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江戸時代にも2人の女性天皇が存在した…徳川家と織田家の血を引く「女帝」が860年ぶりに誕生したワケ

プレジデントオンライン / 2024年11月11日 18時15分

栄子内親王(泉涌寺所蔵)(写真=『天皇一二四代』別冊太陽/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

幕府の権力が強かった江戸時代、朝廷はどのように立場を守っていたのか。歴史作家の河合敦さんは「皇位継承には幕府の許可が必要であり、うまく協調した天皇がいた一方、衝突する天皇や上皇もいた。また、夭逝する天皇が相次ぐ中、2人の女性天皇が不安定な皇位継承を支えていた」という――。

※本稿は、河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社文庫)の一部を再編集したものです。

■じつは江戸時代も院政が続いていた

2019年4月30日、天皇陛下が退位された。

天皇の生前退位は、およそ200年ぶりのことである。なお、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づき、引退した天皇を「上皇」と呼ぶことになった。もちろん、日本史で習う上皇とはまったく違う存在なのだが、やはりその語を耳にすると、およそ900年以上前に上皇が政治の実権を握った院政を思い浮かべてしまう。

ただ、この形態は平安時代に終わったわけではない。じつは朝廷における院政は、断続的ながら、なんと江戸時代まで続いてきたのである。

とくに長いあいだ院政をしいたのが霊元上皇だった。寛文3年(1663)、霊元天皇はわずか10歳で即位した。このとき父親の後水尾法皇は、天皇の年寄衆(側近)に九カ条の「禁裏御所御定目」を発し、「霊元天皇が朝廷の伝統を守り、神仏を敬し、熟慮できる帝王にふさわしい人物になるようにせよ。そのため学問に専念させ、妨げになる流行の遊興やくだらぬ噂話を教えてはならぬ」と命じた。

■強い政治力を持つ「ワンマン天皇」に

というのは当時、天皇をとりまく少年公家たちに素行のよくない輩が多かったからだ。実際、寛文11年(1671)の花見の宴では、霊元天皇が彼らと泥酔するという失態を演じている。

成人し、後水尾法皇から権力を移譲された霊元天皇は、朝廷で強い政治力を見せるようになった。延宝7年(1679)には、禁裏小番(公家の参勤や宿直)をサボったという理由で、鷲尾隆尹らを閉門にするなど厳しい処置をとっている。天皇の政務を代行する関白を軽視し、自身で強引に事を決めることも多かった。

小倉実起の娘との間に生まれた一宮が朝廷内で皇太子に内定、すでに幕府の内諾を得ていた。ところが霊元天皇は、一宮を寺(大覚寺)に入れ、五宮(朝仁親王)を後継者に定めたのである。これに外戚の小倉実起らが反発すると、なんと、彼を佐渡へ流罪にしてしまったのだ。

■院政を抑制したい幕府vs権力を維持したい天皇

30代になると霊元天皇は、朝廷の帝という束縛された立場から脱し、上皇として自由な立場で朝廷を動かそうと、たびたび幕府に対して譲位の意向を告げるようになった。

けれど幕府はなかなかこれを許そうとせず、ようやく貞享4年(1687)になって、皇太子である朝仁親王(東山天皇)への譲位が認められた。ただ、このとき幕府は霊元天皇に警戒の念を抱き、「大きなこと以外、朝廷の政治には口出ししないように」と求めた。はなから霊元の院政を抑制しようというわけだ。

幕府としては、あくまで天皇と政務代行者である関白のラインを基本にすえ、武家伝奏(幕府と朝廷の連絡調整役の公家)を介して朝廷を管理・統制しようと考えていた。いっぽう霊元天皇は、かつての院政時代のように、自分が上皇として朝廷の頂点に立ち、権力を掌握したいと思っていた。

■貴族と幕府に反発されてもへこたれず

東山天皇が17歳になった元禄4年(1691)、霊元上皇は政治権力の全面委譲を迫られた。霊元本人も同じ年頃に父の後水尾から権力を与えられたので、前例としておかしなことではなかった。もちろんこれは、幕府も了承済みだった。

だが、何を思ったのか霊元上皇は、同年、関白や武家伝奏らに対し、「天皇に忠誠を尽くし、朝廷のため命をなげうって忠勤せよ。個人的に武士と親しくしたり、へつらったりしてはならない」と記した誓紙に血判させたのである。

関白に対して血判を要求するなど前代未聞のことだった。前年、幕府の意向により、霊元上皇と仲の悪かった近衛基煕が関白になったことに不安を感じたのかもしれない。

仰天した貴族たちは、霊元上皇の力を抑え込もうと決意、前関白であった一条冬経が霊元上皇に対し、「あなたはよく物忘れをするので、今後の政務は関白らがおこないますので、どうか関与しないでいただきたい」と釘を刺したのだ。

また、幕府もついに元禄6年、霊元上皇を間接的に叱責したので、以後、霊元上皇は公然とは政務に口を出せなくなった。とはいえ、それからも陰ではいろいろと介入し、暗然たる力を握り続けたのである。

■院政の功績は「220年ぶりに大嘗会復活」

霊元上皇がもっとも力を入れたのは朝儀の再興であった。石清水八幡宮放生会、皇太子冊立の儀、大嘗祭、賀茂祭などがこの時期に復活している。

とくに大嘗祭の復活は特筆に値する。大嘗祭とは、天皇が即位したのち最初におこなう新嘗祭のことだ。新嘗祭とは収穫した穀物を神に供える儀式。具体的には、天皇が神様たちと神饌(お供え物)を食する儀式と公家たちとの饗宴で構成される。

奈良、平安、鎌倉時代と脈々と継続してきたが、室町時代になると衰退し、文正元年(1466)の後土御門天皇を最後に中断していた。それを霊元上皇は東山天皇の即位にさいし、220年ぶりに復活させたのだ。

ただ、中断期間が長すぎて失われた所作や過程も多く、さらに「御禊行幸」のように幕府の財政事情で復活が認められなかった行事もあり、かなり簡略化されてしまった。このため、霊元上皇の兄である尭恕法親王や近衛基煕などは大嘗祭の復活を批判。次の中御門天皇のときは大嘗祭は執行されなかった。

■病弱な天皇が続き、再び霊元上皇が実権を握る

霊元上皇の子・東山天皇は温厚な人柄で、関白の近衛基煕と霊元上皇の力を抑えつつ、幕府と協調して政務を執った。幕府も朝廷の禁裏御料を増やしたり、陵墓の修復費を拠出するなど盛んに経済的支援をおこない、幕朝関係は安定した。

だが宝永6年(1709)、東山天皇は病弱のために30歳で譲位、子の慶仁親王が即位して中御門天皇となった。天皇はまだ9歳。本来なら東山上皇が院政をしくはずだったが、残念ながらそれから半年後、東上は病歿してしまった。このため、再び霊元上皇が朝廷の実権を握ることになったのである。

霊元上皇は出家して法皇になったが、幕府は幼い七代将軍の名を霊元法皇に「家継」と付けてもらったり、霊元法皇の娘・八十宮を将軍・家継の正室にするなど、終始へりくだった態度を見せた。

将軍が幼君だったので、朝廷の権威を利用しようとしたのだろう。このため霊元法皇は朝廷での権力を維持し続け、享保17年(1732)に79歳で崩御した。いかがであろう。じつはこのように、江戸時代にも上皇による院政がおこなわれていたのである。

■江戸最初の女帝は「サラブレッド」だった

ところで近年は、男性皇族が少なくなり、女性天皇が話題にのぼることが多い。

江戸時代の天皇は、第百七代後陽成天皇から第百二十二代明治天皇までいるが、うち二人が女帝である。明正天皇と後桜町天皇だ。

しかも最初の女帝・明正天皇は、徳川家の血筋を引いている。明正天皇の生母は後水尾天皇の皇后和子だが、彼女は二代将軍・徳川秀忠と江(崇源院)の娘。つまり明正天皇の曽祖父は徳川家康なのだ。

明正天皇
明正天皇〔写真=『御歴代百廿一天皇御尊影』より/PD-Art(PD-old-70)/Wikimedia Commons〕

さらに祖母の江は、織田信長の妹であるお市の娘なので、織田家の血筋も引いている。

まさに血筋的にはサラブレッドといえる。でもなぜこの時期に女帝が約860年ぶりに復活したのだろうか。

■幕府に相談せず、いきなり譲位した背景

それは、父の後水尾天皇が強引に明正(興子内親王)に位を譲ったからである。後水尾天皇ははじめ、皇后和子との間に生まれた高仁親王に譲位するつもりだったが、残念ながら高仁は3歳で歿してしまった。

とはいえ、寛永6年(1629)の明正天皇への譲位はあまりに唐突だった。幕府や皇后に何の相談もなく、いきなり譲位したのだ。

これは、後水尾天皇と幕府との確執が原因だったといわれる。幕府は禁中並公家諸法度を出して朝廷や天皇を強く統制。さらに法令に反して後水尾天皇が高僧に紫衣着用の勅許を出し続けたところ、幕府はこれらの勅許を無効とし、さらに、反発した大徳寺の沢庵らを配流したのである(紫衣事件)。

つまり後水尾天皇の明正天皇への譲位は、こうした幕府に対する意趣返しだったと思われる。

また、これは、皇室から徳川家の血筋を排除するための、後水尾天皇の遠謀だったという説もある。古代の女性天皇は、在位中は全員が独身だった。夫を亡くしてから即位した人も複数いるが、即位後は独身を通した。つまり慣例に従えば、明正天皇は結婚もできず子孫をつくれない。

■あくまで「中継ぎ」だった女性天皇

なお明正天皇は、後水尾上皇に皇子が生まれるまでの中継ぎとされ、即位から4年後、父の後水尾が水公卿・園基任の娘光子との間に紹仁親王をもうけると、寛永20年(1643)に紹仁に譲位した(後光明天皇)。

明正天皇は7歳で即位し、21歳で退位したので、朝廷で政治力を持つことはできず、上皇として院政をしいていた後水尾が権力を握っていた。ちなみに退位後、明正上皇は独身のまま74歳まで生きた。

明正天皇とは異なり、後桜町天皇は余儀なく即位せざるを得なくなった女性皇族である。

後桜町天皇
後桜町天皇像(写真=三英舎/PD-Japan/Wikimedia Commons)
河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社文庫)
河合敦『禁断の江戸史 教科書に載らない江戸の事件簿』(扶桑社文庫)

四代にわたって20代~30代半ばで崩御する天皇が続き、異母弟の桃園天皇も在位中にわずか22歳で死んでしまった。桃園天皇の長男の英仁親王はまだ5歳だった。

せめて10歳にならないと、天皇の役目は務まらないと判断した関白の近衛内前は、幕府と相談したうえで、桃園天皇の姉にあたる23歳の緋宮を即位させたのである。

約120年ぶりの女帝である。ただ、9年後に英仁親王が成長すると譲位している(後桃園天皇)。このように江戸時代の女帝は、あくまで中継ぎだったことがわかるだろう。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)

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