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将軍に愛され、たった8年で大名に…「江戸時代に一番出世した男」から学ぶ"最強の処世術"

プレジデントオンライン / 2024年11月8日 18時15分

徳川綱吉像(徳川美術館蔵・土佐光起筆)〔写真=PD-Art(PD-old-70)/Wikimedia Commons〕

日本の歴史から現代人が学べることは何か。歴史作家の河合敦さんは「江戸時代にもっとも出世した男は柳沢吉保だろう。彼は将軍・綱吉の寵臣でありながら決して偉ぶらなかったし、綱吉の死後は未練なくすべての役職を降りて隠居するという見事な出処進退を見せた」という――。

※本稿は、河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社文庫)の一部を再編集したものです。

■将軍の身辺雑務から大名に成り上がり

柳沢吉保は、館林藩士である安忠の長男として生まれ、家督を継いで保明と称したが、主君・綱吉が五代将軍に決まったことで運命が一変する。延宝八年(1680)、綱吉に従って江戸城に入った吉保(保明)は幕臣に取り立てられ、将軍の身辺雑務をこなす小納戸役を拝命。すると翌年、三百石を加増され、さらに天和3年(1683)には千三十石、貞享3年(1686)に二千三十石と増えていった。

その翌年、吉保の側室・染子が男児を産んだ。これがのちの吉里であり、綱吉の実子と噂された人物である。すると翌元禄元年(1688)に側用人(将軍と老中をつなぐ連絡・調整役)に抜擢され、上総国佐貫城主一万二千石になる。そう、ついに大名に成り上がったのである。幕臣になってからわずか8年しか経っていない。

さらに元禄3年(1690)には二万石となり、朝廷から従四位下を賜った。この年、初めて綱吉が柳沢邸を訪れている。以後、綱吉は生涯に58回も吉保の屋敷を訪問した。

これは尋常な数ではない。いかに吉保が綱吉に好かれていたかを物語っている。

■1万人のお供にご馳走を振る舞った

吉保の出世のきっかけは、側用人・牧野成貞と親しくなったことである。成貞は綱吉の第一のお気に入りだったので、吉保は成貞を通じて綱吉との親交を深めていった。

同時に綱吉個人のことを徹底的に研究した。初めて自分の邸宅に綱吉を招いたさいなどは、全財産をはたいて綱吉の趣向に合った屋敷に造り替えている。綱吉が供1万人を連れて吉保の屋敷を訪れたときは、1万人すべてに豪華な食事を振る舞ったといわれる。

このように、主君のご機嫌をとるための出費は惜しまなかった。

■桂昌院にも信任を得て、大奥を味方に

綱吉の生母・桂昌院への気配りも忘れなかった。とくに綱吉は親孝行で、ある意味、母のいうことなら何でも耳を傾けた。だから吉保は桂昌院を確実に味方につけておく必要があった。じつは桂昌院もたびたび柳沢邸に来臨している。その都度、吉保は彼女が感嘆するような工夫を凝らした。

あるときなど、全国の珍品を集めた店棚を縁日のように庭園にずらりと並べ、気に入った品々を土産として献上している。元禄15年には、莫大な金品を朝廷に贈って盛んに運動し、ついに桂昌院の従一位の叙任に成功したのである。

生前に従一位を受けるなど当時としては考えられぬ好待遇で、もちろん徳川家の女性の中では最高位だった。これにより吉保は、大奥に君臨する桂昌院の信任を得て完全に大奥も味方につけたのである。

こうして元禄5年に三万石の加増、同7年さらに一万石を加え、吉保はあわせて七万二千石を領する武蔵国川越城主となり、役職としては老中格を与えられた。いまでいえば閣僚である。同11年には老中の上座に就任。さらに元禄14年、綱吉から「松平姓」と綱吉の「吉」の字を賜わっている。これは、徳川一族であることを意味した。

■異例の「大大名」に出世した理由

そして宝永元年(1704)、ついに甲府城主に任じられたのである。この地域に徳川一門以外の者が配置されるのは、前例がなかった。しかも十五万石の大大名になったのである。そういった意味で柳沢吉保は、くり返しになるが、徳川の治世でもっとも出世した男といってよいだろう。

柳沢吉保(一蓮寺所蔵品・狩野常信筆)
柳沢吉保像(一蓮寺所蔵品・狩野常信筆)〔写真=PD-Art(PD-old-70)/Wikimedia Commons〕

それにしてもなぜ、吉保はここまで栄達したのだろうか。

『徳川実紀』がその理由を端的に述べているので紹介しよう。

「吉保とかく才幹のすぐれしかば。(略)よく思し召しをはかり。何事も御心ゆくばかりはからひし故。次第に御寵任ありしものなるべし」

つまり、人の気持ちを素早く察し、決して相手の期待を裏切ることがなかったからだというのだ。悪くいえば、歓心を買い続けたということだが、それを続けるのは並大抵の努力ではなかったはず。

■家臣たちに「道の真ん中ではなく端を歩け」

いずれにせよ将軍の寵臣ということで、吉保は絶大な権力を持つようになった。

たとえば肥後一国を領する熊本藩主・細川綱利は、自筆の書状を吉保本人ではなく、家老の藪田重守に送って我が子が将軍・綱吉にお目見えできるよう助力を頼んでいる。

国主たる者が一大名の陪臣に直筆の手紙を記して頼み事をするほど、その力は大きかったのだ。こうした依頼は引きも切らず、柳沢邸には進物をたずさえた諸藩の士が絶えずやってきた。

しかし、吉保は思い上がらなかった。処世術として「慎み」を大切にした。

たとえば重臣の藪田重守に対し「家中の者たちが、風儀がよく礼儀正しいように、おまえたちが指導しなくてはいけない。家来の風俗を見れば、主人の心根もわかってしまうものなのだ」と訓示を与えている。

さらに「もっとも大切にすべきことは慎みの心だ。家臣ががさつな振る舞いをせぬようよく指導せよ。柳沢の家来は慎みがないと陰でいわれているぞ。だから道を歩くときも、真ん中ではなく端を歩かせろ」と戒めた。

■偉くなっても礼儀と慎みを忘れなかった

吉保の側室であった町子は、『松蔭日記』のなかで「吉保は、柳沢家の者は主君の権力をかさに人をバカにしたり、無礼なふるまいをしてはいけない。世間が吉保の威光を恐れているから、自分の思ったとおりにしてやろうとするのは愚かな者のすることであると述べた」と語っている。

自分に許可なく付け届けを受け取った家臣を国元に返したという逸話も残る。

『柳沢家秘蔵実記』は、幕府の奥医師・薬師寺宗仙院の次の証言を記している。

「吉保様は今古例がないほど将軍と昵懇だったが、ほかの側近とは異なり、威厳があってもいばらなかった。深い思いやりがあり、人に情けをかける細やかな方であった」

吉保自身も江戸城内でなるべく目立たぬように服装を地味にしていた。また膝をひらいてくつろいだり、酒を飲んだりせず、礼儀正しさを保っていた。あえて人びとに警戒の念を抱かせぬよう気をつけていたわけで、驚くべき慎重さだといえる。

絶大な権力は将軍・綱吉あってのものであり、それが永続しないことを吉保はよく知っていた。だからこそ柳沢家の長い繁栄を願い、慎みを大切にし、謙虚になろうと努力したのだ。

■先祖の血筋を重視し、武田信玄を敬愛

ところで吉保の最大のコンプレックスは、自分が成り上がり者であることだった。

そこで先祖の血筋に己の価値を見いだそうとした。じつは柳沢氏は、甲斐一条氏(甲斐源氏)の末裔・武川衆であり、祖父の信俊は武田家に仕えていた。このため吉保は武田信玄を敬愛した。

信玄の玄孫である信興が落ちぶれているのを知ると、自分の屋敷に引き取って面倒を見、元禄13年(1700)には五百石の旗本に登用、翌年、綱吉と対面させて表高家に任じてもらうほどだった。また、家臣が「武田」と名乗るのを許さず「竹田」と改めさせたり、信玄の「百三十三回忌」の法要を主催したりした。

さらに宝永4年(1707)には叶わなかったものの、朝廷に信玄の増官を働きかけている。だから綱吉から信玄ゆかりの甲府の地を与えられたときは、涙が出るほど嬉しかったに違いない。

■甲府が洗練した文化都市になった功労者

とはいえ、公務多忙により甲府に赴任できなかったので、藩政はすべて家老の藪田重守にゆだねた。藪田は甲府城の山手門外に屋敷を構え、甲府城と城下町の整備、領内を検地して減税を実施するなどの善政を敷いた。用水路の整備や新甲州金の鋳造にも乗り出した。また、甲府領民の粗野な風俗を正し、屋敷の壊れた箇所を修理・修復させ、身だしなみに気をつけさせた。

こうして甲府は「棟には棟、門に門を並へ、作り並へし有り様は、是そ甲府の花盛り」(『兜嵓雑記』)と謳われるように洗練された文化都市になったのである。

桜の時期の舞鶴城公園
写真=iStock.com/Sean Pavone
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sean Pavone

なお、藩政は藪田が勝手におこなったわけではなく、吉保が江戸から細かく指示を出していた。そういった意味では、吉保の手腕であった。

さらに「完全な人間はいないと心得よ。大切なのは、見た目ではなく、その心根なのだ。とにかくえこひいきはするな」というように、吉保は家中教育も怠らなかった。

■綱吉に「処罰が厳しすぎる」と諫言

さて、吉保の偉さは、寵臣ではあったがイエスマンではなかったことだ。綱吉への諫言もためらわなかった。

あるときは綱吉に対し「家臣を鼻紙や扇子のように思ってはいけません。あなたの処罰は厳しすぎます。法を適用するときにも、どうか情けをおかけください」と告げている。

吉保の恩人・牧野成貞は「三度、諫言しても将軍が聞き入れてくださられなければ、あとは自分も一体となってそのご意向に添うべきだ」と述べたが、吉保は「それは誤りだ。そうした重臣のために滅んだ家は多い。受け入れてもらえるまで何度でも諫言すべき。それこそが主家の先祖に対する大忠節というものだ」と語っている。

宝永6年(1709)1月、綱吉は死去した。得てして権力者の歓心を買って立身した人物は、権力者の死後すぐに周囲の弾劾を受けて失脚する。ところが吉保は失脚しなかった。布石を打っておいたからだ。

■主君の死後、あまりに見事な出処進退

綱吉には嫡子がおらず、後継者選定がおこなわれたさい、吉保は強く甲府城主・徳川綱豊(のちの家宣)を推し、次期将軍に決定させた。その経緯から新政権は吉保を粗末にできなかったのだ。

河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社文庫)
河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社文庫)

さらにいえば、出処進退が鮮やかだったことだ。綱吉歿後、吉保は何の未練もなくすべての役職を降り、ただちに家督を吉里に譲って頭を丸めて隠居してしまっている。この英断よって、柳沢家には何のお咎めもなかった。それから五年後の正徳4年(1714)11月、吉保は57歳で生涯を閉じた。遺骸は甲府へ運ばれ、自分が創建した永慶寺に埋葬された。

八代将軍・吉宗の時代、直轄地拡大政策のために柳沢家は大和国郡山へ移封となるが、禄高が減らされることはなく、そのまま郡山の地で幕末を迎えたのである。なお、遺言だったのか、吉保夫妻の墓は、永慶寺から武田信玄の菩提寺である甲府の恵林寺に改葬された。

いずれにせよ、見事な出処進退だった。ビジネスパーソンが学ぶには適した歴史的人物ではなかろうか。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)

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