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1日20時間働き、原価100%の商品もあった…愛知の小さなパン屋が5年で「日本一売れるパン屋」になるまで

プレジデントオンライン / 2024年11月1日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sami Sert

成功する企業は何が違うのか。「マジカルチョコリング」「ねこねこ食パン」などの大ヒット商品を生み出したパン専門店「アンティーク」を運営するオールハーツ・カンパニーは、もともと愛知県の1軒のパン屋から始まった。そこから売上高100億円の企業になるまでには、創業者・田島慎也氏の苦難の日々があったという――。

※本稿は、スピカコンサルティング食品業界支援部『VALUE UP 成功事例でわかる業界特化型M&Aと企業価値向上戦略 食品業界編』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。

■中途半端なサラリーマンにはなりたくない

2024年現在41歳。田島慎也氏は愛知県半田市の出身で実家は養豚業を営んでおり、決して裕福な家庭ではなかったという。一般的な家庭に育った彼は、20歳のときにわずか15坪のベーカリーから事業をスタートさせた。ここから一代で売上100億円超の企業をつくり上げ、その企業を巨額の企業価値で譲渡した後もなお、連続起業家として今ではグローバルな舞台で活躍している。そんな彼の経営者人生を振り返っていこう。

高校は進学校に通っていた田島氏は、競争の激しい高校生活の中で自分の人生に疑問を抱いた。

「このまま中途半端に大学に進学して、中途半端にサラリーマンになるくらいなら、自分の好きなことで手に職をつけ、身を立てたい」

ものづくりが好きだったことから、創造性が豊かなビジネスの世界に興味を持った。当時、高校2年生の田島氏にとって身近なビジネスは食の世界であり、食品業界での起業を考えるようになる。校則ではアルバイトが禁止されていたものの、教師に将来の夢を語り、説得することに成功した。この決断力と行動力は起業家としての素養があった証だろう。

■パン屋に惹かれ、大学進学をやめる

自分の進むべき道を決めるため、洋食店、パン屋、ケーキ店など、様々な場所で働いた。その中でも特にパン屋(ベーカリー)に強く惹かれた。

「パンは小麦粉という1つのものから、自分の発想次第でいろんなものをつくれる。そんなクリエイティブなところに魅力を感じました。店舗ごとに扱う商品や客層も異なっている業界なので、アイデア次第で勝負できます。スイーツなども考えはしたのですが、より多くの人が手にとってくれる客数の多い商売のほうが自分の志向には合っていました」

目標を定めたときの田島氏は本当に強い。リスクを取って挑戦することができる。もちろん考え抜いた末に勝算を持って挑んでいるのだが、田島氏は経営人生において常にリスクを取って挑戦してきた。

このときも、大学進学のための勉強を一切やめ、複数のベーカリーでアルバイトを掛け持ちし始めた。退路はすでに断っている。現地現物でベーカリーの経営ノウハウを学んだ高校時代だった。

■家賃5000円で住み込みのパン修行

高校卒業後は神戸の有名ベーカリーで働こうと試みるものの、独立までに5~10年かかることを知り、最短で夢を実現するために一年制の調理専門学校に入学することにした。家族に負担をかけないよう、家賃5000円、風呂なしのアパートに住み込みで働き始めることになる。インタビューで画面に映る田島氏のシンガポールの自宅からは想像もつかないギャップだ。

「朝はパン屋で働き、その後学校に通い、夜はレストランで皿洗いをする毎日でした」

そのような生活を1年間続け、無事に卒業した。住み込み先からもう1年長く働いてほしいと依頼され、そこでパンの技術を一通り習得。そして、20歳を迎えたとき、当時の職場の同僚であった現在の奥様と共に、地元愛知に小さなお店を開いたのであった。

■「地元で一番」を目指し、がむしゃらに働く

開業資金はそれまでにコツコツ働いて貯めた300万円と父親から借りた1000万円を合わせた1300万円だった。後に100億円企業の前身となる、小さなベーカリー「アンティーク」の開業だ。労働時間は1日18~20時間、とにかくがむしゃらに働いたと言う。

高校時代からの数年間、誰よりもパン屋開業に向けて努力してきたという自信が支えだった。経営やパンづくりの奥深さはまだわからないままだったが、まずは地元で一番の店を目指すことにすべての情熱を注いだ。「日本で一番パンのことを考えている」という気持ちだけが原動力だ。

開業後の極めて多忙な中でも、様々なパン屋を食べ歩いては研究し、徐々に売上が上がり始める。2年目には2店舗目を開業し、3年目には大きな借入を背負う覚悟で土地を購入し大型店を構えた。

そして2004年には株式会社オールハーツ・カンパニーを設立。後に「マジカルチョコリング」「とろなまドーナツ」「ねこねこ食パン」といった大ヒット商品を生み出す100億円企業の誕生であった。

カンバン商品であるマジカルチョコリング
カンバン商品であるマジカルチョコリング(PR TIMESより)

創業5年目には店舗の月商が7000万円に達し、ベーカリー一店舗としては日本一の売上高を記録する。

「オーナーシェフとして寝ずにこだわった商品を良心価格で提供していたからだと思います。当時は自分の人件費も一切考えず、より良い商品を提供できるかに没頭しました」

■日本トップクラスの売上になったが…

そのときは原価計算もせず、原価率100%の商品もあったと言う。そうした他にはない商品が魅力となり、顧客が足を運び、さらに他の商品も購入してくれるというサイクルが回り、客数も売上も急速に拡大していく。原価計算など経営における課題は抱えていたままだったが、それでも田島氏は言う。

「独立を考える若い人には、40代や50代になってから知識や経験を持って独立するより、若いときに開業して寝ずにやる覚悟を持ってほしいと思っています。変に頭でっかちになるあまり、どこにでもあるパン屋になってしまって、中途半端に潰れていくお店をたくさん見てきました。だからこそ、気合と覚悟を持って開業してほしいと願っています」

会社の成長に伴い、経営の課題が浮き彫りになってきた。その1つが、顧客が増える一方で労働環境が改善されない状況だ。当時、一店舗当たりで年間売上が5~6億円あり、アルバイトを含め約100名が働いていた。店舗としては日本トップクラスの売上を誇るようになったが課題が見えてきた。

「夜中も厨房を稼働させるなど特殊なやり方をしていましたが、これでは長くは続けられないと思っていました。田舎の小さなパン屋さんとしては一度やり切ったので、今度は多店舗展開して全国においしいパンを広げようと考えました」

■全国展開の第一歩は東京・銀座から

そのため、田島氏は少しずつ現場から離れ、多店舗展開の戦略へと移っていく。当時、爆発的にヒットしていた「マジカルチョコリング」を中心に展開すれば、全国に広げられると考え、いきなり東京・銀座への出店を決意した。

「スターバックスやマクドナルドのようなブランドをパン屋で実現したいと思いました。彼らが日本進出の最初の店舗を銀座に開いたので、私たちも銀座でまず成功することを目標に出店することに決めたのです」

リーマンショックの影響もあり、相場より安く物件を借りることもできた。魅力的な商品も功を奏して知名度は広がり、瞬く間に売上が20億円にまで成長した。成長段階で大きな借入も経験することになったが、そこに躊躇はなかったと言う。田島氏がリスクを取って挑戦するスタイルは昔から変わらない。

「最初は手持ち資金を回しながら経営をしていましたが、会社に勢いをつけるために借入をしました。知識は付き過ぎると臆病になるもので、当時の私は若く失うものもなかったのでしょう。運も良く、生き残れたと思います」

■ヒット商品の人気が続かず、倒産危機

その後、「マジカルチョコリング」に続いて「とろなまドーナツ」など次々とヒット商品を世に出していく。こうしたヒット商品を生み出す秘訣についても聞いてみた。

「1つは掛け合わせです。流行のもの同士を組み合わせる。その当時は、花畑牧場の生キャラメルとクリスピー・クリーム・ドーナツが流行っていて、その2つを掛け合わせたのが『とろなまドーナツ』でした。それでも私のヒット率は2~3割しかないと思います」

右肩上がりの成長から一転、30代前半を迎える頃には42億円あった売上が、翌年には30億円にまで落ち込むという大事件が起こった。爆発的にヒットした「とろなまドーナツ」の人気が想定より長く続かなかったのだ。

30億円の売上に対して、42億円の企業を運営するための経費が発生している。赤字は必至だ。新商品のための設備投資や工場の増設が重なり、会社は途端に窮地に陥った。倒産するかもしれない危機感が田島氏の胸中を訪れる。

田島氏は後悔した。

「自分が経営やビジネスについて全く理解していなかったことに気づきました。それまでは良いものをつくって売ることしか考えていませんでした。どのようにして利益を増やしていくかについて全く考えていなかったとも言えます。開発とビジネスが噛み合っていなかったんです。年商10億円規模ならそのままの方法でもよかったのかもしれませんが、それ以上になると経営の考えや利益への意識改革が必要だと感じました」

オールハーツ・カンパニー創業者で、現・DADACA HOLDINGS CEOの田島慎也氏
提供=クロスメディア・パブリッシング
オールハーツ・カンパニー創業者で、現・DADACA HOLDINGS CEOの田島慎也氏 - 提供=クロスメディア・パブリッシング

■「貢献」という稲盛和夫氏の経営哲学

田島氏は経営書を読み漁った。もともと職人気質だった田島氏には研究者肌な側面がある。数十億円の売上をつくる経営者と、数千億円をつくる経営者の著書を読み比べて、違いたらしめているのは何なのか徹底的に考えた。特に稲盛和夫氏の経営哲学に共感した。

大企業を目指すならば、地域社会や世の中、ひいて国に貢献する視点を持たなければならない。そして、売上を最大化しながら経費を最小化する経営を徹底することも決意した。ピンチを背にして田島氏の経営観や視野が高まった瞬間だった。

「既存店舗をすべて回り、掃除からパンづくりまで各店舗のスタッフと一緒に行いました。そうすることで課題が見えてきました」

どのようにして利益を生み出すか社員たちと徹底的に話し合い、努力を重ねた結果、窮地からわずか1年で利益が出る会社へと返り咲いた。

■譲渡企業をリスペクトするM&A

田島氏は、経営改革に取り組んでいた時期に、資金的にも新規出店が難しい状況が重なったことが、逆に既存店と向き合い改善する機会になったと振り返る。経営者としての未熟さを痛感したとも言う。そこで行ったのがM&Aによる譲受だった。

「経営について勉強不足だと思い、自分たちよりも利益率が良い会社を譲り受けさせていただいて、経営を学ぶことを視野に入れ、M&Aを行うことにしたのです」

これは田島氏の特徴であろう。企業を譲り受ける側は、通常は自社のやり方を譲渡企業に装着することをイメージする。しかし、田島氏は逆だ。譲渡企業の良いところを自社が学ばせてほしいという思いから譲り受けている。そこには確かな譲渡企業へのリスペクトがある。

ここから数々のM&Aを実行して大きくなっていくオールハーツ・カンパニーだが、同時にM&Aは田島氏にとって様々な企業の良い部分を内側から体験できる絶好の学びと実践の場でもあった。

■ラスク、ケーキ、高級路線から学んだこと

最初にM&Aで譲り受けたのは、元々OEM製造を委託していたラスクの製造会社だった。社長とは顔見知りで、高齢で後継者がいないことを知っていたため、田島氏はM&Aの提案を切り出した。それまでの信頼関係もあり、「田島くんならいいよ」との言葉を貰い、初めてのM&Aが決まった。この会社からは、工場の生産管理の仕方や利益管理を学んだという。

その後、ケーキ店のピネードを譲り受けた。ベーカリーではなくスイーツ事業における経営や利益の出し方を学ぶことになる。さらに、京都に拠点を置く高級路線のベーカリーGRANDIRを譲り受け、今度はブランドづくりや高級店の運営を学んだ。単に売上・利益を拡大させるだけでなく、M&Aを通じてそれぞれの仕組みを学び、田島氏自身の経営の幅を広げていったのだ。

「私は常に商品の品質と価値を向上させることを心がけています。高校生の頃から、数千から数万の店舗を見てきましたし、どんなお店にもリスペクトを持っています。たとえ売れないと言われる店でもです。そこから学ぶことも多く、新たな発見があるものです。だから、M&Aを行う際には常に自分には持っていない発想を学ぶ機会がないかというのを判断基準の1つにしています」

■最後のM&Aで赤字企業の再建に挑む

田島氏は譲受後、まずその会社を理解することから始めると言う。その会社のやり方や仕組みを学び、そこに自分たちのノウハウや方針を合わせ、グループ一体となって進んでいく方針だ。オールハーツ・カンパニーの時代にはM&Aが成長のエンジンとなり、合計7社のM&Aを実現した。なかでも、最後に実行した「なめらかプリン」で有名なパステルのM&Aは印象深いと言う。

「元々、パステルの経営者の方と顔見知りで、『うちを何とかしてくれないか』とのお声がけをいただいていました。しかしその当時、パステルは大きな赤字を抱えていました。半年ほど熟慮を重ねて自分の力では再建は難しいとお断りしたのですが、どこか頭の片隅に残り続け、いったんお断りしながらも何かできることはないかと考え続けていました。

パステルのプリンはいつ食べてもおいしく、品質も安定しています。この強みを活かせる方法があるのではないかと考えました。徐々にビジネスの再構築に対するアイデアが固まり、最終的にM&Aを行う決断をしました」

黒字の企業を譲り受けて、その企業のノウハウを学び、自らの経営の幅さえも拡げていくことが田島氏流のM&Aであったため、赤字の企業を譲り受けて再生を手掛けることは初めての挑戦となる。そして、これまでに培ったノウハウのすべてを活かす機会でもあった。

オフィスでの合意交渉と握手
写真=iStock.com/Jacob Wackerhausen
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jacob Wackerhausen

■見事、1年で8000万円の黒字化を達成

当時、パステルは2億5000万円程の赤字を抱えていたが、翌年度には見事8000万円の利益を出して回復させ、経営の立て直しに成功する。これまでに田島氏が学んできた経営が実を結んだ瞬間だった。

「数年間、会社全体のP/Lが悪化すると、社員の給与や賞与に影響が出るため、初年度から黒字にできる見通しがない限り、譲り受けはしないと決めていました」

再建の糸口を見つけられたのも、数あるM&Aの経験によるものだ。20代を職人としての技術を磨くことに捧げ、30代はM&Aを戦略として経営の学びに捧げた。工場のSKUの最適化や、賞味期限の設定をどれくらいにすることでロス率が変わるのかなど、細かな単位で改善を積み重ねた集大成だ。

■「お買い得か」より「いい会社か」

田島氏にこれからM&Aを検討し、譲り受ける側の立場に立つ読者の方にアドバイスを聞いた。

スピカコンサルティング食品業界支援部『VALUE UP 成功事例でわかる業界特化型M&Aと企業価値向上戦略 食品業界編』(クロスメディア・パブリッシング)
スピカコンサルティング食品業界支援部『VALUE UP 成功事例でわかる業界特化型M&Aと企業価値向上戦略 食品業界編』(クロスメディア・パブリッシング)

「まず健全な会社の譲り受けをお勧めします。私の基準では、営業利益が10%以上ある会社が1つの目安です。そのような会社は安定しており、すぐに倒れる心配がありません。それだけに安くは買えないですが、お買い得かどうかという観点ではなく、その会社が“いい会社”かどうかが最優先です。

そして、そのような会社をいくつか譲り受けて得たノウハウや自信をもとに、次のステップとして赤字企業の再生などに挑戦すると良いと思います。赤字会社の再建に対しては立て直すまでに時間がかけられず、迅速な対応が求められるため、リスクも高くなります。そのため、まずは成功しやすい環境で経験を積み、段階的に難易度の高い案件に取り組むことをお勧めします」

田島氏のケースのように、うまくM&Aを活用し成長を続けた企業にも、事業規模に応じて成長痛(経営課題)が訪れる。本書では、そうした伸び代となりうる経営課題を「M&Aによる企業価値向上を考えるタイミング」として第4章にて解説し、M&Aで成長痛を解消する手段と注意点を紹介している。

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株式会社スピカコンサルティング食品業界支援部 「自らが星のように輝きプロフェッショナルファームとして世界を熱狂であふれさせる」という想いのもと、2022年8月に設立したM&A コンサルティング会社。企業価値を最大化する「バリューアップコンサルティング」と「業界特化型M&A」を提供し、単なる企業と企業のマッチングではなく、根本的な課題解決や長期的な企業成長に貢献する高品質なM&A 仲介を提供している。

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(株式会社スピカコンサルティング食品業界支援部)

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