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ベンチャー社長の時よりも幸福に生きている…がんと5回闘い、打ち勝った53歳が行き着いた"本当の幸せ"

プレジデントオンライン / 2024年11月2日 16時15分

2度目の闘病で体重が10kg落ちた - 写真提供=高山知朗

がん患者は、心身ともに大きなストレスに晒される。起業家の高山知朗さんは、2011~2024年の間に脳腫瘍、悪性リンパ腫、急性骨髄性白血病、大腸がん、そして肺がんと5度がんを発症した。どうやって闘病生活を乗り越えたのか。著書『5度のがんを生き延びる技術 がん闘病はメンタルが9割』(幻冬舎)より、人生観の変化について紹介する――。

■日常が突然、崩れ去る「がん告知」

「がん」という病名を告げられたその瞬間、誰もが大きなショックを受けます。

日本人の2人に1人ががんになるとか、がんは治る病気になってきているという知識は、告知のショックの前ではあまり意味をなしません。これまでずっと遠くにあると思っていた「死」が、突然目の前に現れ、「自分はもうすぐ死ぬのかもしれない」という恐怖に頭の中が支配されるのです。

私はこの経験をしたことで、病気を乗り越えた今でも、いざというときに備えて心のどこかで準備をしているようなところがあります。人生いつ何が起こるか分からない、と。

別に再発の恐怖に怯えて毎日びくびくしながら暮らしているというわけではありません。それでも何かの折に、がん告知の場面を思い出すことがあります。当たり前の日常が突然崩れ落ちるあの瞬間が脳内に蘇ります。

そうすると、「目の前の日常は、決して当たり前ではないんだ。さまざまな巡り合わせの結果、奇跡的に与えられた、かけがえのない一日なんだ」ということを改めて思い出します。そして「今日も悔いのないように生きよう」と思うのです。

おかげで、がんになる前よりも、毎日を幸福に生きられるようになったと感じています。

■自分の人生は「無限」だと思っていた

若いころは、自分はなんとなく80歳過ぎの平均寿命くらいまでは生きるんだろうと、深く考えることもなく思っていました。そのころの自分にとって80歳というのは、遠くに霞んでほとんど見えないような年齢です。永遠のそのまた先のようなものです。

それはつまり、自分の人生には無限に時間があるのだと思っていたようなものです。

もちろん、人は誰でも死ぬし、永遠の命などないということは頭では分かっていました。しかし、具体的なイメージとして、自分が死ぬということを想像するのは難しいものです。家族の死に何度も直面しても、自分自身の死を意識することはありませんでした。

がんを経験すると、それが一変します。突然、自分の人生には残り数年しかないかもしれないと宣告されるのです。そこで、自分の人生の残り時間には限りがあるという現実に気づきます。

明日が来るのは当たり前ではないと気づき、人生の残り時間を意識するようになります。

誕生日のお祝いや、旅行などの楽しいイベントも、死ぬまでにあと何回経験できるだろうと考えます。

すると、一日一日が本当に大切なものになります。

人生が有限だと気づくと、残りの人生をより大切に生きていくことになるのです。

■墓石を押し返しながら生きている日々

1回目のがんである脳腫瘍を告知されたとき、「自分はあと2~3年で死ぬかもしれない」と思いました。そのときから頭の中に、自分の墓石のイメージが現れるようになりました。それは、硬く黒光りするイメージとして、自分の身に迫っていました。

その後、脳腫瘍の摘出手術が成功して、墓石を向こうに押し返しました。

脳腫瘍のビフォアーアフター
写真提供=高山知朗
脳腫瘍のビフォアーアフター。右が手術前、左が手術後のMRI画像で、白い部分の腫瘍が切除されて、左では黒い穴が開いている - 写真提供=高山知朗

しかし2年後、2回目のがんである悪性リンパ腫が見つかって、また墓石が自分の目の前に近寄ってきました。

でも抗がん剤治療を受け、寛解となったことで、また墓石を大きく押し返しました。全力で押し返しはしたものの、その代償として、体には大きなダメージが残りました。

4年後には3回目のがんである急性骨髄性白血病となり、また墓石が大きく近づいてきました。

臍帯血移植を受けて、何度か墓石に押しつぶされそうになりながら、文字通り必死で押し戻しました。

■1人では手にできなかった「貴重な残り時間」

その3年後には大腸がん。4回目のがんで迫ってきた墓石は腹腔鏡下手術で押し返しました。

さらに4年後には肺がん。今度は胸腔鏡下(きょうくうきょうか)手術で押し返すことに成功しました。

墓石を押し返すと、その分だけ自分の持ち時間が伸びるわけです。ウォーキングで体力をつけるのも、日々少しずつ墓石を押し返しているのです。そうやって少しずつ墓石を押し戻しながら日々を送っています。

その結果、いつの間にか、治療から1年経ち、3年経って、そして再発率が大きく下がる5年という節目を、それぞれのがんについて越えてきたというように感じています。

医師、看護師、ドナーさんなどいろいろな方に一緒に墓石を押し返してもらったおかげで手にした、貴重な残り時間です。感謝しながら大切に生きなければいけないと思っています。

■「もっともっと」で幸せに近づけるか

ベンチャー企業の経営者だったころの私は、もっと売上と利益を増やし、もっとお客様を増やし、もっと社員を増やし、もっと給料を増やし……というように、「もっともっと」の人生でした。

ベンチャー企業の経営者だったころの高山さん
写真提供=高山知朗
ベンチャー企業の経営者だったころの高山さん - 写真提供=高山知朗

もちろん資本主義の世界で会社経営をしていく上で、これは間違ってはいません。特に若い会社には、成長志向は必要な要素です。

でも個人にとって、「もっともっと」を続けることが幸せに近づく道だとは限りません。物質的な世界の欲望は際限がないからです。

車を買えば、次はもっとグレードの高い車が欲しくなる。目指していたものを手に入れても、その満足感は長続きせず、すぐにもっと上が欲しくなります。

物質的な欲求には際限がなく、いつまでも満足できないのです。収入が2倍になっても、幸福感は2倍にはなりません。

それは、いつまで経っても幸せになれないということです。

さらに、もっと稼ごうと仕事で上を目指し続けるということは、責任とストレスも増え続けるということです。

私はそうした人生を送っていたさなか、海外出張中にスイスの空港で倒れ、最初のがんである脳腫瘍が見つかりました。まさに、新しい取引先と新しいビジネスの打ち合わせをした帰り道でのことでした。

■がんのおかげで「隠れた幸せ」に気付けた

それからがん闘病を繰り返す中で、本当の幸せは「もっともっと」を追求していた物質的な世界ではなく、当たり前の日常の中に隠れていたことに気づきました。

何気ない日常に隠れている、しみじみとした、胸の奥が温かくなるような幸福感は、「もっともっと」を必要としません。それだけで十分に幸せだと満足できるのです。

がんのおかげで、そういう大切なことに気づけたのは、今となっては本当によかったと思います。

5度のがんを乗り越えた高山さん
写真提供=高山知朗
5度のがんを乗り越えた高山さん - 写真提供=高山知朗

もちろんがんにならずに気づくことができたらよかったのですが、自分の性格上、心の底から当たり前の幸せの大切さを実感し、「もっともっと」から抜け出すためには、数度にわたるがん闘病が必要だったのだろうと今では思っています。命に関わるがんでもなければ、自分が命をかけて立ち上げた会社を手放すなどという決断はできなかったと思うのです。

■治療の「記念日」を家族と祝い続ける

がんに限らず、辛い闘病を経験した方の中には、治療を終えて日常生活に戻った後はもう闘病のことなど思い出したくもない、とお考えの方もいらっしゃると思います。

しかし、私の場合は治療の節目を「記念日」として大切にしています。

治療で乗り越えなければならなかった山場、あるいはマイルストーンともいうべきイベントの日を迎えるたびに、家族とお祝いしています。

例えば、1回目のがんである脳腫瘍が見つかったのは、オーシャンブリッジの創立記念日と同じ6月13日。手術で脳腫瘍を取ったのは7月4日のアメリカ独立記念日。2回目のがんである悪性リンパ腫では、完全寛解の日が11月26日。3回目のがんである白血病では、臍帯血移植の日が4月14日。そして生着日は私の誕生日と同じ5月6日。

こうした日には、これまで再発せずに無事に過ごせたことを感謝し、治療中、大変だった経験を思い出します。

脳腫瘍手術日の7月4日には、手術室の自動ドアを挟んで妻と1歳の娘とバイバイして別れたこと、手術後にICUで面会した妻が「無事に終わってよかった」と涙を流して喜んでいたことが記憶に蘇ります。

■当たり前の日常の価値を忘れたくない

移植日の4月14日は、移植患者にとっては第2の誕生日。臍帯血の入った太いシリンジを持った担当医MY先生の手元を思い出し、臍帯血ドナーさんに感謝します。近畿地方で生まれた当時1歳のA型の女の子の臍帯血をいただいたことで、私は生き延びることができました。その女の子とお母さんへの感謝の気持ちで、毎年この日は西に向かって頭を下げます。

高山知朗『5度のがんを生き延びる技術 がん闘病はメンタルが9割』(幻冬舎)
高山知朗『5度のがんを生き延びる技術 がん闘病はメンタルが9割』(幻冬舎)

こうして振り返る機会があると、お世話になった医師や看護師さん、ドナーさんをはじめとするみなさんへの感謝の気持ちが蘇るとともに、今の当たり前の日常が、どんなに貴重でかけがえのないものかを改めて実感できます。

人間は忘れていく生き物です。あんなに辛かった経験も、時が経つにつれ、その記憶は少しずつ鮮明さを失い、ぼやけたものになっていきます。そして今の生活を、当たり前だと誤解して過ごしてしまいます。

でも、記念日をお祝いすることで、辛かった経験を思い出すとともに、その辛い経験を乗り越えたからこそ、当たり前のように見える今があることを再確認できます。

だから、こうした記念日は私にとって、今の幸せを実感できる貴重な機会となっているのです。

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高山 知朗(たかやま・のりあき)
起業家、元がん患者
1971年、長野県伊那市生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)、Web関連ベンチャーを経て、2001年に30歳でITベンチャー企業の株式会社オーシャンブリッジを設立。11年、40歳で脳腫瘍(グリオーマ)を発症して手術を受け、腫瘍は全摘出されたものの視覚障害が残る。13年には悪性リンパ腫を発症し、約7カ月間の入院で抗がん剤治療を受け寛解に至るが、体力面の不安から17年会社をM&Aで売却。その直後に急性骨髄性白血病を発症し、臍帯血移植を受けて約8カ月の闘病の末に寛解に至る。20年には大腸がん(直腸がん)、24年には肺がんを告知されて手術を受ける。53歳の現在は、3カ月ごとに検査のため通院しながら、妻と娘とともに自宅で元気に暮らす。5度のがん闘病の記録をつづった「オーシャンブリッジ高山のブログ」は、がん患者とその家族から「勇気が湧いた」「希望の光が見えた」「冷静で客観的な文章で分かりやすい」と絶大な人気を誇る。著書に最新刊『5度のがんを生き延びる技術』や、『治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ』(ともに幻冬舎)がある。

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(起業家、元がん患者 高山 知朗)

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