初の女性大臣は「売春を広めた罪」で銃殺刑に…ミニスカートの女性たちが一掃された"イスラム国家"の実態
プレジデントオンライン / 2024年11月12日 18時15分
■イラン革命で人々が望んだもの
1980年5月8日の早朝、イラン政府で初めての女性閣僚が、銃殺隊に処刑された。その前年、イランは革命の真っ只中にあった。独裁者だった皇帝(シャー)のムハンマド・レザー・パフラヴィーを失脚させ、彼の王国に代わって共和国の樹立を目指した革命である。
それは、イランの一般国民にすでに絶大な影響力を与えていた保守的なイスラム聖職者から、社会・経済的平等とジェンダー平等を求める煽動的な左派の学生や女性の権利活動家まで、社会のあらゆる層から支持された運動だった。
政敵が排除され、議論が抑圧されるのを眺めながら、皇帝の揺るぎない権力下での生活に疲れた多くの人々が、変化を望んでいた。
「当時の私にとって、この革命は独裁政治の終わりを意味していました。そのために命を捧げる覚悟はできていました」とイラン人社会学者のチャーラ・チャフィクは話す。彼女は当時、学生運動に積極的に参加していた。
チャフィクは言う。「高い山の頂上にいるような気分でした。珍しくきれいな空気を吸ったような気がしましたし、目の前に広がる澄み切った景色は、知りうるかぎりの美しい季節の到来を約束しているようでした。テヘランの通りでは、日に日に抗議デモが拡大していました。自由はすぐそこにあり、今にも手が届きそうでした」。
■「イランらしさ」の喪失に危機感を覚えた人たち
革命は、皇帝と国民の距離がいかに離れていたかを露呈した。皇帝はヨーロッパ製のスーツをスマートに着こなし、魅力的な愛人や妻を何人ももち、石油収入とアメリカやヨーロッパとの緊密な関係を利用して、イランの工業化を進めた。国民は伝統を捨てて、西洋的な近代化を受け入れることを奨励された。
だが、そうした動きを性急すぎると感じる者もいた。彼らが恐れていたのは、皇帝が高級車や輸入物のフランス料理に国費を浪費しているあいだに、イランが自国らしさを失ってしまうことだった。
やがて、亡命中だったイスラム聖職者、アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーを中心に、反対派が形成されていく。ホメイニーは、外国勢力から搾取されない、宗教に基づいた、文化的に正統な国家の未来を約束した。
だが、20世紀の多くの革命がそうであったように、結局、望んだ変化を手に入れることができたのは、一部の者だけだった。「あっという間に、夢が悪夢に変わりました」とチャフィクは言う。
■女性の旅行は許可制、中絶は禁止、男女別学
亡命先から戻ったホメイニーは、神政国家を構築した。新たに生まれたイラン・イスラム共和国では、イスラムの教えや少なくともその解釈に反するとみなされる法律は、すぐに無効とされた。
さっそく犠牲になったのは、女性の権利だった。聖職者らは、かつてのような古風な性役割への回帰を強く求めた。
まもなく、女性が国外に旅行するには、男性保護者の許可が必要になった。学校は男女別学になった。中絶は禁止された。女子の法律上の結婚開始年齢は、18歳から9歳に引き下げられ、その後13歳に引き上げられた。児童婚への扉が再び開かれた。同性愛を公言する男性は、厳しい処罰を受け、死刑になることさえあった。
■「ヒジャブ着用義務化」に起こった反発
さかのぼること1936年、皇帝パフラヴィーの父親は、女性が人前でベール(ヒジャブ)を被ることを禁止する決定を下し、議論を呼んだ。だが、革命後は一転して、ベールの着用が義務となった。古いやり方への回帰を求めていた一部のイラン国民は、この保守的な転換を歓迎した。
イランの伝説的な活動家で、1918年に保守派の強いイスファハンという町に初めて女子校を開設したセディーゲ・ドウラターバーディーの記念碑は、破壊された。ドウラターバーディーは、1926年にパリで開かれた女性参政権会議からの帰路で、公然とベールを着用しなかったことでも知られている。
革命後のこうした変化に対して、自由を失うのではなく自由を得たいと望んでいた人々からは、すぐに反発が起きた。ベールの着用を義務づける規則が発表されると、数千人が集まって、首都テヘランの通りを行進した。
「大規模なデモ行進でした。学生、医師、弁護士など、あらゆる職業の女性が参加し、男性もいました。私たちは政治や宗教の自由、そして個人の自由を求めて闘っていました」と写真家のヘンガメ・ゴレスタンは、数年後のインタビューで当時を思い出して語った。
抗議運動の目的は、ベールの着用に反対することではなかった。ベールを被りたいと考えるムスリム女性は、皇帝から着用を禁じられたことで屈辱と苦痛を感じていた。ベールを被らずに外出するのが怖くて、家に引きこもる女性もいた。
デモ行進の目的は、着用を女性自身で決められるようにすることであり、ベールは個人の自主性の問題だった。
「皇帝も、ホメイニーも、どんな男性も、私に思いどおりの服を着せることはできません」。『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者によると、弁護士のファルザエ・ヌーリは群衆に向かってそう訴えたという。
■小さな男の子が銃を突きつけ「なぜベールを被っていないんだ」
だが結局、抗議運動は失敗に終わった。その頃から、女性は道徳警察の監視下に置かれるようになる。ショックを受けたチャーラ・チャフィクは、「通りで小さな男の子に銃を向けられて、なぜベールを被っていないんだと言われたとき、この現実を理解しました」と言う。
また、ゴレスタンは自分の写真を振り返って、テヘランの女性たちが頭を覆わずに自由に通りを歩いたのはあの抗議運動が最後だったと思い知らされた。
イランに住み、この時期の歴史を記録したイギリス人ジャーナリストのジェームズ・バカンは、その後数年間で何十万ものイラン人が国を出て、トルコやヨーロッパ、アメリカに向かったと書いている。その多くは学者や専門家だった。彼らにとって、それは生死を分ける問題だった。
チャフィクも国を出た一人だった。「私は左翼の過激な学生運動でかなり注目を浴びていました。同志の多くが逮捕され、身を隠すしかなかったのです。偽名で暮らし、イスラムの政治警察に踏み込まれそうになると、すぐに住む所を変えました」と彼女は話す。
さらに、「反対者の捜索が広がるにつれて、ほかの多くの人たちと同様、亡命せざるをえなくなりました」とチャフィクは言う。彼女は徒歩と馬で3日かけてトルコ国境を越え、その後フランスに向かい、現在もそこで暮らしている。
■初の女性閣僚は「売春を広めた」という理由で処刑された
イランでは、脱出前に捕らえられた左翼の活動家たちが棺桶のような状態で投獄されていたとバカンは書いている。そして、「5000人以上の若者が絞首台で命を落とし、1982年末までに抵抗勢力は壊滅した」と言う。その頃には、イランの圧政は別の圧政に移行したことが明らかになっていた。
1980年5月8日に処刑されたイラン初の女性閣僚、ファロクルー・パルサについては、公開されている情報が非常に少ない。わかっているのは、彼女が政界に進出する前はベテランの医師であり生物学の教師だったこと、そして常に女性の権利を求める活動の最前線にいたことである。パルサを出産したとき、彼女の母親は、ジェンダー平等に関する記事を発表して宗教保守派の怒りを買ったために自宅軟禁されていたと言われている。
パルサはイラン人女性の選挙権獲得のために奮闘した。イランは1963年、女性に選挙権を与え、同年、彼女は国会議員に当選した。その後、教育大臣に任命されている。
革命後、パルサはすぐさまイラン・イスラム共和国の標的になった。1980年に行われた裁判で、彼女に対する容疑には、「腐敗の原因をつくり、売春を広めた」という奇妙な疑惑が含まれていた。逮捕から数カ月で、彼女は有罪となり、処刑された。
■ロンドンで「髪がなびく写真」をアップした一人の女性
家父長制は抵抗に遭いながらも、なぜ長く続いてきたのだろうか。21世紀の私たちは、そう疑問に感じずにはいられない。
女性たちが変化を求めて懸命に闘い、平等を求める革命闘争に参加してきたにもかかわらず、いまだ平等が実現しないのはなぜなのか。いったい何が、家父長制という抑圧をこれほど強力なものにしているのだろうか。
今日、率直な発言をするイラン人フェミニストの多くは、イランでは安全に暮らせないと感じている。ジャーナリストのマシフ・アリネジャドもその一人だ。小作農家の孫娘で、労働者階級の出身である彼女は、ティーンエイジャーの頃に、政治パンフレットの作成に関わったとして短期間拘置され、取り調べを受けている。
その後、アリネジャドはテヘランの報道記者として、イランの政治指導者に時に面と向かって立ち向かったことで知られるようになった。現在はニューヨークに住み、ベールの着用義務に反対する国際キャンペーンを展開している。
「じつは、ヒジャブの着用強制への反対運動を立ち上げようと最初から計画していたわけではありません」とアリネジャドは言う。
始まりは2014年。彼女がロンドンの通りで、ベールを被っていない姿で自撮り写真を撮って、それをソーシャルメディアに投稿したことだった。髪が風に揺れる単純な感覚に感激したのだという。その瞬間、オンライン上で水門が開いた。イラン全土で同じことをする女性が増えていったのだ。
■「小さな布を被らなければ、女性は存在できない」
2018年には、ヒジャブの強制に抗議した女性29人が逮捕されたと報じられた。2019年には、イランの司法当局がアリネジャドを特に名指しして、ベールを被っていない女性の動画をオンラインで共有した者を最長10年の禁錮刑に処すと発表した。
2020年には、モジガン・ケシャヴァルズ、ヤサマン・アーリヤニ、その母親のモニレ・アラブシャヒという3人の活動家が、テヘランの地下鉄でベールを被らずに女性客に花を配ったとして投獄された。
そして2022年9月、22歳のマフサ・アミニが「ヒジャブのつけ方が不適切」だとしてイランの道徳警察に拘束されたあとに死亡したことを受けて、イラン全土で抗議デモが勃発した。数週間のうちに、10代のニカ・シャカラミを含む数百人が負傷または死亡した。女子生徒や女子大学生たちは、ベールを脱ぎ捨て、座り込みの抗議を行った。
「彼女たちはなぜ抗議をするのでしょう。なぜなら、彼女たちはすでに政府から不当に扱われているからです」とアリネジャドは言う。
女性や少女は、声を上げるかどうかに関係なく、ベールのつけ方が不適切だとか、「控えめな」服装をしていないといった理由で批判される屈辱を日々受けている、と彼女は言う。2021年8月には、ある男性が、ベールを適切に被っていないと感じた女性2人を車で轢き、重傷を負わせたと報じられた。
「女性は毎日のように路上で道徳警察に殴られています。この小さな布を被らなければ、あなたは存在できません。女性にとって、以前はそう言われるだけで十分でした……でも、今はうんざりしています。宗教独裁に心の底から嫌気がさしています。宗教に身体のことを決められるのは耐えられません」とアリネジャドは話す。
■「ベールを脱げば神に罰せられる」と言われ育てられた
家父長的な宗教国家を描いたマーガレット・アトウッドのディストピア小説『侍女の物語』の映画を観て、アリネジャドは、イランと非常によく似ていると感じ、「これは西洋のフィクションですが、私にとっては現実です。私たちの日常生活なのです」と言った。
ベール着用の義務化は、一般のイラン国民のあいだでは次第に支持を失いつつある。だが、今でも賛否が分かれる問題であることに変わりはない。アリネジャドが回顧録『私の髪のなかの風(The Wind in My Hair)』で描いたように、1979年のイラン革命は、彼女の家族内に緊張をもたらした。
彼女の父親は、イスラム革命防衛隊の義勇軍に参加しており、道路を封鎖し、通行する車がアルコールや音楽カセットテープを積んでいないかをチェックしていた。政権はそれらを非イスラム的だと考えていたからだ。回顧録によれば、父親は彼女の道徳に反する行いが「悪魔を赤面させる」と口癖のように言っていたという。
アリネジャドは子どもの頃から、ベールを脱いだら、たとえ地球上では罰を受けなくても、神に罰せられると教えられて育った。だから、ベールを脱ぐという決断は、非常に難しいものだった。
「自分とコミュニティとのあいだのつながりや絆を失いたくなかったのです。母を悲しませたくなかったし、父を悲しませたくなかった」と彼女は震える声で言う。
■無関係な兄が投獄された
アリネジャドの活動の結果、家族は、彼女を告発しろと圧力を受けてきた。彼女自身も中傷キャンペーンの標的になってきた。彼女が西側のスパイだという誹謗中傷もあった。2020年には、イラン政府が陰で糸を引いたとされる誘拐未遂事件の標的にされた。
彼女のアメリカ滞在中に兄がイランで逮捕され、のちに8年の懲役判決を受けたとき、アリネジャドは罪の意識に苛まれ、自殺したいと思ったという。
「なぜ私が罪悪感を覚えるべきなのでしょうか」と彼女は問いかける。「市民として平和的に抵抗した無実の人々を投獄した人こそ、罪悪感を覚えるべきです! 路上で女性を殴った人こそ、罪悪感を覚えるべきです!」
■昔はミニスカートもはけていた
イランがこのような状況に陥るとは、誰も想像できなかっただろう。1976年、芸術家のアンディ・ウォーホルは、ファラー・パフラヴィー皇后の肖像画を描くためにテヘランを訪れたとき、女性たちが思いのままに自由に生きている様子を目にしたという。
少なくとも都会の上流階級の女性たちは、化粧をして、ミニスカートをはいていた。女性と男性は一緒にレストランや映画館に行くことができた。その頃、人工妊娠中絶が合法化された。女性も兵役に就いていた。地方議会には数百人の女性が参加していた。
20世紀を通じて、イランでは、女性の権利を向上させるための取り組みが次第に強化されていった。1910年までに、テヘランには50校ほどの女学校が開校した、とカリフォルニア大学サンタバーバラ校の宗教学教授で現代イランの歴史学者であるジャネット・アファリーは書いている。
その20年後には、急進的な新聞や女性誌が、一夫多妻制やベールの着用、男性の安易な離婚に反対する記事を掲載している。女性たちは協力し合って、女子教育のための資金を集めた。
1933年には、879校の女学校に5万人以上の生徒が通っていたとアファリーはつけ加えている。1978年には、大学生の3分の1が女性だった。同じ頃、イランの教師と医学生のおよそ半数は女性だった。
■家父長制を覆そうとする国の「反動」
このように、何十年にもわたって女性の権利獲得に向けて一定の進歩を遂げてきた国が、わずか数年で、そうした進歩の多くを失ってしまった。なぜそんなことになってしまったのだろうかと、イラン革命以来、学者やフェミニストたちは疑問を抱いてきた。
この疑問は、世界のほかの国々にも当てはまる。現在、ヨーロッパの旧社会主義国は保守主義へと転向し、アフガニスタンではタリバンが復権している。かつて家父長制を覆そうとした社会が、いまや正反対のことを成し遂げようとしているように見える。女性の解放に向けて一歩を踏み出すたびに、反動のリスクがあるようだ。
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オックスフォード大学で工学、キングス・カレッジ・ロンドンで科学と安全保障の修士号をそれぞれ取得。オックスフォード大学・キーブルカレッジ名誉フェロー。BBCやガーディアンなど英米の主要メディアに多数出演、寄稿。著書に『科学の女性差別とたたかう』『科学の人種主義とたたかう』など。
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(科学ジャーナリスト アンジェラ・サイニー)
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