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だからSMAPは国民的アイドルになった…冠番組「スマスマ」とそれまでのバラエティ番組との決定的な違い

プレジデントオンライン / 2024年11月4日 16時15分

2011年9月16日、北京でのプロモーションイベントに出席したSMAP - 写真=China Xtra via AFP/時事通信フォト

「SMAP×SMAP」(1996~2016年、フジテレビ系)は、いまでも「伝説の番組」として語り継がれている。どこがすごかったのか。社会学者の太田省一さんは「バラエティ番組として優秀なだけではなく、ドキュメンタリー性も兼ね備えていた。しかしそれはSMAP自身をリアリティショー化するリスクをはらんでいた」という――。

■衝撃だった「SMAP×SMAP」初回の放送内容

「武器はテレビ。」。これは、2014年にSMAPが総合司会を務めた『FNS24時間テレビ』のタイトル。むろんベースになっているのは、彼らの冠番組『SMAP×SMAP』である。まさにSMAPにとっての最強の「武器」だった『SMAP×SMAP』。その開始と終了はテレビにとってなにを意味したのか? 現在のテレビにも通じる問題として探ってみたい。

1996年4月15日月曜夜10時30分(この日は、この後述べる特別な事情で本来の10時スタートではなかった)、テレビにとってひとつの新しい歴史が始まった。アイドルグループSMAPの冠バラエティ番組『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)の初回である。

1社提供であるロート製薬のおなじみの映像から切り替わると、メンバー6人(このときは森且行がまだ在籍していた。森は、同年5月にプロオートレーサーへの転身を理由に脱退することになる。6人での最後のステージもこの番組で放送された)が控えで雑誌を読んでいる。ふと気づいたように、木村拓哉が「あ、でももう本番始まるぜ」と言うと、香取慎吾も「もう本番始まってるって!」と急がせる。中居正広が「『SMAP×SMAP』、略して『スマスマ』。毎週みんな頑張っていこうね。オー!」と明るく音頭をとる。

■バンジージャンプした意外なメンバー

ただ、ひとりだけうなだれ、黙っているメンバーがいる。草彅剛だ。それを見つけた森且行が、「あれ、なんか気合入ってないね。剛君」と声をかける。稲垣吾郎も「これ、ちょっと一発目なんだから気合入れていこうよ」と草彅に語りかけ、「さ、スタジオに行こうよ」と立ち上がる。

しかし、それでも草彅のテンションは低い。しびれを切らした中居正広が、「剛、気合入れていかないと、オレらの人気なんかすぐに落ちちゃうよ」と言う。「落ちないよー」と反論する草彅。「落ちるっ」「落ちないって」「落ちる!」「落ちない!」と押し問答の末、中居が「落ちるって言ってんだろ、バカヤロー」と草彅にパンチ。飛ばされた草彅が壁を突き破る。するとその外はなぜかバンジージャンプになっていて、「ウワー、怖いよー、ちょっとー‼」と落ちながら絶叫する草彅の姿が。

当時、まだここまで「体を張るアイドル」は珍しかった。それを象徴するオープニングである。このパターンは、趣向を変えてこの後も何回か続くことになる。軽いコントだが、ゴールデンプライム帯で自分たちの冠番組が始まる緊張と不安が伝わってくるようだ。

■「LA・LA・LA LOVE SONG」→「スマスマ」

実はSMAPにとって、この1996年4月15日は別の意味でも記念すべき日だった。

「スマスマ」のひとつ前の月曜夜9時台、いわゆる「月9」の枠でこの日始まったのが、あの『ロングバケーション』である。

山口智子と木村拓哉のダブル主演。売れないモデルの葉山南(山口)とピアニストを目指すものの思い通りにいかない瀬名秀俊(木村)がふとしたきっかけから同居生活をするところから始まる恋愛ストーリー。脚本は北川悦吏子。初回は30分拡大版ということで、「スマスマ」は10時30分スタートになっていたのだ。

FOD「ロングバケーション」公式サイトより
FOD「ロングバケーション」公式サイトより

ご存じの通り、『ロングバケーション』は、ロケ地にファンが集まるほどの社会現象となる大ヒット。すでに『あすなろ白書』(フジテレビ系、1993年放送)以来人気に火がついていた木村拓哉も、この連ドラ初主演作の成功によって、スター俳優としての地位を確固たるものにしていく。

そして「ロンバケ」と「スマスマ」の同日スタートは、SMAPというグループそのものを象徴している面もあった。

普通、アイドルグループにおいて、誰かひとりがエースと呼ばれ顕著な活躍をすると、グループとしてのバランスが崩れやすくなる。それだけ、ソロとしての活動とグループとしての活動を両立させることには一般に大きな困難が伴う。

■それまでのアイドルとSMAPの決定的違い

だがSMAPにおいては、個々の活動とグループの活動とがきわめて高いレベルで両立していた。それは、アイドル史上かつてなかったことと言っていいだろう。そこには、個とグループがお互いを刺激し合い、さらに好結果をもたらすという相乗効果が生まれた。

もちろん木村拓哉だけではない。そのころすでに、森且行や稲垣吾郎は俳優、香取慎吾はバラエティ出演や俳優、中居正広はバラエティ出演やMC、俳優として個人でも存在感を発揮していた。

だがこの時点では、草彅剛にだけは他のメンバーに比べるとまだ大きな波が来ていなかった。この頃の中居正広は、SMAPというグループのためにも草彅のブレークが必要だという趣旨のことをよく口にしていたと記憶する。

冒頭のバンジージャンプをする役が草彅なのは、その意味ではひとつのアピールにもなっていた。そして実際、草彅は「スマスマ」開始後の1997年、ドラマ『いいひと。』(フジテレビ系)主演をきっかけに俳優としての才を認められるようになる。

■放送作家・鈴木おさむの妙案

「スマスマ」の売りのひとつも、そんな各メンバーの個性が発揮されたキャラクターコントである。番組の歴史を積み重ねるなかで、各メンバーそれぞれに当たり役と言えるキャラクターが生まれた。

初回には、木村拓哉扮する「古畑拓三郎」のコントがさっそく登場している。いうまでもなく、田村正和が演じた『古畑任三郎』のパロディ。1994年に始まった『古畑任三郎』シリーズ(フジテレビ系)は、いまも根強い人気を誇る刑事ドラマの名作だ。木村はこのシリーズの「赤か、青か」という回に犯人役で出演していた。

このコントが実現した裏には、放送作家・鈴木おさむの存在があった。

ラジオ番組で一緒だった木村のモノマネのうまさを知っていた鈴木は、「スマスマ」でメンバーによるショートコントをやろうと提案した。アイドルにちゃんとしたコントができるのかという懐疑的な意見もあったが、SMAP育ての親でもある番組プロデューサー・荒井昭博も木村の古畑のモノマネを見て、鈴木のアイデアに乗った。

いま改めて感嘆するのは、各コーナーや全体的構成など、初回にしてすでに番組の完成度が高いことだ。

フジテレビ本社
写真=iStock.com/TkKurikawa
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TkKurikawa

■「BISTRO SMAP」の初回ゲスト

「古畑拓三郎」に続くコーナーが、「BISTRO SMAP」。説明は不要だろう。初回ゲストは女優の大原麗子。オーダーは「昔風のカレー」。料理をするのは木村・稲垣ペアと森・草彅ペア。このときは、オーナーの中居以外の5人でローテーションを組むシステムだった。初回の香取はギャルソン役である。

中居が一人ひとりの名前を知っているか大原に尋ね、全員正解。「ちゃんと勉強してきたのよ、ンフフ」といたずらっぽく言う大原に笑いが起こる。大原に会いに来たという浅野ゆう子(翌週のゲスト)も一瞬飛び入り参加。下のフロアに降りた大原が料理を手伝う場面も。試食のとき、「腹減ってるから」「うまい、うまい」などと言いながら爆食いし、大原から「ひとりで食べてる」とツッコまれる中居らしさは、このときから全開だ。ちなみに初回勝者は木村・稲垣ペア。

料理で芸能人をもてなす番組がそれまでなかったわけではない。だが「BISTRO SMAP」の場合は、プロの料理人ではなくSMAPが料理をつくる意外性、中居がMCとなったトーク、香取の趣向を凝らしたコスプレの面白さなど、従来の類似企画にはない多面的な魅力があった。

■SMAPこそ王道であると言えるワケ

そして最後のコーナーは「THE TRIBUTE SONGS」。SMAPがゲストの歌手やアーティストを迎えてコラボするコーナーである。初回は中森明菜。まずSMAPが「飾りじゃないのよ涙は」を歌い、続けて中森が加わり7人で「TATOO」を披露。さらに中森のソロで「がんばりましょう」、そして最後は再び7人で「DESIRE」がノンストップメドレーで歌われた。

後にコーナー名などは変わるが、歌とダンスで最後を飾るのはこのときから。セットや照明、そして曲やダンスのアレンジなども、すべてこのコーナーのために準備されたもので、贅沢なつくりである。そうしたなかで聴く2組それぞれの一連のヒット曲はどれも普段とはまた違った印象で、自然に見入ってしまう。番組は最後、中森明菜とのなごやかなエンディングトークで締めくくられた。

こうした構成は、「歌って踊って笑いもできるアイドル」であるSMAPの特性が反映されたものだ。

SMAPについては、アイドルがお笑いも本格的にこなした新しさを指摘されることが多い。それはその通りなのだが、見方を変えれば、彼らは「スマスマ」によってバラエティ番組の王道を継承した。つまり、テレビバラエティの歴史という観点で言えば、SMAPは異端的存在ではなく王道中の王道を行く存在だった。

■黒柳徹子、クレージーキャッツの系譜

ここで“王道”とは、1960年代初頭に確立されたスタイルを指す。当時日本のテレビは、アメリカのスタイルに日本的なお笑いの要素も加味しながら、自分たちのバラエティ番組のフォーマットをつくりあげた。

たとえば、同じ1961年に始まった黒柳徹子、渥美清らが出演した『夢であいましょう』(NHK)とクレージーキャッツ、ザ・ピーナッツらが出演した『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系)は、その原点である。ともに歌、踊り、コント、トークといった多彩な要素をちりばめ、コメディアンや芸人だけでなく、歌手なども出演していた。

黒柳徹子
黒柳徹子(写真=『新刊展望』1963年9月1日号/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)

共通する基本コンセプトは、世代や性別を問わず楽しめる番組である。

1980年代の漫才ブーム以降、アドリブ主体の過激さを志向する笑いが主流になっていくなかで、『夢であいましょう』や『シャボン玉ホリデー』の系譜は記憶の片隅に追いやられている感があった。「スマスマ」は、そんな王道バラエティの伝統を鮮やかに復活させたのである。

こうした王道バラエティには、『夢であいましょう』ならば永六輔、『シャボン玉ホリデー』ならば青島幸男のように、番組を支える多才な放送作家がいたのもひとつの特徴だ。「スマスマ」には多くの放送作家が携わったが、メンバーとのかかわりの深さという点から言えば先述の鈴木おさむの名が同様の存在としてあがるだろう。

■ドキュメンタリー化のきっかけ

「スマスマ」初回、中森明菜が歌ったSMAPの「がんばりましょう」(1994年発売)は、ある時点から特別な意味合いを持つ楽曲になった。

1995年、阪神・淡路大震災発生直後の『ミュージックステーション』生放送。出演したSMAPは、木村拓哉と中居正広が被災者に向けてメッセージを送った後、予定の曲目を変更して「がんばりましょう」を歌った。

SMAPのアイドルとしての新しさは、こうした社会貢献への意思、社会的メッセージの発信を積極的に打ち出したところにもあった。

「スマスマ」も同様だった。2011年に東日本大震災が発生した際、通常回を取りやめて緊急生放送をおこなったSMAPは、視聴者から寄せられたメッセージに囲まれながらそれぞれの思いを吐露し、ここでも「がんばりましょう」を披露した。

こうして「スマスマ」は、単なるバラエティの枠を超えたある種のドキュメンタリーとなった。通常回でも東日本大震災発生以降、毎回番組の最後に義援金への呼びかけがあったことを覚えているひとは多いだろう。そこが、単なる王道バラエティの継承にとどまらない「スマスマ」の新しさでもあった。

ただ、この「スマスマ」のドキュメンタリー性は、SMAPというグループの歴史そのものをある種リアリティショー化することにもつながった。

■「あの日に、僕は放送作家として、終わった」

「スマスマ」の最高視聴率は、2002年1月14日放送回の34.2%(関東地区世帯視聴率。ビデオリサーチ調べ。以下同じ)。これは、稲垣吾郎が不祥事による活動謹慎から約7カ月ぶりに復帰した回で、生放送だった。後には草彅剛についても同様のことがあった。

釈放され記者会見に臨むSMAPの草彅剛さん(左から2人目)と集まった大勢の報道陣=2009年4月24日、東京都港区
写真=共同通信社
釈放され記者会見に臨むSMAPの草彅剛さん(左から2人目)と集まった大勢の報道陣=2009年4月24日、東京都港区 - 写真=共同通信社

そして2016年1月18日。いまもまだ記憶に新しい、グループ解散報道を受けての緊急生放送があった。

本来なら、バラエティである限り、番組内でそのことについてわざわざ言及する必要はないという考えかたもあるだろう。しかし、「スマスマ」は自らドキュメンタリー的要素を取り込み、稲垣や草彅の復帰放送という前例もすでにつくってしまっていた。

その日の緊急生放送では、「一部内容を変更します」としたうえで、5人がスーツ姿で謝罪の言葉を述べる場面が放送された。結局、解散発表などはなく、ひとまず「スマスマ」の放送も続いた。

だがそれは、ファンや視聴者を安心させるというよりは、逆に不安にさせる結果にもなった。

SMAPという国民的アイドルグループの存続そのものにかかわるものだけあって、世間の強い関心を集めたこの回の視聴率も31.2%と非常に高かった。そして放送後は、横一列に並んだ5人の立ち位置、服装、謝罪の内容などについてさまざまな解釈が飛び交った。むろん5人の表情も硬く、雰囲気も沈んだもので、決して希望を見いだせるものではなかった。

当日の放送にもスタッフとしてかかわった鈴木おさむは、「あの日に、僕は放送作家として、終わった」(『もう明日が待っている』より)と述懐する。

■「昭和」と「平成」をつなぐ役割

その後、SMAPは年内いっぱいでの解散を正式に発表。「スマスマ」も2016年12月26日に最終回を迎える。通算920回目だった。

この日一部生放送はあったものの、これまでのグループにとっての節目の際のようにSMAPが生放送に出演することはなかった。およそ5時間の放送のうち、多くは総集編に割かれた。唯一新たな収録映像として、ラストに5人が登場して「世界に一つだけの花」を歌唱。それが終わると5人は深々と長いお辞儀をして、20年余り続いた番組は幕を閉じた。

いま思えば、「スマスマ」は、「昭和」と「平成」をつなぐ役割を果たした。ここまで述べてきたように、一方で昭和の王道テレビバラエティのスタイルを継承し、もう一方で2度の大震災が象徴する平成という苦難と模索の時代についての一種のドキュメンタリーでもあった。

そしていずれの意味においても、SMAPは視聴者に寄り添い続けた。まさにテレビは、SMAPにとってそのための最良かつ最強の「武器」であった。

「スマスマ」の寂しい終了のしかたは、確かにひとつの時代の終わりを物語っているし、実際当時はそういう感想を漏らすひとも多かったと記憶する。

■SMAPが月曜10時にいない喪失感

だがそれは、そのまま「スマスマ」のような番組が必要でなくなったことを意味しない。

「スマスマ」最終回で歌われた「世界に一つだけの花」は2003年にシングルとして発売された。つまり、30年あった平成のちょうど中間地点で世に出て、ミリオンセラーとなった曲だった。

誰もが「もともと特別なonly one」だというメッセージは、平成が終わり令和になった現在においてよりいっそう響くものがあるし、アイドルとして個とグループを両立させたSMAPがそれを歌ったからこそ、より鮮やかに伝わるものがあった。

「スマスマ」の終了後、私の知る限り、テレビらしいバラエティの王道を継ぐ番組は生まれなくなった。そして時代に寄り添い続けたグループとしてのSMAPの姿をいまテレビでは見られない。もちろん個々の活躍は続いている。だがそこには、そこにいるべき人たちがいないことへの、なんとも形容しがたい喪失感がある。

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太田 省一(おおた・しょういち)
社会学者
1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開。著書に『社会は笑う』『ニッポン男性アイドル史』(以上、青弓社ライブラリー)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『21世紀 テレ東番組 ベスト100』(星海社新書)などがある。

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(社会学者 太田 省一)

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