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父にはパチンコに、母には夜の仕事に連れて行かれ…4歳で児童養護施設に入所した少年が語った幼児期の記憶

プレジデントオンライン / 2024年11月18日 8時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SutidaS

親から離れて暮らす子どもたちはどんな困難を抱えているのか。乳児院、児童養護施設、里親家庭、養子縁組家庭等で暮らした経験をもつ人々にインタビューをしてきた、日本女子大学人間社会学部教授の林浩康さんは「子ども期に養育者に十分に甘えられず、依存体験を十分に積めないと、育ちづらさを抱えて青年期を迎えることもある。しかしながら、その後の人生において、家族ではない人との出会い、つながりにより、大きく人生が好転する人たちもいる」という――。

※本稿は、林浩康『里親と特別養子縁組 制度と暮らし、家族のかたち』(中公新書)の一部を再編集したものです。

■「出ていけ」と言われ、姉と家を出て交番へ

筆者はこれまで、親から分離され乳児院、児童養護施設、里親家庭、養子縁組家庭等で暮らした経験をもつ方々にインタビューを行ってきた。その中から、ここでは施設や里親家庭で暮らす以前の生みの親との生活状況について語られている部分を抜粋し、その体験事例をまずは共有したい。名前はすべて仮名である。

玲子さん(24歳)は、幼少期は家族一緒に暮らしていたが、そのときの記憶はほとんどない。玲子さんは「記憶を消していると思うんです」と語る。児童養護施設に入所した経緯については、父親の暴力が原因で母親が幼少期に家を出ていき、その後、父、兄、姉とで暮らしていた。あるとき父親にひどく叱られて「出ていけ」と言われ、姉と家を出て交番に行き、小学1年生の春休み中に一時保護された。小学2年生の4月から児童養護施設で暮らすことになった。

公太さん(21歳)は、小学2年生のときに児童養護施設に入所したが、暴力事件を起こし、非行少年等が入所する児童自立支援施設で生活。その後、児童養護施設に移り、高校に入学するが2カ月で中退。再び暴力事件を起こし、少年鑑別所、少年院で生活。退院後、自立援助ホーム(家族と暮らせず、一人暮らしにも無理がある義務教育修了後の子どもたちが生活する施設)や、更生保護施設で生活。ここでも暴力事件を起こし、現在は保護観察中で一人暮らしをしている。

■ラーメンのすすり方もわからなかった

両親と妹と小学2年生まで一緒に暮らしていたが、小さい頃の記憶はあまりない。母親が怒って、椅子やリモコンを投げてきたり、父親がお酒を飲み暴れて殴られたりした記憶しかない。

小学2年生のとき、両親が家に帰ってこない日が続き、公太さんと妹の2人だけで生活していた。小学校に妹を連れていったときに担任の先生が心配してくれ事情を話したら、その日に妹と一緒に児童相談所に一時保護された。家では卵かけご飯とお茶漬けしか食べたことがなかったので、夕食に出たラーメンの食べ方がわからなかった記憶がある。一時保護から家に戻れるのかという不安が大きかったのを記憶している。

玲子さんは、幼少期における家族一緒の記憶がほとんどない。筆者がインタビューを行った他の人たちからもそうした発言をよく耳にした。「記憶を消していると思うんです」と語ったように、過酷な体験については覚えていない傾向にあることが理解できる。公太さんのように、多様な養育場所を体験すること自体、大きな不安感や喪失感が積み重ねられる。生活体験が乏しく、ラーメンのすすり方もわからなかった。暮らしの中で学ぶことは多々あるが、そうした体験も乏しく、生活する上での多様な術が身に付いていないことが予測できる。体験格差が将来的に及ぼす影響も大きいだろう。

■両親が帰ってこず、ずっと泣きながら待っていた記憶

義治さん(35歳)は、両親の離婚後、母親と暮らすが養育が困難となり、4歳のときに児童養護施設に入所。高校卒業まで生活。

両親が帰ってこず、ずっと泣きながら待っていた記憶がある。父親のスクーターの前に乗ってパチンコによく連れていかれ、床に玉が転がってたのを覚えている。両親は頻繁にけんかし、寝たふりをして言い合っているのを聞いていた記憶がある。父親は酒をよく飲み、怖かった。

両親が別れた後、母親と東京に出てきてからも、母親がずっと父親のことを悪く言い続けるので、そういうイメージしかない。でも実際に父親から殴られたりはしなかった。母親は夜の仕事に義治さんを一緒に連れていき、グラスにポッキーが入っているのを見て不思議に思った記憶がある。母親が義治さんを育てることが次第に困難となり、児童養護施設で生活するようになった。

■父親の金の使い方が荒く、水道、電気、ガスを止められた

浩二さん(23歳)、大学4年生。母親について記憶にあるのは、家を出ていくときの姿だけである。その後父親は覚醒剤で捕まり、父方の親族の家を転々とする生活で、父親とはほとんど一緒に生活しなかった。親族は朝鮮学校の教育を受けていたため、日本の教育を受けさせたくないという思いが強く、小学校には通っていなかった。

中学1年生のときに祖父がやっていた造園会社が倒産し、そこで働いていた父親が失業した。その後父親は就職せず、生活保護を受給しながら父と妹の3人で生活するようになった。父親の金の使い方が荒く、水道、電気、ガスを全部止められて、父親に公園の水をくんでこいと言われ、カセットコンロでお湯を沸かしてお風呂に入る生活であった。ご飯も食べられず、無人販売の野菜を盗んだり、父親から友達やおばさんから金を借りてこいと言われたりしたこともあった。

■「子どもが出入りしない場所」に身を置く気持ち

中学校では居場所もないし、勉強もついていけないので、中学1年生の頃から学校へは行かなくなった。父親が夕方から深夜までお酒を飲んでいて、正座して父親の隣に座っていなければならなかった。その間はご飯も食べられなかったし、トイレにも行けず、ただそこに座って愚痴を聞かされるとか、殴られるとか、そういう生活がずっと続いていた。

父親が寝静まってから残った物で飢えをしのぐという生活であった。

義治さんは幼少期、母親には夜の仕事に、父親にはパチンコに連れていかれた。通常子どもが出入りしないこういった場に身を置いていたときの気持ちを話すことはなかった。また両親の言い合いを寝たふりをして聞くというのは、子どもにとっては過酷な体験であろう。

浩二さんは中学の頃から父親の酒の相手をさせられ、暴力も受けてきた。親とケア役割が逆転し、感情交流を通した依存体験も十分になされなかったであろう。

■裕福な暮らしのなか、とにかく父が怖かった

美和さん(21歳)は、両親の離婚後、父親と生活。高校1年生のときに、父親の身体的、心理的な虐待により里親家庭に一時保護委託され、その後児童養護施設で19歳まで生活。

幼少期から感情の起伏が激しい父親を怒らせないようにとつねに気遣っていた。父親が一番厳しかったのはご飯を食べるときで、こぼしてしまったりすると、「出ていけ」と言われてレストランの外に立たされた。母親も父親の顔色をうかがって生きているような感じであった。暮らしは結構裕福で、クリスマスには家の近くのホテルに部屋を取ってパーティーをしたりしていた。学校もずっと私学で、語学ができるようにと幼稚園はインターナショナルスクールに通っていた。でも、そんな裕福な暮らしを楽しいと感じたことはなく、とにかく父が怖かった。

クリスマスツリーを飾る女性
写真=iStock.com/Liudmila Chernetska
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Liudmila Chernetska

不思議なことに、母親のことを全然覚えていなかった。父親に反抗しない母親が好きではなく、なんで子どもを守らないんだろうと思っていた。母親は突然いなくなったりもしていた。ある日買い物に行ってくると言って出かけたきり戻ってこなくなった。自殺をほのめかすような話もしていた。今思えば、父親の女性関係とかでいろいろと溜まっていたんだろうと思っているが、当時は身勝手な人だなと思っていた。今は母親と関係が途絶えている。

■足の踏み場もない家で、母親から暴力を受けてきた

祐二さん(30歳)は、足の踏み場もない家で、母親から暴力を受けて育つ。小学6年生のときに里親委託されるが、里親家庭での生活が困難となり、4カ月後には児童自立支援施設に措置変更される。1年後に児童養護施設に措置変更され、高校卒業時までそこで生活する。

林浩康『里親と特別養子縁組 制度と暮らし、家族のかたち』(中公新書)
林浩康『里親と特別養子縁組 制度と暮らし、家族のかたち』(中公新書)

最も古い記憶は、3~4歳の頃、母親が家で掃除機をかけている場面である。その頃の母親は、最低限の家事はやっていた。しかし小学校入学前から家事ができなくなり、家がごみだらけになった。床が見えないぐらいに積もったごみの上に、布団を敷いて寝ていた。母親は金銭管理もできず、有り金をすべて使ってしまうので、毎朝父親が置いていくわずかなお金で生活していた。父親は母親からの暴力を避けるために、ほとんど家にはいなかったが、2~3日に1度、祐二さんを銭湯に連れていってくれたり、仕事が休みの日にはどこかに連れていってくれたりした。

小学校の高学年頃から自分の家の異質さに気付いていた。友達は祐二さんを自宅に招いてくれるが、その友達をごみだらけの家に招くことはできなかった。ごみの上に敷かれた布団に顔を埋めて、「このままこの家にいたら、人生どうなるんだ!」と叫んでいた。次第に家を避け、友達の家やゲームセンターで過ごすようになった。夜、仕事を終えた父親がゲームセンターにいる祐二さんを迎えに来て、母親の寝静まった家に一緒に帰る。そんな生活であった。

■親にケアされるべき子どもが「親をケアする」状況

当初は自分の置かれた環境を当たり前として認識していても、祐二さんのように友人の家に遊びに行った際、自身の家庭環境の異質さに気付き、自己否定感が促されることもある。美和さんも祐二さんも年齢不相応な気遣いや体験を強いられ、本来親にケアされるべき子どもが逆に親をケアする役割を担っている面がある。美和さんは経済的に豊かな生活を送ってはいたが、父親の機嫌を過剰にうかがう生活を強いられ、母親もあてにはできず、親に甘えるという依存体験も叶わなかった。

子ども期に養育者に十分に甘えられず、依存体験を十分に積めないと、育ちづらさを抱えて青年期を迎えることもある。その結果、反社会的、あるいは非社会的行動が促される場合がある。普通の暮らしの中での生活体験や感情交流を主とした依存体験が十分に得られず、被害体験や喪失体験を抱える者にとっては当然かもしれない。

しかしながら、その後の人生において、家族ではない人との出会い、つながりにより、大きく人生が好転する人たちもいる。子ども時代の体験は後の人生に大きな影響を与えるといわれる一方で、それにより人の一生が決定されてしまうほど、人生の可能性は閉ざされてはいないともいえるだろう。

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林 浩康(はやし・ひろやす)
日本女子大学人間社会学部教授
大阪府生まれ。北星学園大学助教授、東洋大学教授などを経て、現職。専門分野は社会福祉学。著書に『児童養護施策の動向と自立支援・家族支援』(中央法規出版)、『子ども虐待時代の新たな家族支援』(明石書店)、『子どもと福祉』(福村出版)など。

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(日本女子大学人間社会学部教授 林 浩康)

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