるのだが、「差別されない」と設定されると差別されないはずなので、差別が勘違いに思えてくるのだ。
第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」も然(しか)り。草案は「laws shall be designed for the promotion and extension of social welfare……」という具合に、法律の立案にあたっては社会福祉の増進などを考慮しなければいけないと定めている。あくまで立法の指針を規定しているだけで、国民の権利に言及しているわけではない。こう訳してしまうと牧野英一議員が指摘するように、国民が「貧乏で暮す權利を持つて居る」(貴族院 帝国憲法改正案特別委員会 昭和21年9月19日)ことになり、生存権が「貧乏権」にすり替えられてしまうのである。
■男女の不平等は憲法誤訳が要因!?
これらは「である」文体というべきなのだろう。「差別されない」「権利を有する」などは「○○である」という状態を表わしている。政治学者の丸山眞男によれば、これは江戸時代から続く身分制の名残(なご)り。身分や属性を定めれば、おのずと社会が安定するという発想なのだ。一方、英文草案のほうは「する」文法。○○をする、○○してはいけない、と行動を規制したり許容したりする論理。「差別をしてはいけない」「考慮して立法しなければいけない」という具合に、行動によって社会を形成していくのである。もしかすると日本国憲法は原文の「する」文法を「である」文法に変換したのかもしれない。
婚姻を定めた第24条にも誤訳の疑いが持たれた。同条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として」と夫婦双方の権利の平等を規定しているのだが、その第2項にこうある。
この「本質的平等」は原文では「essential equality」。議員たちはこれを「本質的」ではなく、「原則的」あるいは「人格的」と訳すべきではないかと追及したのだ。なぜなら「女性に於(お)きましては、姙娠と出産及び育兒と云ふ特殊にして重大な使命を持つて居る」(加藤シヅエ議員 衆議院 帝国憲法改正案委員会 昭和21年7月6日)から。男女は本質的に不平等。不平等だからこそ人格的、原則的な平等を目指すべきなのであり、この条文のように男女が本質的に平等であると規定してしまうと、それを前提として社会制度も設計されることになり、本当の平等は実現しない。「平等にする」ということが条文の眼目なのに、「平等である」に変換すると現状維持でよいことになる。平等を訴えながら実は不平等を生み出す誤訳。誤訳というより論理的な誤ちをおかしているのだ。
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ノンフィクション作家
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『からくり民主主義』『趣味は何ですか?』『不明解日本語辞典』『悩む人』『道徳教室』『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』など多数。
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(ノンフィクション作家 髙橋 秀実)
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