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NHK大河ですべて描き切れるのか…藤原道長とバチバチに対立した三条天皇が迎えたあまりにみじめな最期

プレジデントオンライン / 2024年11月10日 15時15分

三条天皇とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「念願かなって天皇の座に就いたものの、藤原道長と対立したことにより、すべてを奪われてしまった」という――。

■三条天皇と藤原道長の冷戦はこうして始まった

三条天皇(木村達成)は「姸子(きよこ)を中宮とする」と藤原道長(柄本佑)に伝えた。姸子(倉沢杏菜)は道長が入内させた次女。道長はよろこんだが、その1カ月後、三条天皇は「娍子(すけこ)を皇后とする」と宣言し、「一帝二后をやってのけた左大臣だ。異存はあるまい」と言い放った。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第42回「川辺の誓い」(11月2日放送)の一場面である。

三条天皇が寵愛する娍子(朝倉あき)は、藤原氏の本流ではない済時の娘で、権力の後ろ盾がない。そんな女御を后にしたい三条天皇は、一条天皇の御代において、すでに定子(高畑充希)という后がいながら、定子が皇后、自分の娘の彰子(見上愛)が中宮という無理筋を押し通した道長の前例を逆手にとったのである。

道長は「それは難しゅうございます。恐れながら近年では、大納言の息女が皇后になった例はございませぬ」と反論したが、三条天皇は「それでも朕は娍子を皇后としたい」と譲らない。「できませぬ」と答えた道長だが、「そなたがこれをのまぬなら、朕は二度と姸子のもとには渡らぬ。渡らねば子はできぬ。それでもよいのか?」と三条。姸子に三条天皇の皇子を産ませたい道長は、痛いところを突かれてしまった。

そこで道長は、天皇の決定をのむ代わりに、娍子の立后の日に姸子の内裏参入をぶつけることにした。結果、娍子立后の儀は、多くの公卿が道長に遠慮して参加を見送ったために閑古鳥が鳴き、姸子の内裏参入は大いににぎわった。

■「やっと帝になれた」の意味

その後、病に倒れた道長からの辞表を受けとった三条天皇は、辞表は返すのが先例であるのに、「返したくないがのぉ」とつぶやいた。

「光る君へ」では、三条天皇と道長がこうして、対抗心をぶつけ合う様子が描かれているが、史実においても2人は冷戦状態にあった。道長の辞表を「返したくない」、すなわち、道長にここまま辞めてほしいというのは、三条の本心だったと思われる。

第42回には、藤原実資(秋山竜次)のもとに三条天皇からのメッセージが届けられ、そのなかに「やっと帝となれたゆえ、政を思いきりやりたい」という言葉があった。これは三条天皇を理解するキーワードといえる。というのも、三条は前帝の一条天皇より4歳年上で、事実、一条天皇の御代が25年も続いたのちに、「やっと帝になれた」のである。

年齢の逆転現象が起きた理由は、いわゆる「両統迭立」にあった。この時代、ともに村上天皇の皇子だった兄の冷泉天皇と弟の円融天皇の系統が、交互に即位することになっていた。このため、花山天皇(冷泉天皇の第一皇子)の次には一条天皇(円融天皇の第一皇子)が即位。このねじれのせいで、一条天皇より年長の三条天皇(冷泉天皇の第二皇子)の即位が遅れたのである。

■一刻も早く辞めてくれないか…

したがって、三条天皇が政に思う存分精を出したいと思うのは当然だったが、道長はそれでは困るのである。

三条の即位にあたり、道長は一条天皇の第一皇子だった敦康親王を排除し、自分の外孫である敦成親王を東宮にした。むろん、それは敦成親王を即位させ、みずからは摂政となって実権を握り、自身および自身の家系による権力基盤をさらにたしかなものにする、という目的があってのことだった。

しかも、三条天皇が即位した寛弘8年(1011)6月の時点で、道長は数え46歳。この時代には40歳をすぎればもう老齢で、しかも「光る君へ」ではあまりそのようには描かれなかったが、道長は案外病弱で、飲水病(糖尿病)の持病もあった。それだけに、自分の目が黒いうちに、できるだけのことを成し遂げたいという思いが強かったと思われる。

したがって、三条天皇の治世は道長にとっては、無駄な時間だったというほかない。「三条天皇が即位したその時から道長の心は秒読みを始めていたに違いない。早く、一刻も早く辞めてくれないかと――」という山本淳子氏の指摘(『道長ものがたり』朝日選書)が、道長の心情を端的に表している。

■内裏は焼失、心労を重ね眼病に

むろん、三条天皇は道長の心中を察していただろうから、冷戦は期せずして起こることになった。その端的な例が、すでに「光る君へ」で描かれた、道長の三男である顕信(あきのぶ)の出家だった。

三条天皇は道長を取り込もうと、道長の次妻の明子(瀧内公美)が産んだ顕信(百瀬朔)を、天皇の秘書官長である蔵人頭に抜擢しようとした。ところが、三条の術中にはまりたくない道長が断ったため、出世の機会を奪われて傷ついた顕信は寛弘9年(1012)正月、不意に出家してしまった。

その後は道長と三条天皇のあいだに波風が立つことが多くなった。ドラマでは三条の渡りがないと道長が心配していた姸子は、長和2年(1013)7月、禎子内親王を出産。それはいいのだが、姸子が内裏に戻った直後の長和3年(1014)2月9日、内裏が焼失した。

京都御所・承明門
写真=iStock.com/Alla Tsyganova
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Alla Tsyganova

それから1カ月も経たない3月1日、実資の日記『小右記』によれば、三条天皇は実資の養子の資平に、「ここ数日、片目が見えず、片耳が聞こえない」という旨を語った。道長と対立した挙句、内裏まで焼失し、心労をかかえた末の眼病だったと考えられている。しかも、3月12日にも火事があって、天皇のもとに代々受け継がれてきた数万もの宝物が焼失した。三条天皇の消耗ぶりは、いかほどだったことだろうか。

三条にとっては踏んだり蹴ったりの状況だったが、道長はこれがチャンスとばかりに3月25日、三条天皇に譲位を求めたのである。

■道長の日記から削除された記事

じつは、道長の日記の『御堂関白記』は、この長和3年の記事が最初からごっそりと抜けている。倉本一宏氏は「眼病を患った三条天皇に対し、道長が退位を要求したこの年の記事は、その内容の重要性もあって、道長自身が『破却』した可能性が考えられる」と書く(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。

この年、道長は三条天皇に、えげつなく譲位を迫り続けたということではないだろうか。

いかばかりか道長をかばうなら、天皇が病気で政務や儀式に支障が生ずれば、宮廷社会で信任を得られないので、譲位を迫るのに道理がないわけではない。だが、ともかく、道長を筆頭とする公卿たちによる三条退位に向けた作戦は、長和4年(1015)にピークに達する。

たとえば、『小右記』には4月13日のこととして、三条天皇が藤原隆家に語った話が記されている。「私の心地が非常にいいのを見て道長は不愉快になった」と三条は漏らしたそうで、実資は日記で道長を「大不忠」と罵っている。同じ『小右記』によれば8月19日、三条天皇は資平に、「道長がしきりに譲位を促してくる」と嘆いたという。

10月15日、三条天皇は最後の抵抗を試みる。娍子とのあいだに産まれた次女である女二宮(禔子内親王)を、道長の嫡男、頼通に降嫁させたいと持ちかけた。

だが、その間も三条天皇の眼病は回復せず、11月17日には、三条天皇が再建に心を砕いた内裏がふたたび焼失した。はたして偶然の災害だったのだろうか。三条の心中は察するに余りあるが、道長はこれを機に、さらに強く譲位を求めている。また、頼通が重病になったため、三条天皇肝煎りの女二宮との縁談も破談になった。

■最後の願いも死後に転覆させられた

12月15日、ついに三条天皇は道長に、翌年正月に譲位する旨を申し出て、翌長和5年(1016)、太上天皇となった。むろん、即位したのは一条天皇の第二皇子で道長の外孫、敦成親王だった(後一条天皇)。

譲位に際して、自身の第一皇子である敦明親王を東宮にすることを条件とし、それを道長に認めさせたのが、三条天皇のせめてもの救いだっただろうか。

その後、寛仁元年(1017)4月に出家し、まもなく崩御した。享年42。

三条天皇陵墓
三条天皇陵墓(写真=Si-take./CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

それから4カ月して、敦明親王は東宮位の返上を申し出ている。東宮として頼れる相手がいなくなったからだとされるが、道長からの無言の圧力が大きかった可能性も指摘される。『小右記』によれば、長和4年10月、道長は三条天皇に、「三条の皇子たちは東宮の器ではなく、故院(一条天皇)の第三皇子(敦良親王)こそ東宮にふさわしい」という旨を話していたという。

道長の思惑どおり、敦明親王に代わって東宮になったのは、道長の外孫(後一条天皇の弟)の敦良親王だった。冷戦はなにもかも、道長の勝利に終わったのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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