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石田三成は処刑、毛利は減封、でも島津は…関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた西軍武将たちが辿った意外なその後

プレジデントオンライン / 2024年11月6日 17時15分

関ヶ原古戦場(写真=Drivephotographer/CC-Zero/Wikimedia Commons)

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、西軍の武将たちを次々に処分した。歴史評論家の香原斗志さんは「だが、家康は島津家の本領を安堵した。関ヶ原からの決死の退却が功を奏したと言える」という――。

■関ヶ原合戦の戦況を一変させた「あの男」の裏切り

天下分け目の関ヶ原合戦は慶長5年(1600)9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場に開戦した。その日、山に囲まれたこの盆地には朝霧が立ち込め、通常なら夜明けとともに戦闘がはじまるのに、なかなか戦端が開かれなかった。開戦は午前8時ごろだと考えられている。

それからしばらくのあいだ、西軍は東軍の猛攻の前に頑強に抵抗していた。ところが、昼ごろのこと。西軍として松尾山に陣取っていた小早川秀秋の軍勢が、下山して大谷吉継の軍勢に側面から襲いかかると、戦況は一変した。そして、稀代の逃走劇も繰り広げられることになったが、その前に、関ヶ原で開戦にいたるまでのいきさつを、簡単に振り返っておきたい。

上杉景勝攻略を停止し、西に踵を返した東軍は、西軍の主力が集結している大垣城(岐阜県大垣市)をめざして進軍した。だが、直前の軍議では、大垣城を攻めるのは避け、三成の居城である佐和山城(滋賀県彦根市)をめざし、さらに大坂まで進んで総大将の毛利輝元と決戦すべきだという意見が大勢で、そのように進むことになった。

むろん徳川家康側には、石田三成を野戦に誘い出すというねらいがあった。一方の三成側は、輝元が幼い豊臣秀頼を引き連れて進軍してくることに期待をかけたが、実現しない。

こうして西軍は、大坂の加勢なしに東軍を倒すほかなくなり、大垣城を出て関ヶ原に向かった。第一隊を石田三成、第二隊を島津義弘、第三隊を小西行長、第四隊を宇喜多秀家が率いていた。

■宇喜多も三成も逃走したのちに残された

今回の話の主役は第二隊を率いた島津義弘である。島津隊は午前4時ごろに関ヶ原に到着。そこに参加していた神戸五兵衛の覚書によれば、「石田隊は島津隊の東に位置していた」という。続いて、小西隊が到着して島津隊の右に陣取り、最後に到着した宇喜多隊が、石田隊、島津隊、小西隊の南方にそびえる天満山の前に陣取った。

午前中は戦線が膠着状態だったのは、内通している小早川隊が形勢を傍観して動かなかったからだった。焦った家康が「問い鉄砲」を放って下山をうながすと、小早川隊は松尾山を下って大谷隊に突入した。

大谷吉継には小早川の離反は想定どおりで、当初は応戦していたが、松尾山の麓に陣取っていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保が一斉に離反するにおよんでは、もう防戦しきれず、吉継は自刃。この状況で家康は旗本勢に一挙に進撃させ、西軍の各部隊は次々と崩れていった。

大谷隊の次に崩れたのが小西隊で、次に宇喜多隊が崩れた。この期におよんで、激しく抗戦していた石田隊も潰えた。すでに宇喜多秀家も石田三成も逃走したのちに、最後まで戦っていたのが島津隊だったが、東軍に包囲され、退路を断たれてしまう。

このため壮絶な退去劇が展開されることになったのだが、その様子を具体的に見る前に、主役である島津義弘について簡単に整理しておきたい。

■慎重な兄・義久と勇猛な弟・義弘

義弘は天文4年(1535)、島津家の15代当主、島津貴久の次男として生まれ、父の家督を継いだ兄の義久を補佐した。天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐後、降伏しながらも薩摩(鹿児島県西部)と大隅(鹿児島県東部)が島津家に安堵されると、兄から家督を譲られて17代当主となった。

ただ、その後も兄の義久が政治に関しても軍事に関しても実権を握っており、家督の譲渡は形式的なものだった可能性もある。だが、そのことはのちに功を奏している。

島津義弘像・尚古集成館所蔵品
島津義弘像・尚古集成館所蔵品(写真=Drivephotographer/CC-Zero/Wikimedia Commons)

義弘の勇猛ぶりは名高い。秀吉の九州征伐の際も兄の名代として戦場に赴き、みずから刀を抜いて敵陣に斬り込んだともいわれる。朝鮮出兵に際しても、慶長の役における泗川(しせん)の戦いでは、7000の兵で3万を超える敵を討ったと伝えられる。

そして関ヶ原だが、義弘は兵を1000しか率いていなかった。中央権力とは距離を置くのが兄の義久の志向で、このため義弘に十分な兵力を送らなかったのである。西軍への参戦を決意し、すでに伏見城攻めにも参加した義弘は、国許に援軍を求め、390人ほどの兵が新たに上京した。

■島津がとったすさまじい作戦

さて、関ヶ原で退路を断たれた島津隊だが、ふつうはここで万事休す。だから義弘は自刃を覚悟したが、それを止めたのは甥の島津豊久だった。このとき、義弘を国許まで帰すために採られたのが、玉砕戦法というべき「捨て奸(がまり)」だった。

敵軍のなかを正面突破するしかない場合、ふつうに突進したのでは全滅しかねない。そこで正面突破してから、殿(しんがり)となった小部隊が戦って敵を足止めし、全滅するとまた別の小部隊が全滅するまで戦う、ということを繰り返して時間を稼ぎ、本隊と大将を逃がすのである。さらに、数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃させた。

一面が東軍ばかりのなかに突進した島津隊は、こうして豊久も、義弘の家老の長寿院盛淳も命を落とした。しかし、結果としてこの戦法が成功したのは、島津隊は義弘への忠誠心が強いうえに(そうでなければ「捨て奸」などという戦法はとれない)、射撃の腕前が高かったからだといわれる。

追撃した家康の四男の松平忠吉は傷を負い、同じく徳川四天王の井伊直政も銃弾を受けて落馬。このため家康は追撃をやめさせ、義弘を中心に80人余りが薩摩まで逃げ帰ることができた。

ちなみに、井伊直政はそのケガが原因で、合戦から2年足らずで死去している。また、慶長12年(1607)に死去した松平忠吉も、このときのケガの影響は小さくなかったといわれる。島津義弘は関ヶ原合戦の最後の最後で、東軍に大きな損傷をあたえたのである。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」
狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(画像=関ケ原町歴史民俗学習館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■まさに「逃げるが勝ち」

このように島津義弘にかぎっては、実際、「逃げるが勝ち」であった。なにしろ、領土はそのまま安堵されたのである。

ところが、西軍のほかの将はそうではなかった。小西行長は伊吹山中(滋賀県と岐阜県の県境)で、石田三成は近江の古橋村(滋賀県瑞穂市)で、安国寺恵瓊は京都六条で捕えられ、みな引き回しのうえ処刑された。長塚正家は自刃し、増田長盛は配流になった。

さらには、西軍の総大将であったとはいえ、戦闘に参加しなかった毛利輝元は、事前に家康側とのあいだで領土保全の約束をしていたにもかかわらず、領土を3分の1以下に削られた。長宗我部元親にいたっては、まったく戦闘に参加しなかったのに改易された。

なぜ島津だけは「逃げるが勝ち」となったのか。そこでは前述のように、兄の義久の存在が功を奏した。義弘は謹慎し、家康側との交渉の前面には義久が立ち、都から遠く離れた薩摩にいて、中央の事情はわからなかったと主張したのである。

一方、義弘の子の忠恒(のちの家久)は鹿児島城を築いて武力衝突に備えるなど、有事の備えにも抜かりがなかった。さすがに家康は放置できず、島津討伐のために3万の軍を薩摩に送ったものの、途中で撤退させている。関ヶ原に主力を送らずに兵力を温存した島津家は、長期戦にも耐えられる状況で、家康は躊躇したと考えられる。

■なぜ島津だけが本領を安堵されたのか

もちろん、日本の最南端という地理的状況も、島津家に有利に働いただろう。家康と親しい近衛前久が仲介に当たったことも指摘される。加えて、義弘の人徳を無視することができない。

勇猛で誠実な義弘はその人間性が尊敬され、福島正則も損得抜きで支援を申し出たし、傷を負わされた井伊直政にして、島津家に寛大に対応するように家康に進言している。元和5年(1619)に義弘が死去した際、幕府はすでに殉死を禁じていたにもかかわらず、13人が後を追ったという記録からも、その人徳がうかがい知れる。

とはいえ、島津家の当主に頭を下げさせないかぎり、家康の面目は立たない。そこで義久の上洛をうながしたが、高齢などを理由に応じない。結局、慶長7年(1602)12月、義久の代わりに甥の忠恒が上洛することで決着がつき、島津家の本領は安堵された。

ところで、関ヶ原から逃げ帰った西軍の将には、五大老の宇喜多秀家もいた。秀家は家康側の追跡をかわして薩摩まで逃げ切り、島津家の庇護下に入っていた。だが、家康が忠恒と和睦するにあたって秀家の存在が問題になり、身の安全が守られることを条件に家康側に引き渡された。

秀家はいったん久能山(静岡県静岡市)に置かれたうえで、慶長8年(1603)9月に八丈島に流され、そこで明暦元年(1655)まで生きた。子孫も長く八丈島で暮らすことになった。捕縛されていれば処刑された可能性が高いが、島津のもとまで逃げて助かった。この点でも、島津だけが「逃げるが勝ち」だったのである。

宇喜多秀家の墓
宇喜多秀家の墓(写真=さかおり/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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