京都花街の舞妓は、かつて28人まで激減した…京都の観光ビジネス成功の背景に「花街のすごい人材教育」
プレジデントオンライン / 2024年11月5日 15時15分
※本稿は、石川智久『大阪 人づくりの逆襲』(青春出版社)の一部を再編集したものです。
■京都のビジネスの基本は花街にある
京都の経済人などにお会いすると、「京都のビジネスの基本は花街にある」といった言葉をよく耳にします。西尾久美子さんの『京都花街の経営学』『舞妓の言葉』(いずれも東洋経済新報社)では以下のように指摘しています。
一つは全国から人材を集めることです。戦後、芸舞妓の数は減少の一途を辿り、1975年には京都花街でも舞妓さんはわずか28人にまで減るという危機的な状況にありました。
危機感を抱いた京都花街では、京都出身者や芸事の経験者に限定していた過去の伝統を破り、全国から志望者を積極的に受け入れる方向へ大胆に方針を切り替えました。おかげで、東京、大阪と違って、芸舞妓さんの減少をくい止めることに成功しています。
二つ目は人材教育です。各花街には舞妓さんを育成する学校があり、現役である限りこの学校に通うというシステムがあります。日本舞踊などの試験に合格しないとお客さんの前には出ることができません。
そしてこの学校の運営費には、都をどりなど、各町での踊りの会の収益が充てられるようにしています。つまり教育に対してお金が削減されないような仕組みができているのです。だからこそ一定のクオリティーが確保されています。
■口紅の塗り方が初心者マークになる
またお客様から見てキャリアがわかりやすいということがあります。
例えば一年目の新人の舞妓さんは下唇しか口紅を塗りません。一種の初心者マークになります。衣装や化粧でキャリアがわかるというわけです。
三つ目は「一見さんお断り」です。高付加価値のサービス業なので、いちど評判を落とすと次からお取引をいただけません。お客様の好みがわからないために評判を落とすよりも、ちゃんとわかっているお客さんでしっかりやったほうがいいというのが一見さんお断りという慣行です。
四つ目が競争と協業です。京都ではお客様の要望があれば、他の花街からも芸妓さんや舞妓さんを呼ぶことができます。つまり一つひとつのお店は競争もしていますが、協力するところでは協力するというのがビジネスモデルになっています。
実は、京都の観光ビジネスがうまくいっている理由としては、集積によって競争と協業が行われているからだとする意見があります。
有賀健さんの『京都 未完の産業都市のゆくえ』という本によると、京都の和食がこれほど流行した理由として、有名なレストランが洛中内に集中していることで、お客さんが来やすくなっていることと、技術の共有化が図られること、また腕の良い料理人が業界で話題になって切磋琢磨(せっさたくま)し合うことなどが挙げられています。
■稲盛和夫の京セラが作られた背景
経済の世界で話題になっている話に、「なぜ京都企業はグローバル化したのか」という議題があります。それには様々な理由が考えられます。
一つは伝統を大事にしつつ、そこに新しい様式をどんどん加えること。例えば西陣織は京都の偉大な産業ですが、明治時代にジャガード織機が輸入され、それを導入したことから、西陣織は発展していきます。
また京焼が明治維新後、産業用陶器の生産を始め、それが新産業を生み出しています。伝統の普及に伴い、陶器製碍子メーカーとして大企業に成長したのが松風工業です。そして松風工業に当初勤務しながら、仲間を募って独立し、新たな会社を作ったのが、稲盛和夫(いなもりかずお)氏の京セラになります。
もう一つが逆転の発想です。京都は市場規模が小さく、京都市内だけではあまり大きくなりません。また東京や大阪にはかなり強力な競争相手がいます。
そうした中、自分たちの強みを磨き上げ、それで世界に打って出るという戦略をとっています。グローバルナンバーワンになるためには、かなり分野を絞り、強みがあるものに特化する必要があります。
そのため、京都の企業は部品メーカーが多い傾向があります。
最後に京都企業の最大の特徴を挙げます。グローバル展開しているため、本社を東京に移す必要がないということです。京都の方は京都を非常に愛していて、本社を東京に移したくない、という思いもあるでしょう。
■京都の製造業がグローバル企業となった4つの感性
また、京都はおいしいお店が多く、京都経済人は京都の飲食街で様々な議論をすることで、知見を深めています。この「京都の飲食街」の果たす役割は、とてつもなく大きいです。
京都は企業人だけでなく、観光客も多く、また大学の街であることから、世界中から高名な学者が京都に来訪します。
そして京都の企業人は、こうした世界の知性の講演会を聞いたり、食事会を開いたりして勉強しています。それが京都企業の強さに繋がっています。
京都の代表的な企業である堀場製作所の堀場会長は、京都企業には四つの感性があり、それが強みになっているとしています。
一つ目は人のマネをしないという考え方です。京都という、盆地の限られた空間のなかで人と共生するためには、他人の仕事を邪魔するのではなく、自分にしかできない仕事を行うべきだ、という考え方があるとしています。
確かに喧嘩をしないためには、競争しないという戦略は一理あり、そのためには新しい市場に出ていく必要性があるといえます。
■白と黒の間にあるグレーゾーンを尊ぶ
二つ目が目に見えないものを重視する考え方です。京都の生活文化のなかには、白黒つけずに灰色を大切にするという文化があります。論理の積み重ねで、白か黒かというわかりやすい言葉で理屈を述べるのではなく、白と黒の間にあるグレーゾーン、曖昧さを尊ぶのです。
確かに現実は様々なことがあります。グレーゾーンを大事にすることは会社が生き残るためにも重要といえるでしょう。
三つ目が事業を一代で終わらせず、受け継いでいく考え方です。他に追随したり、流行を追ったりせず、本業以外の投資に一切手を出さないことで会社の持続性を高めるというビジネスモデルです。
京都は長寿企業が多く、その秘訣(ひけつ)がきちんと伝承されているところがあります。関西の経営者とお会いすると、規模よりも永続性を大事にする方が多く、それが京都を含む関西企業の魅力となっています。
四つ目が循環とバランスという考え方です。一つのことのみに注力するのではなく、経営資源の分配をバランスよくすることの重要性を力説しています。これもバランスの良さが長寿企業になるために重要だという思想があるように思えます。
■本社を大阪に残そうとする経営者が増えている
このように、京都から本社を移さないことを強みにしているのが、京都企業の独自性といえます。
一方で、大阪企業は、これまで大阪から東京に本社を移すことが多くあり、それが京都企業と大阪企業の違いだといわれたこともありました。
もっとも、最近はなにがなんでも本社を東京に移すという空気もなくなっているように感じます。私がお会いしている大阪の経営者たちは、東京でも仕事が増えているようですが、本社は大阪に残そうとする人が増えています。これは京都企業の動きを見て、考え方を変える人が増えたからではないかと思っています。
関西は空港や鉄道も発達していますし、オンラインで世界中とコミュニケーションもしやすくなっています。関西に本社がある強みを活かすことで、京都や大阪に本社を置く企業が増えていくことを期待します。
■日本の経営学、神戸で生まれる
実は、日本の経営学発祥の地は神戸です。実際、神戸大学のキャンパスには「わが國の經營學ここに生まれる」の石碑があります。
平井泰太郎(ひらいやすたろう)氏が大正15(1926)年に神戸高商で経営学を開講し、これが日本で最初の経営学系の科目になったからといわれています。この講義は「経営学とは何か」にはじまり、今でいうところの企業形態論や経営管理論などにも触れる、総論的な内容だったようです。
なお、日本で最初に学術語として経営学という言葉を使ったのは、東京高商の上田貞治郎(うえださだじろう)氏です。もっとも、上田氏は、経営学の中味について考えていましたが、その方法論や教育には課題を残しており、本格的な経営学の教育カリキュラムまでには至っていなかったとの指摘が経営学者からあります。
神戸における経営学のスタートは、経営学の1科目でしたが、昭和4(1929)年の大学昇格時には経営学総論、経営業務論、経営労務論、経営財務論の四つに拡充され、現在の経営学部の一般的な講座運営に近いような体制が築かれます。
その頃経営学はまだ草創期であり、授業は手探りであったようですが、外国の研究成果を紹介するだけでなく、学生たちも参加して日本企業の経営実態のフィールドリサーチも行っていたようです。理論だけでなく実証を行っているあたり、さすが実践を重んじる関西の大学です。
神戸で経営学科が創設されたのは、神戸経済大学に改称された昭和19(1944)年のことでした。日本初の経営学科となり、経営学士を授与できる教育機関となったのです。そして、経営学部の誕生は、戦後、神戸経済大学が国立大学再編の基本方針のもと、新制神戸大学へ生まれ変わった昭和24(1949)年。
全国初の経営学部として発足し、経営学3講座・会計学4講座からなる経営学科と、商学5講座からなる商学科の二つの学科でスタートしました。
■一橋大学と大阪市立大学では「商学部」と名付けられた
私学初の経営学部は明治大学経営学部であり、1953年と神戸大学のほうが4年早くなっています。国立は研究、私立大学は実践というイメージがありますが、学生の人気学部でビジネスに繋がりそうな経営学では逆になっているところが面白く思えます。
一般的に当時は、経営系の学部には商学部と名付けられていました。実際、神戸とともに三商大と呼ばれた一橋大学と大阪市立大学(現在は大阪府立大学と統合して大阪公立大学へ)では商学部の名称がつけられました。
神戸大学では、商学系の教員がいたにもかかわらず、戦前から経営学に取り組んできたこともあって、ある意味現代的な「経営学部」という名前でいくことになったようです。
関西のもう一つの三商大である大阪市立大学についても説明したいと思います。
まず、三商大というのは、戦前、商業実務家育成機関として各地に高等商業学校が作られ、その中で歴史が古く研究実績の大きい東京・神戸・大阪が三商高、もしくは三商大といわれました。なお、戦前の高等商業学校は戦後大学に昇格しており、現在の商業高校とは異なります。
■理論と実践のバランスの良さが企業経営の基盤に
さて、大阪ですが、1880年に大阪商業講習所が、近代大阪経済の父ともいわれる五代友厚(ごだいともあつ)をはじめ、当時の大阪財界有力者16名によって創設されました。
五代は「欧米先進国と対等に渡り合うには、商人にも学問が必要」と説き、東京に次ぐ我が国二番目の商法学校「大阪商業講習所」が誕生しました。
その後は、「市立大阪商業学校」へと発展し、日清戦争終了後の不況のさなかにもかかわらず、「市民自身の手で高等商校を」という大阪市民・同窓生の熱意により、1901年(明治34年)、市立大阪商業学校は、「市立大阪高等商業学校」への昇格が実現しました。
そして、1928年には単科大学ながら学部・予科・高商部の三位一体構成を特色とする市立「大阪商科大学」となりました。
関西では、京大や阪大が学問を追求する一方で、神戸大学や大阪公立大学の前身組織が実学を推し進めてきました。
こうした理論と実践のバランスの良さが、関西の企業経営の基盤となっているのです。
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日本総合研究所調査部 調査部長/チーフエコノミスト/主席研究員
北九州市生まれ。東京大学経済学部卒業。三井住友銀行、内閣府政策企画調査官等を経て、現職。2019年度神戸経済同友会 提言特別委員会アドバイザー、2020年度関西経済同友会 経済政策委員会委員長代行を務めたほか、大阪府「万博のインパクトを活かした大阪の将来に向けたビジョン」有識者ワーキンググループメンバー、兵庫県資金管理委員会委員などを歴任。関西経済分析の第一人者として、メディアにも多数寄稿・出演。著書に『大阪の逆襲』(青春出版社・共著)、『大阪が日本を救う』(日経BP)など。
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(日本総合研究所調査部 調査部長/チーフエコノミスト/主席研究員 石川 智久)
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